パウロはどのような者であったか

真理

パウロが召されたのは、ガリラヤ湖に来られたイエスにではなく、天におられる、昇天し、高く上げられたイエスによってでした! 主はなぜ、パウロを得て、またパウロの務めに彼の天の務め(人を牧養し、キリストのからだを建造する)を反映するようにされたのでしょうか?
パウロはテサロニケ人への第一の手紙で言っています、「わたしたちがあなたがたの間で、あなたがたのためにどのような者であったかは、あなたがたがよく知っているとおりです」(テサロニケ人への第一の手紙第一章五節)。パウロの牧養は、彼が「どのような者であったか」にありました。彼という人は、主の方法であり、彼の存在が、彼の行為となりました。
コリント人への第二の手紙は、パウロの自叙伝と見ることができます。その中に描かれていることは、この使徒の生活、経験と務めです。

十字架による務め
パウロは、彼の手紙の中でわたしたちに見せていることは、わたしたちがもし、キリストの務めを持とうとするなら、わたしたちは十字架の働きによってキリストの経験を持たなければならないということです。コリント人への第二の手紙第一章九節は言います、「実に、わたしたちは自ら、自分自身のうちに死という答えを持ちました.それは、わたしたちが自分自身に信頼するのではなく、死人を復活させる神に信頼するためでした」。使徒たちが患難による圧迫の下にあって、生きる望みをさえ失った時、彼らはこの苦難の後に何が待ち受けているのだろうと思ったことでしょう。それに対する答え、応答は死です。しかしながら、死の経験はわたしたちを必ず復活の経験へともたらすのです。復活とは、まさに死人を復活させる神です(ヨハネによる福音書第十一章二五節)。十字架の働きはわたしたちの自己を終わらせて、復活の中でわたしたちに神を経験させます。十字架の経験は、常に復活の神の享受をもたらします。

パウロの務めは、もろもろの苦難を通して、消耗させる圧迫と十字架の殺す働きを通して、キリストの豊富の経験をもって構成され、それによって生み出され、形成されています。

コリント人への第二の手紙は、パウロというこの模範、見本を提示して、どのように十字架の殺しが働き、どのようにキリストがわたしたちの存在に造り込まれるのか、またどのようにわたしたちがキリストの表現になるのかを見せています。わたしたちは、パウロの経験を持たなければなりません。それはわたしたちがキリストの奉仕者として構成され、神の新契約の務めを生み出すためです。

神の同労者
パウロはまた、神の同労者でした(コリント人への第二の手紙第六章一節)。神の同労者であるとは、神と縛られなければならないということです。あなたは自分自身を失い、神の中へと入らなければなりません。神のしもべであることは、神の同労者であることより容易です。神の同労者は神と共に縛られている人です。神が働かれる時、彼も働きますへの。神が歩まれる時、彼も歩きます。神が止まられるなら、彼も止まります。非常に多くの主のしもべたちは、働く事を好みますが、主と共に安息することができないでいます。召会が必要としているのは、有能な働きのできる人たちの一団ではなく、神と共に縛られた人たちの一団、すなわち神の同労者たちです。

第六章四節から十節は、神の同労者となる資格、証拠、しるしをわたしたちに見せています。四節から七節前半において、パウロは新契約の奉仕者の十八の資格を列挙しています。すなわち、多くの忍耐にも、患難にも、窮乏にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、食べずにいることにも、純潔にも、知識にも、辛抱強さにも、親切にも、聖い霊にも、偽りのない愛にも、真理の言にも、神の力にもと言います。パウロは三つのグループの事柄により、すなわち右と左の義の武器により、栄誉と恥辱により、悪評と好評により、神の奉仕者として自己推薦しています(七節―八節)。彼はまた七種類の人として、七つの方法で神の奉仕者として自己推薦しています。すなわち、「惑わす者のようでも、真実であり、知られていないようでも、よく知られており、死にかかっているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、死に渡されておらず、悲しんでいるようでも、常に喜んでおり、貧しいようでも、多くの者を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを所有しています」(八節後半―十節)。第六章四節から十節において、神の同労者の資格、証拠、しるしを見せています。

霊の中の人
使徒パウロは完全に霊の中の人でした。彼は神に教えられ、試みられ、肉に生きずに霊の中で生きるよう訓練された人でした。ですから、わたしたちは使徒パウロが召会に仕えるときに、すばらしい霊を持っていたことを見ます。それは神の霊を指しているのではなく、彼の再生された霊を指しています。パウロが彼の霊の中で仕えているとは(ローマ人への手紙第一章九節)、これは彼の態度や、思想や、知識あるいは感情のことを指しているだけではなく、彼の個人の霊について言っています。わたしたちは、九つの面からパウロの霊について語りたいと思います。

◎開いた霊
「コリント人よ、わたしたちの口はあなたがたに向かって開かれており、わたしたちの心は広くされています」(コリント人への第二の手紙第六章十一節)。

パウロは開いた霊を持っている人でした。彼はコリントの信者たちを自分が生んだ子供のように見ていました。コリントの信者が、使徒の教えから離れたときに、パウロは彼らを挽回しようとしました。ですから、彼が彼らを対処するときに、父親が子供に話すように語りました。使徒パウロは霊の中でコリント人に対して開いていましたが、それは容易ではありませんでした。なぜなら彼の務めは歓迎されていなかったからです。多くの人に歓迎される時、霊の中で彼らに開くことは容易です。ところが、他の人に批評され、反対され、見下げられる時に、あなたは「かたつむり」のように閉ざしてしまうでしょう。二匹のかたつむりが共に働くのを見たことがありません。すべてのかたつむりは個人主義的です。パウロは召会の建造のために、主の恵みを取り、十字架の働きにより彼の天然の人は砕かれました。この神聖な砕きは、彼が開いた霊を持つために、自己の殻を砕く神聖な砕きを必要とします。

◎率直な霊
「わたしたちに心を開いてください.わたしたちはだれに対しても不正を行なわず、だれをも堕落させたことはなく、だれからもだまし取ったことはありません。わたしがこのことを言うのは、あなたがたを罪に定めるためではありません.なぜなら、前にも言ったことですが、あなたがたはわたしたちの心の中にあり、わたしたちと共に死に、共に生きるに至るからです.あなたがたに対して、わたしは極めて大胆になっています.わたしはあなたがたを大いに誇っています.わたしは慰めに満たされ、わたしたちのすべての患難の中で、喜びに満ちあふれています」(第七章二節―四節)。

パウロは率直な霊を持った人です。パウロは非常に率直でしたので、コリント人に告げることができました、「わたしは愚かになりました。あなたがた自身が、わたしに強いてそうさせてしまったのです。なぜなら、わたしがあなたがたによって推薦されるはずであったからです」(第十二章十一節)。わたしたちは内側のずる賢い蛇のすべての要素から逃れなければなりません。キリストのからだである召会の地方的表現の中で、わたしたちはみな信実で率直でなければなりません。使徒パウロは率直な人であり、率直な霊を持っており、わたしたちもそうであるべきです。わたしたちは人の前で語ることができないことを人の背後で隠れて語るべきではありません。わたしたちの霊が、もしわたしたちに語らせないなら、わたしたちは語るべきではありません。もし語らせるなら、真実に率直に語らなければなりません。

◎純粋な霊
「このことを見なさい.あなたがたが神にしたがって悲しませられたことが、あなたがたの中に何という熱意を、さらには弁明を、さらには憤りを、さらには恐れを、さらには切望を、さらには熱心を、さらには処罰を生み出したことでしょう! あなたがたはあの問題では純潔であると、あらゆる点で自分自身を推薦したのです。そこで、わたしがあなたがたに書き送ったのは、あの邪悪を行なった者のためではなく、またその被害者のためでもなく、わたしたちに対するあなたがたの熱意が、神の御前であなたがたに明らかになるためです」(第七章十一節―十二節)。

また使徒パウロは純粋な霊を持った人でした。コリント人に対してパウロは自分を開き、多くの事を語りましたが、いかに彼の霊が純粋であるかに印象づけられます。率直な霊は純粋な霊を伴っていなければなりません。ある人があまり語らない人であるならば、他の人は、彼は純粋な人だと考えやすいですが、彼が口を開くならば、彼が純粋であるかどうか、すぐに現れます。もしわたしたちが純粋でなければ、わたしたちの率直さは人を破壊します。ある事柄で間違っている兄弟に言いに行く場合、わたしの霊は純粋であるだろうかと自分自身をテストしなければなりません。純粋な霊でその兄弟に語ることは、その兄弟を成就します。そうではなく純粋さのない率直であれば、聖徒たちにダメージを与え破壊します。召会生活の中で、わたしたちは率直で純粋な霊を必要とします。

 ◎大胆な霊
「わたしが二度目に滞在していた時、すでに言ったことですが、いない今も、前に罪を犯した人たちとその他のすべての人に、前もって言っておきます.今度、行ったなら、寛大にはしないつもりです」(第十三章二節)。

パウロはまた大胆な霊を持っていました。パウロは、臆病ではありませんでした。彼は虎のようでした。彼は真のキリストのしもべでした。わたしたちは臆する霊ではなく、大胆な霊を必要とします。それゆえにパウロはテモテに「神がわたしたちに賜わったのは、臆する霊ではなく」と告げたのです(テモテへの第二の手紙第一章七節)。

◎へりくだった霊
「しかし、わたしパウロが自ら、キリストの柔和と優しさを通して、あなたがたに懇願します.あなたがたが言っているように、わたしはあなたがたの間で、面と向かっては卑しくなっていますが、離れている時は、あなたがたに対して大胆です」(コリント人への第二の手紙第十章一節)。

パウロの霊は大胆でしたが、またへりくだっていました。ある人の霊が大胆であってもへりくだっていなければ、それは危険です。あまりに大胆なのですべての兄弟たちを殺すかもしれません。大胆さにはへりくだりでバランスがとれていることが必要です。一面において、大胆でなければなりません。他方において、へりくだっていなければなりません。しかし、人は非常に大胆でないときに、非常にへりくだっています。わたしたちは大胆である時、へりくだりが何であるのかを知りません。またへりくだっている時、何が大胆であるのかを知りません。わたしたちはホセア書第七章八節で言っている返さない菓子のようです。召会生活のために、わたしたちはパウロのように霊の中でへりくだっていて、また大胆であるというこの二つの特徴を持つ必要があります。わたしたちはへりくだりを伴う大胆な霊が必要であり、また大胆さを伴うへりくだりの霊が必要です。

◎愛の霊
「わたしは神のねたみをもって、あなたがたをねたんでいます.なぜなら、あなたがたを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです。ところが、わたしが恐れるのは、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが腐敗させられて、キリストに対する単純さと純潔を失いはしないかということです」(コリント人への第二の手紙第十一章二節―三節)。

パウロは大胆な言葉を語りましたが、彼の言葉には愛の霊が満ちていました。パウロの霊は愛の霊、いつも人に愛を示し、人を顧みる霊でした。わたしたちには感情を源とする愛が必要であるという意味ではなく、愛の霊、内側にいつも人を愛する霊を必要とするということです。パウロは霊の中で信者に対して率直であったのは、彼の霊の中で信者に対して多くの愛を持っていたからです。多くの場合、母親が子供に言うことは、子供たちのある行動が気に入らないので、子供たちに対して怒っているのですが、子供たちは母親が自分を愛していることを知っているのです。ある人の言葉は愛の言葉かもしれませんが、霊ではそうでないかもしれません。わたしたちは霊を認識することを学ばなければなりません。わたしがあなたを褒めるにしても、何かあなたに叱責の言葉をかけるにしても、わたしの言葉ではなく霊を識別しなければなりません。召会生活の建造のために、そのような愛の霊を必要とします。

◎優しい霊
「しかし、わたしパウロが自ら、キリストの柔和と優しさを通して、あなたがたに懇願します」(第十章一節)。

パウロの霊のもう一つの特徴として、彼の霊は優しい霊でした。あなたは言葉で大胆に語ることができても、やはり優しい霊が必要です。わたしたちは十字架の働きによって対処され、使徒パウロのように優しい霊の人となる必要があります。

◎自己を追い求めない霊
「ここに述べなかった事柄のほかにも、日ごとにわたしの上にのしかかってくるたくさんの圧迫、すべての召会に対する心配事があります。だれかが弱っているのに、わたしが弱らないでおれましょうか? だれかがつまずいているのに、わたし自身が燃えないでおれましょうか?」(第十一章二八節―二九節)。

パウロの霊は自分の利益を求めませんでした。自分のために何も求めない霊を持っていました。彼は自己から全く完全に徹底的に解放された霊を持っていました。彼の霊が求めるものは何であれ召会の益のためであり、キリストの権益のためでした。そのような霊は今日の召会生活の中で大いに必要です。もしわたしたちがみな恵みの中で助けを求めて主を仰ぎ、使徒パウロと同じ霊を持つなら、召会生活はごく自然に建造されます。

◎組み合わされる霊
「わたしの兄弟テトスに会えなかったので、わたしの霊には安息がなく、彼らに別れを告げて、マケドニアへ出発しました」(第二章十三節)。

パウロの霊の最後の特徴は、彼の霊がいつも他の人と組み合わされていたということです。彼の兄弟テトスが来なかったので、彼の霊には安息がありませんでした。わたしたちの霊は優しく純粋で愛があっても、他の聖徒たちと協力し、組み合わされていないかもしれません。彼の霊がいつも同労者と組み合わされ、諸地方召会と組み合わされ、彼を良く扱わない信者たちとさえ組み合わされたことを見ます。彼は絶えず組み合わされ、聖徒たちと一になり、諸地方召会と一になり、同労者たちと一でした。

召会を愛する者
使徒パウロの心は完全に召会のためであり、召会の上にありました。主の目に、主の感覚の中で、召会ほど尊いものはありません。エペソ人への手紙第五章は、キリストは召会を愛して彼女のためにご自身を捨てるほどであったと告げています(二五節)。今日、主は召会以外の何のためでもありません。彼は召会、彼のからだがこの地上で今日、人類の間にご自身を表現することを願っておられます。パウロは召会を愛する者でした。召会が彼にとってそのように尊かったのは、彼が主の心の願いが何であるかを認識していたからです。

使徒パウロは召会を愛する者の模範でした。コリントに在る召会はパウロについて、彼の背後で悪く言いました。彼らは、パウロが悪賢くお金を得ている、テトスを遣わして貧しい聖徒たちのための献金を集め、そのお金をごまかしていると言いました(第十二章十六節)。コリント人がそのようにパウロについて悪口を言ったにもかかわらず、パウロはなおも彼らを愛しました。彼は言いました、「しかし、わたしはあなたがたの魂のために、大いに喜んで費やし、自分自身を使い尽くしましょう。わたしはあなたがたを、あふれるばかりに愛すれば愛するほど、ますます愛されなくなるのでしょうか?」(十五節)。パウロはコリント人のために、彼が持っていたものを費やしました。それは彼の財物を指しています。彼にとって費やすということは、彼であるものを費やすことであり、それは彼の存在を指しています。パウロはとても率直で、純粋で、誠実でしたが、彼が務めをしていた召会は、彼は悪賢いと言ったのです。彼はこれに幸いではありませんでしたが、怒りませんでした。彼はなおもその召会を愛しました。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第5巻より引用

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