接ぎ木された命

真理

神と人との関係は一つの奥義であり、神の命と人の命とが結合されて一つの命となるという関係です。自然界にはこのことの絵があります。わたしたちはみな、この世の物質の事物が霊的な実際の象徴であることを知っています。植物界では、接ぎ木が行なわれ、品質の悪い木に、より健康で生産性の高い木を接ぎ木することで、新たな命を吹き込みます。そのような接ぎ木は、神とわたしたちの関係を説明します。クリスチャンの命は接ぎ木された命であり、神と人が結合されて有機的に成長する命です。

接ぎ木された命
聖書で啓示されている神と人との究極の関係は、創造主と被造物との関係よりもはるかに深いのです。一般的な観念とは、神は創造主であり、人は被造物であるというものです。神は天と地の主であり、万物を創造されました。ですから、小さく有限な人は、神を崇拝し、尊敬し、畏れなければなりません。神は全能ですが、人は弱くてもろいので、人は神に信頼し、頼らなければなりません。人々は試練と苦難の中にあるとき、天からの助けを求めるという考えが人の内側に生まれつき備わっています。人と神との関係についてのこのような見方は聖書的であるかもしれませんが、それは表面的です。聖書の啓示によれば、神と人との関係は人の天然の観念をはるかに超えています。神とわたしたちとの関係は、神がわたしたちとの命の結合を持ちたいということです。

A・B・シンプソンの詩歌「わたしはキリストと共に釘づけられ」の三節は、このように述べています、「自然の風景はみなその象徴が隠されています。麦粒が死ねば小さな麦粒を生み出します。卑しい枝がすばらしい木に接ぎ木されれば、実は小から大に変わり、苦いものから甘いものに変わります」(全訳詩歌、三六五番)。詩歌のこの節で表現されている考えは、ローマ人への手紙第十一章から来ています、「野生のオリブの木であるあなたが、彼らの間に接がれ、オリブの木の根の豊かな養分に共にあずかる者となったとしても、……もしあなたが、本来は野生のオリブの木であるものから切り離されて、栽培されたオリブの木へと、自然の性質に反して接がれたとしたら」(十七二四節)。わたしたちは貧しい、野生のオリブの木の小さな枝であり、良いオリブの木に接ぎ木されており、今や根の豊かな養分を享受することができます。より良い品質の木に、より低い品質の木の枝が接ぎ木されます。その結果、良い木が悪い枝を征服します。

これがクリスチャン生活の真の性質です。まことのぶどうの木である主イエスは、卓越した木です。ある日、わたしたちは恵みを通して信仰によって彼に接ぎ木されました。この接ぎ木を軽んじてはいけません。わたしたちにはもはや一つの命しかないという意味です。わたしたちの命は今、二つの命が接がれて一つにされました。この栽培されたオリブの木の豊かな根を享受する時、わたしたちの貧弱な命は征服され、徐々にわたしたちは栄えていきます。

交換された命ではない
多くのキリスト教の教師は、クリスチャンの命は交換された命であり、わたしたちに自分の貧しい命を放棄させ、より良い命を得るように教え、導いてきました。接ぎ木の観点から、このような交換の教えは間違っています。わたしたちのクリスチャンの命は、交換された命ではなく、接ぎ木された命です。二つの命は有機的に結合され、一つの命として共に生長します。

交換された命を提唱する人々は、ガラテヤ人への手紙第二章二〇節を引用して、自分たちの主張を支持します。しかし、彼らは最初の部分だけを用いて、「わたしはキリストと共に十字架につけられました」と言います。彼らは十字架につけられたので、彼らの命は終わらされたと思っています。しかし、聖書の啓示によれば、十字架は復活をもたらすものであり、十字架につけられることは終わりではありません。十字架につけられることは、復活の唯一の秘訣です。ガラテヤ人への手紙第二章二〇節は「わたしはキリストと共に十字架につけられました」で終わっていません。この節は続けて、「わたしは今、肉体の中で生きているその命を、……神の御子の信仰の中で生きるのです」と言います。一方で、「わたしは……十字架につけられました」。しかし、他方で、「わたしは今、……生きるのです」。わたしたち再生された人たちには、十字架につけられた古いわたしと(ローマ六・六)、再生された新しいわたしがあります。古いわたしについて、パウロは「もはやわたしではなく」と言いました。新しいわたしについて、彼は「わたしは……生きるのです」と言いました。十字架につけられた古いわたしには、神性はありません。再生された新しいわたしには、命としての神が加えられています。古いわたしが復活し、神が加えられると、新しいわたしになります。わたしたちは交換された命を生きているのではなく、接ぎ木された命を生きているのです。

人と神は似ている
接ぎ木する二本の木は、非常によく似ていなければうまくいきません。例えば、バナナの木をぶどうの木に接ぎ木することはできません。皮膚の移植も同様です。移植に使う皮膚が身体と異なるなら、拒絶反応が起こります。わたしたち人の命は、どのようにして神の命に接ぎ木することができるのでしょうか? 聖書は、この二つの命がある程度、似ていると告げています。人は、神のかたちに、神の姿にしたがって造られました(創一・二六)。神の姿とは何でしょうか? これは非常に難しい質問です。しかし、主が肉体と成って地上に来られる前に、神が人の体の形で現れた事例がありました。創世記第十八章で、アブラハムが天幕の入り口に座っていると、三人の人が近づいて来ました。そのうちの二人は明らかに御使いでしたが(参照、一―二、二二節)、一人は明らかに主エホバでした(十三節)。彼は一人の実際の人としてやって来ました。アブラハムは彼の足を洗い、食事を提供しました。彼はアブラハムに、友と談話するような普通の方法で話しました。これは、人には神の姿にしたがって造られた体があることを示します。

それだけでなく、創造の時、神は人の鼻の中に命の息を吹き込まれました(二・七)。この命の息が人の鼻の中に入るとすぐに、人は生きた魂となり、パースンを持ちました。そのパースンは実際に神のかたちにしたがっていました。神には愛の感覚があり、また願望があり、思想があり、知恵と知性があります。人の感情、傾向、知性は神と符合しています。ある面で、わたしたちは神の絵です。この絵は神ご自身ではなく、神のかたちです。神は人を彼ご自身のかたちに造られました。

前述の「命の息」の「息」という言葉の原文は、箴言第二〇章二七節で霊と訳されています、「人の霊はエホバのともし火であり、内なる存在の最も深い部分をすべて探る」。神の命の息が人の中に入って、人の霊となりました。この霊は人の最も貴重な部分です。ゼカリヤ書第十二章一節は、神は「天を延べ、地の基を据え、人の霊をその中に形づくられた」方であると述べています。天と地と人の霊が宇宙の三つの重要な項目としてどのように並べられているかに注意してください。ゼカリヤがここで人の創造について語った時、彼は体についてではなく、霊について語りました。神はご自身を入れる器として人の霊を創造されました。わたしたちの霊は、わたしたちが神と接触するための器官です。神のかたちにしたがって造られたこの人には受信機があり、それはラジオの受信機のようです。これが人の霊です。この受信器が開かれるとすぐに、神は入って来ることができます。人は霊を持つ者に創造され、神と結合する準備ができています。

接ぎ木には切断が必要である
接ぎ木をするとき、枝と木を一緒に切断する必要があります。枝を木に結ぶだけでは、有機的な結合は生み出されません。両方とも切断しなければならず、それから切断した部分を共に接ぎ木します。二つの傷口が接がれるときはじめて、それらは結合されて枝を生長させることができます。いつ主イエスは切断されたのでしょうか? 十字架上にいたときです。彼の脇は突き刺され、血が流れ出ました。主イエスの傷が罪人を待っています。いつ罪人は切断されるのでしょうか? 罪人も十字架上で切断されます。罪人は悔い改めて主を受け入れるとき、この切断を経験します。

ローマ人への手紙第十章八節は、主が近くに、わたしたちの口の中におられると告げています。彼は空気のようです。わたしたちが呼吸するなら、空気がわたしたちの中へと入って来ます。わたしたちが彼を必要とすることを告白するとすぐに、彼はやって来ます。わたしたちはまたとても穏やかに「主よ」と言うなら、彼を吸い込みます。多くの人は、「主よ」と言うとすぐに、内側で何かが起こったと証しすることができます。これは、二つの霊が一つの霊に結合されることであり、二つの命が一つの命に結合されることです。それはコリント人への第一の手紙第六章十七節で「主に結合される者は、主と一つ霊になります」と述べられているようにです。

かつて中国北東部に同労者がいました。彼は救われる前、キリスト教をとても見下していました。ある日、彼は寺院に入り、偶像の前の供え物のテーブルの上の開かれた聖書に目を留めました。彼はとても好奇心旺盛であったので、詩篇第一篇を読みました。この詩篇の言葉は彼に非常に深い印象を与えたので、彼は聖書を注意深く読むことに決めました。彼が読めば読むほど、ますます光が輝きました。彼は罪の責めを感じ、胸をたたいて泣き、悔い改めて地面を転がりました。そのような悔い改めは切断ではなかったでしょうか? 彼は悔い改めによって切断された枝となりました。その後、彼は救いを求めて主を呼び求めると、すでに切断されていた主を受け入れました。罪人の傷と主イエスの傷とが出会う所で、両者は共に結合されました。主はこの新しく結合された枝の中に住み始め、彼の中で成長して彼を養いました。

「信じる」ことと「バプテスマ」による接ぎ木
ヨハネによる福音書第三章三六節は、「御子の中へと信じる者は永遠の命を持つ」と告げています。ローマ人への手紙第六章三節は「中へと」と訳されたギリシャ語の前置詞を用いています、「キリスト・イエスの中へとバプテスマされたわたしたちはみな、彼の死の中へとバプテスマされた」。わたしたちはバプテスマされるとき、単に水の中へと入るだけではなく、キリストと彼の死の中へと入るのです。わたしたちには、信じて、バプテスマされる、という二つの段階が必要です。わたしたちは彼の中へと信じ、彼の中へとバプテスマされます。

このバプテスマは死を指しています。主イエスの死は彼に傷を残しました。この傷痕において、わたしたちは彼の中へとバプテスマされ、彼の中へと接ぎ木され、彼と結合して生長します。わたしたちは彼の死の中へとバプテスマされることによって、彼の中へと接ぎ木されます。この接ぎ木は一種の結合であって、生長の過程をもたらします。木の命の樹液が接ぎ木された枝の中に入り、枝は復活して生長し始めます。

主と共に成長する
五節はさらに次のように述べています、「もしわたしたちが、彼の死の様の中で彼と結合して生長したなら、彼の復活の様の中でも彼と結合して生長するのです」。原文では、「彼と結合して生長する」は、有機的な結合を暗示し、その意味はとても豊富です。例えば、皮膚移植をする場合、外科医は患者の太ももから皮膚の一部を切り取り、それを腕に貼り付けることがあります。数日後、太ももの皮膚は腕の組織と結合して成長します。二つは有機的に共に結合され、それから命の成長があります。これが、五節が語っている結合して生長することです。わたしたちは主イエスに接ぎ木され、今や彼の命と彼の豊富な供給を受けています。わたしたちが主イエスを享受するのと同時に、生長が進行しています。結合は、二つの枯れた木を共に置くことのようではありません。それらが互いにどれほど近くに置かれても、結合して生長することはありません。生ける枝を生ける木に接ぎ木しなければなりません。結び付くだけでなく、また有機的に結合して生長し、枝がより良い木の命の豊富を享受するようにします。

中国語和合訳聖書は、「彼と結合して生長する」を「彼と結合する」と訳しています。これは不完全です。なぜなら、その中に「彼と共に結合して生長する」という思想が含まれていないからです。結合して生長することがうまくいくためには、接ぎ木が必要です。二つの皮膚が移植後に共に生長しないなら、移植された皮膚は数日以内に腐敗します。共に結合することは生長をもたらさなければなりません。そうすれば、二つの命は一つの命になります。

死と復活における接ぎ木と生長
ローマ人への手紙第六章五節の接ぎ木と生長の両面に注意してください、「もしわたしたちが、彼の死の様の中で彼と結合して生長したなら、彼の復活の様の中でも彼と結合して生長するのです」。第一の面は、彼の死の様の中にいることです。それは、わたしたちが彼の中へと受け入れられることを語っています。第二の面は、彼が復活の様の中で、わたしたちの中へと入って来て生長することを語っています。この第二の面が復活です。

最初の接ぎ木は主の死と関係がありました。彼はまことのぶどうの木であり、十字架につけられた時、完全に切断されました。今や、彼の切られた傷は、悔い改めた罪人を待っています。そして彼の命を与える霊がわたしたちの中で働き、わたしたちの中の人を捜し求め、わたしたちを照らし、わたしたちを悔い改めさせます。わたしたちの悲しみと涙は、わたしたちが受ける切り傷です。わたしたちはただ主を信じ、主にわたしたちを救うように求める以外に選択はありません、「主よ、わたしのために死んでくださり、感謝します。わたしのために血を流してくださり、感謝します。わたしを救ってくださり、感謝します」。このとき、わたしたちは主の中へと受け入れられ、主の死の様の中で主と共に生長するのです。

いったんわたしたちが主に接ぎ木されると、彼の復活の命がわたしたちの中へと入り、内側のあらゆる消極的な要素を取り除きます。彼の命は復活の中でわたしたちのものとなりました。彼はわたしたちの最初に創造された機能を高め、わたしたちの全存在を豊かにし、強化し、浸透します。この新しい命は、二つの命が一つに結合された命です。この結合には、勝利、命、光、力、そして他のすべての神聖な属性があります。これはすべてわたしたちのものです。それは交換によってではなく、計算によってでもなく、彼の中へと接ぎ木されることによってです。

何年もの間、わたしたちは、聖書が主との結合についてわたしたちに語っていることを経験する方法を模索し、尋ね求めていました。わたしたちは貧しい命を主イエスの良い命と交換しなければならないという他の人の教えに従ってきました。わたしたちはまた、罪から解放される道として「認める」ことを実行しようとします(ローマ六・十一)。わたしたちは容易に罪を犯すので、わたしたち自身がすでに死んでいるのを見て、その事実を認めなければならないと教えられてきたからです。しかし、この認めることの結果は失望でした。わたしたちが認めようとする前、わたしたちの罪は眠っています。しかし、わたしたちは認め始めるとすぐに、この罪がまだ死んでおらず、以前よりも生きていることを認識します。徐々にわたしたちは、ローマ人への手紙が交換された命や認める方法について語っているのではなく、接ぎ木された命について語っていることを見ます。これが意味するのは、わたしたちにどんな欠け目があっても、主イエスの尊い木に接ぎ木される限り、彼の並外れた命がわたしたちの中へと入り、わたしたちの欠点と短所を飲み尽くし、わたしたちの命を豊かにし、引き上げ、変えるということです。

神の命と人の命を接ぎ木するというこの概念は、わたしたちの人の思いにはなじみがありません。ですから、わたしたちは聖書を読むとき、それを省いてしまいます。今や、わたしたちは、救われた人々が生きる命は、二つの命が一つに結合された命であるという深い印象を持つ必要があります。主の恵みによって、わたしたちは悔い改めました。悔い改め、信じることによって、わたしたちは神の命に接ぎ木されました。この接ぎ木の中で、わたしたちは彼と結合して生長します。それから復活において、彼の命はわたしたちの中で成長し、神聖な命はわたしたちの中でわたしたちに供給します。これがクリスチャンの命、すなわち、接ぎ木された命です。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第8巻より引用

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