使徒たちの教えと 初めの愛を保つ

真理

使徒行伝がわたしたちに示しているのは、使徒たちが何度も、アジアの地を訪れて務めをし、アジアに在る諸召会を立てたということです。その中でも、エペソに在る召会は、完全にパウロの務めによって立てられましたが、彼らは使徒パウロの務めを捨てて、そこから徐々に落ちていきました。このゆえに、使徒ヨハネは九十年に、エペソに在る召会が落ちていった原因が、初めの愛から離れ去ったことにあることと、また命の木としてのキリストの真の享受を失ったことにあることを書簡に書き、彼らを叱責しました。

 

エペソに在る召会はパウロの務めから離れ去った
パウロはテモテへの第二の手紙第一章十五節で、「アジアにいる者たちはすべて、わたしから離れ去りました」と言っています。アジアとは、ローマから遠く離れた小アジアにあるローマ帝国の州です。投獄されていたパウロは、ローマからテモテに手紙を書き送りました。パウロが「アジアにいる者たちはすべて、わたしから離れ去りました」と言ったことが示しているのは、彼らがパウロという人から離れ去ったということではなく、パウロという人が彼らからとても遠くに離れたということです。この節は、彼らがパウロの務めを捨て去ったことを示します。アジアに在る諸召会の中で、エペソに在る召会は使徒行伝第十九章にあるように、パウロによって完全に立てられました。彼らは使徒パウロの務めから、福音、教え、成就を受けて、立てられました。しかし、パウロがローマで投獄されていたとき、彼らはパウロの務めから離れ去りました。

この出来事が起こったのは、アポロの教えと関係があります。使徒行伝第十八章は、アポロが「聖書のことで力があった」と言っています(二四節後半)。わたしたちが知らなければならないのは、ここの「聖書のこと」とは、三十九巻から成る旧約聖書のことを指しているということです。アポロは旧約聖書を解釈することにはたけていましたが、パウロのビジョンの中にはいませんでした。当時、アクラ、プリスカ、テモテなどがいて、前後してパウロの務めの中へと入ってきました。疑いもなく、彼らはパウロのビジョンの中にいて、彼と共に前進し同労しました。

パウロは異邦人の地で働きを行ないましたが、エペソの地を例外として、一か所に三年以上も定住することはありませんでした。使徒行伝第十九章がはっきりと語っているのは、パウロがエペソで三年の間教えたことが、アジア全体に影響を及ぼしたということです。エペソはアジアの州全体の中心地であり、パウロの存在はアジア全体に影響を与えました。しかし、エペソでは同時に、アポロからもたらされた消極的な種がまかれてしまっていました。このゆえに、パウロはエペソで三年もの間、務めを行なわなければなりませんでした。使徒行伝第二〇章において、パウロは各地に行って人々を励まし、ミレトを通過するとき、エペソの長老たちに来るように求めて、彼ら自身と群れ全体に気をつけるようにと語りました。なぜなら、パウロが去った後、凶暴なおおかみどもが彼らの間に入って来て、羊の群れを惜しまないことを彼は知っていたからです(二八―二九節)。

その後、パウロはエルサレムに向かいましたが、すぐに捕らえられ、獄に入れられました。彼は二年間カイザリヤで投獄されました(二四・二七)。彼はまたその後、ローマに行き、少なくとも二年間は投獄されました(二八・三〇)。パウロは獄から解放された後、まずテモテへの第一の手紙を書き、その手紙の一節はこう言っています、「わたしがマケドニアへ出発する時あなたに勧めたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人たちが異なる事を教えたりすることがないように……」(一・三―四)。わたしたちはここに、エペソに在る召会が抱えていた問題の手がかりを見いだすことができます。パウロが獄から出て一年ほどたった後、ローマ皇帝カイザルは召会を迫害し、再びパウロを投獄しました。パウロは獄の中でテモテへの第二の手紙を書き、その手紙の第一章十五節でこう言っています、「アジアにいる者たちはすべて、わたしから離れ去りました」。エペソに在る召会はこの事で率先してしまいました。ですから、主は啓示録において、七つの召会に手紙を書き送りましたが、その最初の手紙がエペソにあてて書かれたのです。

エペソでアポロが異なる事を教えて、まいた種が、最終的に召会の堕落の一つの基本的な要因となってしまいました。召会の堕落の原因は、エペソに在る召会が率先して使徒の教えから離れ去ったことにあります。使徒の教えから離れ去ることは、使徒たちのビジョンから離れ去ることです。そして、バラムの教え、ニコライの者たちの教え、イゼベルの教えがもたらされます。この三種類の教えによって、召会は主の言葉から離れ去って、堕落してしまったのです。

パウロがコロサイ人への手紙においてわたしたちに告げているのは、神が彼に与えた執事職は神の言を完成するためであるということです(一・二五)。パウロが彼の務めを完成して手紙を書いていたときに、エペソに在る召会は率先して、アジアの召会全体を使徒パウロの教えから離れ去るようにしました。使徒ヨハネは啓示録を書いていたとき、主の委託を受けて、パウロのその務めを継続しました。パウロはその務めを停止せざるを得なくなり、ヨハネがそれを開始しました。パウロは地上において、召会の堕落の路線を対処していたのですが、その最後の対処は、アジアのエペソに対するものでした。その三十年後、ヨハネは啓示録の冒頭で、アジアの七つの召会に手紙を書き送ったのですが、その最初の書簡もエペソに書き送られました。ヨハネは、エペソに在る召会が初めの愛を離れてしまったことのゆえに、彼らを叱責しました。その原因は、エペソに在る召会が、使徒の教えと使徒の務めから離れ去ったことにありました。

主に対する初めの愛が失われた結果
エペソに在る召会は信仰と良い働きにおいて健全であり、だれが偽使徒たちであるかを識別する知識がありました(啓二・二)。しかしながら、主は言われました、「わたしには、あなたを責めるべき事が一つある.あなたは初めの愛を離れてしまった」(四節)。啓示録の七つの手紙における堕落の最初の理由は、初めの愛を失ったことです。最後の手紙においてわたしたちは初めの愛を失った結果を見ますが、それはなまぬるさです(三・十六)。わたしたちは主に対する初めの愛を失うなら、必ずなまぬるく、すなわち、冷たくもなく熱くもなくなります。これは大きな危険です。地方召会が徐々に、無意識のうちに主に対する初めの愛を失い、その結果、なまぬるさに満ちるかもしれません。主に対するわたしたちの初めの愛がないなら、わたしたちはすぐになまぬるくなり、新鮮さ、新しさ、生き生きとした衝撃力を失ってしまいます。

わたしたちはなまぬるいなら、冷たくありません。なぜなら、わたしたちはなおも集会に参加するかもしれないからです。しかし、集会においてわたしたちの霊は燃えていません。ただ他の人から良い語りかけを聞くことだけを望んで集会に来ることは、なまぬるいことです。主はなまぬるい者を彼の口から吐き出そうとしていると言われました(十六節)。主の口から吐き出されることは、主によって拒絶されることであり、召会に対する彼であるすべての享受を失うことです。わたしたちは祈る必要があります、「主よ、わたしはあなたに対するわたしの初めの愛を失い、なまぬるくなってしまいました。このような状態から救ってください。主よ、あなたに対するわたしの初めの愛を回復してください。わたしを内側でかき立て、わたしの霊の中で燃やして、わたしがあなたをさらに愛することができますように」。

初めのわざを行なう――主を愛する
主は、ヨハネを通して、エペソに在る召会が主に対する初めの愛を離れたことを叱責しただけではありませんでした。彼は次のことを彼らに思い出させました、「あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めのわざを行ないなさい.しかし、そうしないなら、わたしはあなたの所へ行く.そして、もしあなたが悔い改めないなら、あなたの燭台をその所から除き去る」(二・五)。エペソに在る召会は主に対する初めの愛を離れてしまいました。もし彼らがこの事を悔い改めないなら、主の証しを失ってしまい、燭台が彼らの所から除き去られてしまうでしょう。この事は、わたしたちに対する厳粛な警告です。わたしたちは、初めの愛をもって主を愛さなければなりません。そうしなければ、わたしたちも主に対する享受と主の証しを失ってしまうでしょう。

主は愛すべき方である
わたしたちが主を愛するのは、主が愛すべき方であるからです。雅歌は、キリストと彼の信者たちとの関係を予表する愛の物語です。第一章はこのように言っています、「彼の口の口づけをもって、わたしに口づけしてください! あなたの愛はぶどう酒にまさるのです。……あなたの名は注がれた香油のようです」(二―三節)。四節は言います、「わたしを引き寄せてください」。主はご自身をわたしたちに啓示して、わたしたちを引き寄せます。いったんわたしたちが彼の麗しさを見るなら、わたしたちは彼に引き寄せられるでしょう。彼がご自身の麗しさを啓示するとき、だれも彼に抵抗することはできません。わたしたちが愛することができるのではなく、彼が全く愛すべき方であるのです。わたしたちは醜く価値のない対象を愛することは不可能であるのを見いだすでしょうが、美しいダイヤモンドには直ちに引き寄せられ、それを得ることを願うでしょう。わたしたちがダイヤモンドを愛するのは、わたしたちの愛する能力のゆえではなく、ダイヤモンドが愛すべきものであるからです。

わたしたちはキリストを見て、彼に引き寄せられ、彼を絶対的に愛する必要があります。わたしたちが祈りの中でご自身をわたしたちに啓示してくださるように求めるなら、彼の麗しさがわたしたちに明らかに示されるでしょう。わたしたちは主がわたしたちの内側で成長することを願うなら、わたしたちの内側でさらに多くの余地を彼に与える必要があります。この事を行なう方法は、いつでも、どこでも彼に来て祈ることです、「主イエスよ、わたしはあなたを愛します。わたしにあなたの愛らしさを見せてください。ご自身をわたしに明らかに示し、あなたの麗しさによってわたしを引き寄せてください」。わたしたちがこのように祈るなら、主はわたしたちの祈りに答え、彼に対するわたしたちの愛はかき立てられるでしょう。

主を愛することは、わたしたちを命において成長させる
主がわたしたちの内側で成長する道は、主に対するわたしたちの初めの愛を回復することです。わたしたちは主を愛することによって成長し、主を享受します。また、わたしたちが信じている主をわたしたちの命とするだけでなく、わたしたちのパースンともする必要があります。わたしたちは古いパースンをもって生まれましたが、別の方、すなわち、わたしたちの愛する方をわたしたちの新しいパースンとする必要があります。愛はわたしたちが別の方をわたしたちのパースンとすることができる唯一の道です。

わたしたちはある人を愛さないなら、彼と時間を過ごしたくないでしょうし、まして彼を自分のパースンとしたくないでしょう。結婚は他のだれかをパースンとすることを意味します。結婚は二つのパースンと関係がありますが、二つのパースンは一になります(創二・二四、マタイ十九・五エペソ五・三一)。結婚式で花嫁の頭はおおいで覆われており、一つの頭だけが見えます。二人のパースンが一緒に生活すると、必ず困難が伴います。結婚した夫婦が真に一であるとき、彼らには主にある平安と喜びがあります。彼らが一でないとき、すなわち彼らの家族生活に二つの頭があるとき、怒りや口論があります。物と共に生きることは容易ですが、別のパースンと共に生きることは難しいです。わたしたちはただ真に愛する人とだけ平安に生きることができます。別の人を自分のパースンとして、共に生きていくために、愛が極めて重要です。

主はいつもわたしたちを愛しています。わたしたちはいつも彼を愛する必要があります。それによって、わたしたちは自然に彼と一であることができます。このようにして、彼はわたしたちの存在のあらゆる部分に入り口を持ち、わたしたちの中で成長する道を持ちます。実は、もしわたしたちが主を愛さないなら、命において成長することは不可能です。

主を愛することは、主のために何かを行なうことではない
わたしたちは、主を愛しているので、主のために多くのことを行なわなければならないと考えてはなりません。主のために何かを行なおうとすると、わたしたちの主に対する愛が消えてしまうかもしれません。わたしたちは、主のために何かを行なおうとするのではなく、ただ主を愛し、主をわたしたちのパースンとして受け入れる必要があります。わたしたちが抱えている難問は、主を十分に愛していないか、あるいは愛していても主のために何かを行なうことに忙殺されていることです。

ルカによる福音書第十章三八節から四二節は言います、「イエスはある村に入られた.するとマルタという女が、彼を家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、マリアは主の足もとに座って、主の言に聞き入っていた。ところがマルタは、あれこれともてなしすることで取り乱していた.彼女は近づいて来て言った、『主よ、わたしの姉妹がわたし一人にもてなしをさせているのに、何とも思われないのですか? わたしと共に彼女の分を果たすよう、彼女におっしゃってください』。主は彼女に答えて言われた、『マルタ、マルタ、あなたは多くの事で思い煩い、心配している.しかし、無くてならないものは、ただ一つである.マリアはその良い分を選んだのだ.それを、彼女から取り上げてはならない』」。マルタは主を愛していましたが、あれこれと忙しく主に仕えていました。そして自分が他の人より優れていると考えていました。しかし、わたしたちが主のために働くことに忙しくしており、またわたしたちが主をないがしろにすることを、主は望んでおられません。主はわたしたちが彼を愛する以外の事を行なうのを欲しているのではなく、わたしたちが自分の中で彼に立場を与えることを欲しています。それによって彼はわたしたちの中で生き、わたしたちに代わって生き、わたしたちから生かし出されることができます。

もし主に対するわたしたちの愛が冷えているなら、わたしたちは奮い立たせられる必要があります。しかしながら、奮い立たせられた後、こうかつな敵はわたしたちに告げるかもしれません、「あなたは主を愛していなかった時、多くの事柄においていい加減でした。今やあなたは主を愛しているので、彼のために何かを行なう必要があります」。わたしたちはこの思想に注意を払うなら、罠に陥り、捕らえられるでしょう。わたしたちは敵に告げる必要があります、「サタンよ、おまえはうそつきだ。主はわたしが彼のために何かを行なうことを必要としない。彼はわたしの中であらゆる事を行なうことができる」。サタンが主のために事を行なうようにわたしたちを誘惑するとき、わたしたちはこの思想を拒絶するだけではなく、主に開いて祈るべきです、「主よ、わたしはあなたに大きく開きます。あなたはすでにわたしの中へと入って来ましたが、わたしはあなたがさらに入って来て、わたしの思い、感情、意志を完全に占有することを必要とします。主よ、わたしのあらゆる部分を所有してください」。わたしたちがこのように祈るなら、主はわたしたちの中で成長するでしょう。

わたしたちがどのように主に対する愛を表現するか
ヨハネによる福音書第十四章二一節で主は言われました、「わたしの戒めを持ち、それを守る者は、わたしを愛する者である.わたしを愛する者は、わたしの父に愛される.わたしも彼を愛して、わたし自身を彼に現す」。二三節で彼は言われました、「だれでもわたしを愛する者は、わたしの言を守る.そしてわたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る」。主はわたしたちがご自身のために何かを行なうことを欲していません。わたしたちは自分自身を停止する必要があります。彼が欲しているのは、ご自身をわたしたちに現し、わたしたちと共にご自身の住まいを造ることです。大きな悲劇が地上で起こっています。あらゆる人は事を行なうのに忙しいのですが、神には家がありません。この世の人々と罪深い人々はある事柄で忙しく、クリスチャンも忙しいのです。すべての人は完全に占有されていますが、主には安息する場所がありません。主はわたしたちの内側におられますが、わたしたちが主以外の多くのもので満たされているので、わたしたちの中でご自身のホームを造るために、わたしたちの内側で自由に動く機会を持っていないかもしれません。
主に対するわたしたちの愛を表現する最上の道は、「主イエスよ、わたしはあなたに開きます。わたしを完全に占有してください」と言うことです。主はわたしたちが主のために何かを行なうことよりも、わたしたちが彼の住まいとなって彼を表現することを必要とします。彼はわたしたちが彼に開くことを欲しています。それによって彼はわたしたちの心の中にご自身のホームを造ることができます。主に対するわたしたちの愛を正しく表現するために、わたしたちは正しい配偶者となることや、多くの人を救いにもたらすことのような、良い意図に基づいたどんな種類の行ないも停止しなければなりません。わたしたちは祈るべきです、「主よ、わたしはあなたを愛し、自分自身をあなたに開きます。わたしは自分の行ないを停止します。わたしがすることのできる唯一の事は、あなたに入って来て、占有していただくように求めることです。わたしを占有し、所有し、浸透し、飽和してください。あらゆる機会をとって、わたしの中でさらに多くの立場を得てください。主よ、わたしは自分自身で何も行ないません。あなたのみこころをわたしの中で、わたしを通して行なってください。わたしがある事柄を行なうかどうかは、わたしにかかっているのではなく、絶対にあなたの決定にかかっています。わたしがあなたに求めるのは、わたしの中で生き、わたしに代わって生き、わたしから生かし出されることです」。

わたしたちは自分の行ないを停止する必要があります。それは生きているのはもはやわたしたちではないためです。ガラテヤ人への手紙第二章二〇節は言います、「わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです」。わたしたちは十字架につけられました。十字架につけられた人は何も行なうことができません。わたしたちは悪い事を行なうべきではないだけでなく、もはや良い事も自分自身から行なうべきではありません。わたしたちが何かを行なうなら、それはわたしたちが十字架につけられていないことを意味します。主を愛する道は、何かを行なおうとすることでなく、ただ言うことです、「主よ、わたしはあなたを愛します。わたしは自分自身をあなたにささげます。わたしはあなたに開いています。わたしをますます所有し、あなたがわたしの存在のあらゆる部分にまで届き、わたしの中にあなたのホームを造るに至りますように」。

正しい方法で主を愛する
主を愛することには、主のために自分自身をささげて海外で宣教をするような、多くのことを行なう必要はありません。パウロはコリント人への第一の手紙において、わたしたちにどのように主を愛するかを告げています。わたしたちは主を愛するために、まず彼をわたしたちの享受のための分け前とする必要があります(一・二五・七―八十・三―四)。わたしたちはこう言う必要があります、「主よ、あなたはわたしの分け前です。あなたは食べることができ、飲むことができます。あなたはわたしの享受です」。第二に、主を愛することは、彼にわたしたちの中で成長していただくことです(三・六)。わたしたちは彼を享受するだけでなく、絶えず彼にわたしたちの存在の中で増し加わっていただく必要があります。第三に、主を愛するために、わたしたちは自分が彼と一つ霊であることを認識する必要があります(六・十七)。わたしたちは、主のために何か大きなことを成し遂げようと考えるのではなく、むしろ次のように祈る必要があります、「主よ、あなたはわたしの享受です。あなたはわたしの内側で成長しており、あなたとわたしは一つ霊です。わたしの日常生活のあらゆる面で、わたしは霊の中であなたとの一を享受します」。これが主を愛することです。

主を愛さないことで弁解しない
コリント人への第一の手紙の結論の言葉はこう言っています、「だれでも主を愛さないなら、のろわれよ! 主は来られます!」(十六・二二)。主の二度目の来臨が切迫していることは、主を愛さない人たちに対する警告です。コリントの信者たちは主を愛することを顧慮しないことによって大きな間違いを犯しました。彼らは自分自身の願いを顧みました。彼らは賜物などの霊的な事柄を愛し、多くの良い事柄を持っていましたが、主を愛していませんでした。ですから、パウロはその手紙の結論で彼らに主を愛するように警告したのです。彼らが異言で語り、多くの霊的な事柄を持っていたとしても、もし主を愛していなかったなら、彼らはのろわれたでしょう。

わたしたちは主を愛さないことで弁解すべきではありません。わたしたちの弁解はいずれも持ちこたえることができません。わたしたちの状態がどうであれ、わたしたちは言う必要があります、「主イエスよ、わたしはあなたを愛します」。祈りの中で主と接触する人はだれでも、主によって引き寄せられるでしょう。主は実際であり、生きており、辛抱強いです。わたしたちが積極的な方法で主に来ても、あるいは消極的な方法で主に来ても、彼はわたしたちを受け入れ、ご自身をわたしたちに啓示し、ついにわたしたちは彼を愛さざるを得なくなります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第8巻より引用

 

 

 

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