神聖なエコノミー―― 命の木としてのキリストを食べる

真理

多くのクリスチャンにとって、創世記第一章と第二章は、創造についての単なる物語です。しかし、もしわたしたちが神聖なエコノミーの展望を持つなら、聖書の最初の二つの章で語られている重要な事柄が、神のエコノミーであることを理解することができます。神はご自身のかたちと姿にしたがって人を創造し、人のために霊を創造しました。それは、ご自身を人の中へと分与するためです。神は人を命の木の前に置き、人が神を命として受け入れて、ご自身が人の中へと入ることができるようにされました。

命の木は、三一の神の具体化であるキリストを表徴しており、彼は食物の形で人の命となられます。今日、わたしたちはキリストを食べることによって、彼を命の木として享受して、彼で構成されて、神の永遠のエコノミーの当初の意図を成就することができます。

命は神の定められた御旨を成就する道である
創世記第一章は神の定められた御旨が、神を表現し、神の敵を服従させ、地を征服する人を持つことであることを啓示していますが(二六、二八節)、第二章は神がご自身の定められた御旨を成就するために取る道を啓示しています。この道は命であり、命の木によって表徴されています(九節)。神はご自身が創造した人を命の木の前に置かれ、人が命を受け入れるようにされました。この絵の中心には命の木があります。ですから、宇宙における神の中心的な目標は命です。啓示録第二二章二節は、命の木が新エルサレムの中にもあると言います。この第二の絵はわたしたちに見せていますが、聖書の終わりに記録されている、将来の新しい宇宙における新天新地も、命を中心としています。

最初から最後まで、聖書の記録は、命が宇宙の中心であることを見せています。しかしながら、聖書の最初と最後にある二つの絵は何が違うのでしょうか? 第一の絵において、神は土のちりから人を形づくり、その鼻の中に命の息を吹き込むことによって、ご自身のかたちを持った人を創造しました(創二・七)。しかしながら、この創造された人は神のかたちを持っているだけで、神の命を持っていませんでした。それはちょうど人の写真やろう人形が人のかたちを持っていても、人の命を持っていないのと同じです。神はその創造された人の中にはおられませんでした。ですから、神は人を創造した後、人を命の木の前に置きました。人は創造された命を代表し、神は非受造の命を代表します。神のこのような意図は、人が神を命の木として食べることによって、神を命として受け入れることでした。人が命の木から食べるなら、神は人の中へと入って人の命となります。しかし、この時、神と人にはまだ何の関係も存在していませんでした。第二の絵において、創造された命は非受造の命、命の木(すなわち神)を受け入れ、それは人の享受となりました。こういうわけで、神と人は一つになっています。啓示録の最後では、神と人、人と神の両者は、共にミングリングされて一となっています。

命の具体化
人は創造された命であり、神は非受造の命です。この両者はどのようにしてミングリングされるのでしょうか? 神ご自身は、わたしたちの命となることを願っておられますが、命は奥義的で、抽象的で、見ることができません。わたしたちはどのようにしてこの命を経験し、それに触れることができるのでしょうか? わたしたちの肉体の命は見えない実体ですが、わたしたちの体を通して、経験し具体化することができます。同様に、神のこの命は命の木において具体化されています。それは人が食物の形でそれを受け入れることができ、そうして神が命の方法で人とミングリングされて、人の命となることができるためです。このゆえに、命の木は神の命の具体化です。

旧約で命の木はただ一度述べられているだけです。創世記第二章の命の木は、そこにまかれた神聖な真理の種です。人の堕落のゆえに、命の木に関して長い沈黙の歴史があります。しかし、新約がわたしたちに告げているのは、初めに言があり、言が神であり、言が肉体と成り(ヨハネ一・一十四)、イエスという名の人と成って、「彼の中に命があった」ということです(四節)。神が人と成られたとき、彼の命はもはや奥義的でも、抽象的でもありませんでした。神の命はイエスという人の中に具体化されました。ですから、命の木はイエスであり、イエスは命の木です。ヨハネは、使徒たちがイエスを見て、イエスに触れたと告げました(Ⅰヨハネ一・一)。彼らはイエスに触れたとき、命の木に触れたのです。主イエスは、彼が来たのは、わたしたちが命を得、豊かに得るためであると告げられました(ヨハネ十・十後半)。このゆえに、イエスは具体化された神聖な命です。命は彼の中にあります。命は彼の内容でした。人が彼を受け入れるとき、命の木を受け入れているのです。

命のパン
主イエスはヨハネによる福音書第六章でこう言っています、「朽ちる食物のためにではなく、永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい」(二七節)。ここで二種類の食物が述べられています。一種類目のものは朽ちる食物であり、二種類目のものは朽ちない、永遠の命に至る永存する食物であり、また命のパンです(三五節)。主イエスは命であるだけでなく、命のパンでもあって、わたしたちは彼を食べることができます。命のパンは、食物の形で人の命の供給となる主です。それは命の木が「食べるのに良い」命の供給であるようにです(創二・九)。イエスが、彼は命のパンであると告げられるのは、彼が食べることができることを暗示します。彼は直接わたしたちにこう告げられました、「人の子の肉を食べ、彼の血を飲むのでなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ」(ヨハネ六・五三―五四)。ここでは肉と血が別々にされています。肉と血が分離しているのは死を示しています。主の肉を食べ主の血を飲むことは、主が十字架上でわたしたちのためにご自身を捨て、血を流して行なわれたすべてを信じることです。主を信じることは、主を命の木として受け入れることであり、それによってわたしたちは永遠の命を得ることができます。

ぶどうの木
主イエスはまた、彼がまことのぶどうの木であると告げられました(十五・一)。ぶどうの木は背の高い木ではありません。もしイエスがこのようにとても背の高い木であったなら、彼の実はわたしたちにとって便利ではなかったでしょう。しかし主はぶどうの木であり、人が食べて享受するのにとても便利です。彼は命の木です。啓示録第二二章の命の木もぶどうの木です。このゆえに、二節は、一本の命の木が川の両側で成長していると言っています。それは命の木がぶどうの木であり、命の水の流れに沿って広がり伸びて、神の民が受けて享受することを表徴します。

わたしたちは二本のぶどうの木があると思ってはなりません。宇宙にはただ一本のぶどうの木、一本の命の木があるだけです。このぶどうの木は創世記第二章で命の木であり、ヨハネによる福音書第十五章でまことのぶどうの木であり、啓示録第二二章では、新エルサレムの山の周りでら旋状に成長して、神の選ばれ、贖われたすべての民に達します。主イエスは松の木のように、地上から天に至る高い木ではありません。彼はすばらしいぶどうの木であり、全地でら旋状に絶えず成長しています。わたしたちは、主イエスが命の木、神聖な命の具体化であり、長く広がるぶどうの木であることを見て、それを認識し、そのビジョンを得なければなりません。

命の木を食べる
神はご自身のかたちに、彼を入れるための霊を持つ人を創造した後、この人を命の木の前に置きました。その目的は、人に命の木を食べさせることでした。ヨハネによる福音書がわたしたちに見せているのは、主がわたしたちが食べる命のパンであるということを、主ご自身が語っているということです。彼を食べることによって、わたしたちは彼のゆえに生きることができます(六・五七)。また彼はわたしたちが飲む生ける水です(四・十四七・三七―三八)。彼はぶどうの木であり(十五・一)、また命です(十四・六)。

これらのことをまとめると、わたしたちはイエスが命の木であることを見ます。主は一つの目的のため、すなわち人の中に入って人の命となるために、地上に来られました。主はどのようにして人の中へと入り、人の命となるのでしょうか? 彼は食物として来て、人によって食べられることを通して、この事を行なわれます。わたしたちは、神が来られてわたしたちの命となることが、牛や羊が殺されて食べられ、わたしたちの中へと取り入れられることによって、わたしたちの命となることと同じであるという考えを決して持ったことがないかもしれません。わたしたちが牛肉や小羊の肉、パンや野菜や卵などの食物を食べるとき、それはわたしたちの楽しみであり、享受ですが、最終的に、食物はわたしたちの中へと消化されて、わたしたちの血、わたしたちの肉体、わたしたちの命の構成要素となります。神が宇宙で行なおうとしていることは、ご自身をわたしたちの食物として、わたしたちが楽しみ、享受させるだけではなく、わたしたちの中で消化され、わたしたちの成分となることです。

イエスを食べる、イエスを飲むとはどういうことでしょうか? これは、神がご自身をわたしたちの中に分与することです。神はご自身のかたちに霊のあるものとして人を創造し、人が彼を受け入れるようにされました。創造の時に、人は神を内側に持っていませんでした。人は空の容器にすぎませんでした。ですから、神は人を命の木の前に置かれました。創造された人は、内側に神を受け入れて、神に人の命、命の供給、内容となっていただく必要がありました。同じように、わたしたちは彼を食べ飲みすることによって、彼を内側に受け入れなければなりません。わたしたちは霊を活用して、彼をわたしたちの内容、命また命の供給として受け入れなければなりません。

エデンの園には二本の木、すなわち、命の木と善悪知識の木がありました(創二・九)。神はアダムに、間違った木から食べないように注意するよう命じられました(十六―十七節)。エホバはアダムに、もし善悪知識の木から食べるなら、必ず死ぬと警告されました。わたしたちは正しいものを内に受け入れる必要があります。わたしたちが受け入れる正しいものとは、命の木です。命の木は、神がわたしたちの命となりたいということを示します。わたしたちは彼を食べることによって、彼を受け入れなければなりません。わたしたちは命の木としてのキリストを食べるなら、彼を内側に受け入れてそれがわたしたちの命の供給となり、わたしたちはもはや空ではありません。神はわたしたちの内容となられます。

人における神のすべての働きの中心
創世記第一章と第二章は、神の創造の絵を与えます。この絵は、神が創造した人の中へとご自身を分与することを願っていることを見せています。この事はわたしたちに神聖なエコノミーを見せています。人は神のかたちに、霊のあるものとして造られました。それは神を命、命の供給、すべてとして人の内側へと受け入れて、神が人の内容となり、人が神を表現するためです。

神はご自身のかたちに人を創造して彼を表現させ、神は統治権を人に与えて、人が彼のために統治するようにされました(創一・二六)。神のかたちは人が神を表現するためであり、神の統治は人が神を代行するためです。このように神を表現し、神を代行する者は、善人ではなく、神・人です。神は、善人としてのわたしたちを必要としているのではなく、神・人としてのわたしたちを必要としています。わたしたちは、いわゆる「善人」になることはできますが、単なる善人であるならば、神を表現する(神・人になる)ことはできません。神を表現する神・人が、神を代行し、万物を統治します。

クリスチャンは単なる善人ではなく、神・人です。人の救い主、力、知恵としての神を単に信じるだけでは、神のエコノミーの目標に到達することはありません。神はご自身のかたちに人を創造しました。その目的は、人が神を表現するためです。神はご自身をわたしたちの中へと分与して、わたしたちが霊の中で、神で満たされるようにし、またわたしたちが神で満たされた神・人として、神を表現し代行するようにさせます。これが神の神聖なエコノミーにしたがった、わたしたちにおける働きの中心です。

わたしたちは善人であることを忘れるべきです。もしわたしたちが善人でありたいなら、かえって自分が悪い人であることを知るでしょう。自分で人を愛そうとしてはなりません。人を愛そうと努めれば努めるほど、結局ますます人を憎むでしょう。へりくだろうとすればするほど、ますます誇るでしょう。悪は常に善の後に続いて来ますし、憎しみは常に愛の後に続いて来ますし、誇りは常にへりくだりの後に続いて来ます。わたしたちは、「わたしがとてもへりくだっていることを知らないのですか?」と、内側でこのような態度を持つかもしれません。これは高ぶりです。わたしたちは自分のへりくだりを誇ります。このゆえに、わたしたちは善人ではなく、むしろ神・人となる必要があるのです。

命の木の原則にしたがって生きる
宇宙には二つの源があることを常に覚えておく必要があります。それは命の源としての神と知識の源としてのサタンです。わたしたちは毎日、二つの源を代表するこれら二本の木の前にいるのです。わたしたちは命の木、すなわち命の源としての神と共に、単純に、ただ命を持っているだけです。しかし、わたしたちは善悪知識の木、すなわち、知識の源としてのサタンと共に、善、悪、死を持っています。神が人をこれら二本の木の前に置いたという事実は、第三者としての人には神、またはサタンのどちらかを選ぶ自由があることを示しています。わたしたちは決してこれら二本の木から逃げることはできません。なぜなら、わたしたちは神聖な源である命の木の原則にしたがって生きるか、サタン的な源である知識の木の原則にしたがって生きるかのどちらかであるからです。

わたしたちは命の方法、あるいは知識の方法のどちらかで聖書を読むことができるでしょう。このことはヨハネによる福音書第五章三九節と四〇節における主の言葉によって啓示されています、「あなたがたは聖書を調べている.なぜなら、その中に永遠の命があると思っているからである.しかし聖書は、わたしについて証しするのである。しかしあなたがたは、命を得るためにわたしに来ようとはしない」。わたしたちが知識の方法で聖書と接触するなら、すなわち、わたしたちの霊を活用しないで単に思いを活用することによって聖書を読むなら、わたしたちの経験において聖書はキリストから分離され、それによってわたしたちにとって善悪知識の木となります。しかし、わたしたちが命の方法で聖書と接触するなら、すなわち、わたしたちが霊を活用することによって聖書を読むなら、わたしたちの経験において聖書はキリストと一になり、それによって神の言葉はわたしたちにとって命の木となります。わたしたちはただ聖書を読むだけでなく、さらに主に来て命を得るのです。

最終的に二本の木は、二つの建造、すなわち神の建造とサタンの建造という結果になります。サタンは知識をもって多くの都市、国家、社会を建造してきましたし、また建造し続けるでしょう。そしてサタンの建造の究極的完成は大いなるバビロンです(啓十七・五)。対照的に、神は命によって召会を建造し、神の建造の究極的完成は新エルサレムです(二一・二)。わたしたちは霊を活用して、命の木の原則にしたがって生きることを学ぶ必要があります。それは、わたしたちが神を命の源として享受して、純粋な召会生活、すなわち、神の命の結果としての神の建造を持って、神の神聖なエコノミーを成就するためです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第8巻より引用

 

 

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