神は創世記第十一章から第二四章において一つのしるし、アブラハムを準備し用意され、わたしたちに何がクリスチャン生活であるかを見せています。神がアブラハムにおいて行なわれたことのすべては、神が父であり、すべての始まりであることを現し出すためでした。神が父であることを認識しなければ、父となることはできません。アブラハムは神が父であることを認識していたので、全聖書の中で、アブラハムだけが父と呼ばれています。アブラハムは、無割礼で信じるすべての者の父であり、また割礼を受け同じ信仰の足跡にしたがって歩く者たちの父です。彼はわたしたちすべての者の父です(ローマ四・十一―十二、十七)。
わたしたちは聖書の記載からアブラハムの信仰の足跡をたどるなら、神がアブラハムに四回現れ、十二回語りかけられたことを見ることができます。アブラハムの信仰は、神の現れと神の要素の注入に対して引き起こされた反応でした。
神の一回目の現れと、召しと、語りかけ
――カルデア人のウルにおいて
使徒行伝第七章二節から三節によれば、栄光の神がカルデア人のウルにおいてアブラハムに現れて、「あなたの土地と、あなたの親族から出て、わたしがあなたに示す地へ行きなさい」と言われました。これは神が一回目に彼に現れて、彼を召されたことでした。その結果、「テラは、息子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、息子アブラムの妻である嫁サライを連れて、彼らはカナンの地に行こうと、カルデア人のウルから共に出て行ったが、ハランに来て、そこに住み着」(創十一・三一)きました。一方では、アブラハムは神の召しを受け入れたと言いますが、もう一方では、アブラハムはそれほど神の召しに聞き従おうとしなかったと言っています。アブラハムはカルデアから出て来たとき、神が召されたカナンに入らず、ハランに定住しました。このことは、アブラハムが当初、神の召しに絶対的には応じようとしなかったことを見せています。
神の二回目の召しと語りかけ
――ハランにおいて
その後、アブラハムの父テラはハランで死にました。これは、アブラハムに対する警告であったはずです。そこで、神はアブラハムをさらに動機づけました。それは、二回目の召しであり、神に動機づけられることを通して、また神に導かれることによって、カナンの地に入りました。エホバはアブラハムに言われました、「あなたの地から、あなたの親族から、あなたの父の家から出て、わたしがあなたに示す地へ行きなさい」(十二・一)。神のアブラハムに対する語りかけは、彼が神の召しを受け入れることを励まし、強めた要因でした。このようにして、アブラハムは、七十五歳のときに甥のロトを連れて出て行きました(四節)。
神の約束を得た
神はアブラハムに約束して言われました、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする.あなたは祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう.あなたの中で、地のすべての家族は祝福される」(二―三節)。人類歴史の中で、「アブラハム」は大いなる名です。神は彼を祝福されただけでなく、彼が人に祝福を得させるようにされました。この祝福は新約の福音の祝福です(ガラテヤ三・九、十四)。
カナンへと向かう
ヘブル人への手紙第十一章八節は言います、「信仰によって、アブラハムは召された時、これに従い、嗣業として受けようとしていた場所へ出て行きました.彼はどこへ行くかを知らないで出て行きました」。これは、アブラハムは機会があるときはいつも信仰を用いて、神の即時的な導きに信頼し、神の臨在を彼の旅の地図としたということです。創世記第十二章五節は言います、「アブラムは妻サライと、兄弟の子ロトと、彼らが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを連れて、カナンの地に向かって出て行った。こうして彼らはカナンの地に来た」。
神の二回目の現れと三回目の語りかけ
神の二回目の現れのとき、三回目の彼に対する語りかけを持たれました。神は言われました、「わたしはあなたの子孫に、この地を与える」(創十二・七前半)。神の定められた御旨を完成するには、子孫と地の二つが必要です。神は一回目の現れのとき、アブラハムを召されました。神は二回目の現れで、アブラハムにカナンの地を彼の子孫に与えると約束されました。一般的に言ってアブラハムの子孫とは、彼の地に属する子孫を指しています。すなわちそれはユダヤ人、イスラエルのことです。しかし狭い意味では、この子孫とはキリストのことです(ガラテヤ三・十六)。今日に至るまでなお、ユダヤ人はまだ完全には地を相続していません。彼らはキリストが戻って来られる復興の時に、完全に地を相続します。
祭壇と天幕の生活をする
「アブラムは、その地を通ってシケムの所、モレの樫の木まで来た。……彼に現れたエホバのため、そこに祭壇を築いた」(創十二・六―七)。これはアブラハムが築いた最初の祭壇でした。祭壇は神を礼拝するためのものであり、わたしたちの存在すべてと、わたしたちが所有しているすべてを、神の御旨のために神にささげるためのものです。それに続いて、「彼はそこからベテルの東の山に進んで、天幕を張った.西にベテル、東にアイがあった.そして彼はエホバのため、そこに祭壇を築いて、エホバの御名を呼び求めた」(八節)。ベテルは神の家を意味し、アイは崩壊の堆積を意味します。ベテルとアイは互いに相対しており、神の召された者たちの目に、神の家だけが価値があり、他のすべては崩壊の堆積であることを表徴します。
アブラハムの失敗と神の隠れた顧み
その後にアブラハムはなおも進んで、徐々に南へと移動しました。飢きんがその地に激しかったので、彼はエジプトへと下って行き、そこに住もうとしました(九―十節)。神が主権をもって用意された飢きんはテストであって、アブラハムが信仰によって生き、彼の日ごとの必要のために神に信頼するのかを見ました。しかし、アブラハムは神に信頼せず、エジプトへと下って行きました。彼がエジプトに近づいた時に、妻サライに言った、「あなたは美しい容姿の女であることを、わたしはよく知っている.エジプト人はあなたを見ると、『これは彼の妻だ』と言って、わたしを殺すが、あなたを生かしておくだろう。だから、あなたはわたしの妹だと言ってもらいたい.そうすれば、わたしはあなたのゆえに無事であり、わたしはあなたのゆえに生きるだろう」(十一―十三節)。アブラハムは信仰において失敗しましたが、神はひそかに彼を顧みられ、アブラハムを救い、パロの彼の妻に対する侮辱から逃れさせました(十四―二〇節)。エジプトでのこの経験は、アブラハムに学課を学ばせ、彼を召した神なる方が彼を顧みる方であることと、すべてが彼の主権ある御手の中にあることを認識させました。
神に信頼し、自分のために選択させない
その後、アブラハムは、妻と、彼の持ち物すべてを携え、またロトも彼と共にエジプトから出て南へと行き、ベテルとアイの間、最初に天幕を張った所に行きました。すなわち、彼は以前に作った祭壇の所にまで行きました。彼はまたその場所でエホバの御名を呼び求めました(十三・一―四)。
アブラハムと共に行ったロトも、羊の群れや牛の群れや天幕を持っていました。その地は、彼らの所有物が多すぎたために、彼らを支えて共に住まわせることはできず、彼らは共に住むことができませんでした。これは、神の主権の下でアブラハムに案配されたもう一つのテストでした。アブラハムはエジプトでの経験を通して、自分のために奮闘し、自分のために選択しないで、神の顧みに信頼するという学課を学びました。こうして、彼はロトに地の選択をさせました(五―十一節)。
神の四回目の語りかけ
ロトがアブラハムと別れた後、神は四回目に語りかけて言われました、「ロトがアブラムと別れた後、エホバはアブラムに言われた、『さあ、目を上げて、あなたがいる所から、北と南と東と西を見渡しなさい.わたしは、あなたが見ているすべての地を、永遠にあなたとあなたの子孫に与える。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにする.……立って、その地を縦に横に歩き回りなさい.わたしがそれをあなたに与えるからだ』」(創十三・十四―十七)。
神との交わり
アブラハムがまず張った天幕は、この世に対する証しでした。この時、彼はヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住みました(十八節)。ヘブロンは交わり、交流、友好を意味します。マムレは力を意味します。アブラハムの天幕は、彼が神と交わりを持つ場所となりました。
兄弟のために戦う
創世記第十四章で、アブラハムが訓練された者たち三百十八人を引き連れて、彼の甥のロトを捕らえた四人の王たちを撃ち破ったことを見ます。アブラハムはロトとその家族と彼らの財産を取り戻しました(十四―十六節)。
いと高き神の祭司がアブラハムを祝福する
アブラハムが勝利を得た後に、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を携えて来て、アブラハムを迎えました。このいと高き神の祭司はアブラハムを祝福して言いました、「祝福あれ、アブラムよ、いと高き神、天と地の所有者より」(十八―十九節)。聖書の別の箇所では、神は天の神と呼ぶことができただけです(歴代下三六・二三、ネヘミヤ一・五、二・四、二〇)。それは神の敵を打ち破り、神のために勝利を得るため、地上で神と共に立つ人がいなかったからです。しかしメルキゼデクがアブラハムを祝福しに来た時、彼は神を天と地の主と言うことができました。これは地上で神と共に立つ勝利者、打ち勝つ者がいたことを意味します。
神の五回目と六回目の語りかけ
五回目に、神はビジョンの中でアブラハムに語られました、「アブラムよ、恐れてはならない.わたしはあなたの盾であり、また、あなたの極めて大きい褒賞である」(創十五・一)。神は、アブラハムがあらゆる敵に打ち勝ったので、アブラハムに褒賞を与えられました。また神はアブラハムに言われました、「あなたの身から出て来る者があなたの相続人となるべきである」(四節)。
信仰によって義とされる
アブラハムは神を信じ、神はそれを義とされました(六節)。ローマ人への手紙第四章は、アブラハムは、イエス・キリストの中へと信じたすべての者たちの先祖であることを非常に強く述べています(十一―十二節)。神は彼を義としました。すなわち彼を義と勘定しました。このことは、彼の行ないによるのではなく、彼が神を信じることに基づいています。
六回目に、神はアブラハムに夢の中で、彼の地の子孫は寄留者となりエジプトに住み、エジプト人に仕え、四百年間エジプト人に悩まされ、四代目になってカナンに帰って来ると語られました。
神は十三年間アブラハムに語られなかった 創世記第十六章十六節は言います、「ハガルがイシマエルをアブラムに産んだ時、アブラムは八十六歳であった」。アブラハムは妻のサライに勧められて、ハガルをめかけとしました。しかし、神はハガルから生まれた子を認めず拒絶されました。そして十三年間、神とアブラハムの間に交わりがありませんでした。それは「アブラムが九十九歳の時、エホバはアブラムに現れ」るまで続きました(十七・一)。
神の三回目の現れと、七回目の語りかけ
割礼を受ける
神はアブラハムが九十九歳の時に、三回目の現れ、七回目の彼への語りかけがありました。そして神は彼と割礼の契約を立て、彼を多くの国民の父としました(一―二一節)。割礼の契約はしるしです。その意味は、肉の体が切り取られ、十字架につけられるべきであるということです。神に選ばれたすべての者は、割礼され、彼らの肉を切り取り、十字架につけられるべきです。アブラハムはクリスチャン生活の生きたモデルでした。なぜなら割礼の契約は、彼が十字架につけられ、再生され、更新されたことを意味するからです。
名前を変える
人が割礼を受けたとき、名前も更新されるべきです。アブラハムが割礼を受けた後、神は彼の名前をアブラムからアブラハムに変え、妻の名をサライからサラに変えました(五、十五節)。それは彼らを多くの国民の父と、多くの諸国民の母とならせるためです。同時に神は、アブラハムはサラから一人の子供を得ることを約束されました。これが意味するのは、割礼される(十字架につけられ、再生され、更新される)ことによって、真の子孫が生み出されるということです。
神の四回目の現れと、八回目の語りかけ
第十八章に来たとき、神はマムレの樫の木のそばで彼に現れ、八回目は、彼の友人のように彼に語られました。神は、人の水準でアブラハムと語り合われました。アブラハムは水を用いて神の足を洗いました。アブラハムの妻は神に食事を用意しました。アブラハムは神を見ました、神と語り合いました、神と共に歩いて、神を見送りました。それで、神はソドムに行なおうとされることを彼に告げないことはできませんでした。実は、神がアブラハムを訪問された目的と意図はロトのためでした。神はロトの名前は出されませんでしたが、その親しい会話の中で、アブラハムにロトのためにとりなすように動機づけられました。第十九章二九節は、神がソドムを滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、ロトを救い出されたと言っています。これは、神がアブラハムのとりなしを聞かれたことを意味します。これは、わたしたちがクリスチャン生活をすることは、わたしたちが神の友となり、神がわたしたちの友となられるまでにならなければならないことをわたしたちに示しています。
しかし、第二〇章がわたしたちに見せていることは、アブラハムがヘブロンから移り(一節)、神と交わりを持つことができた正しい立場を離れ、そのために再び肉の中へと落ち込み、以前の失敗を繰り返したということです(十二・九―二〇)。今回、彼はサラのためにゲラルの王アビメレクと問題を起こし、主に絶対的に従うことと、主を信じることのうえでの彼の隠された弱さが暴露されました。エホバはサラのゆえに、アビメレクの家のすべての女たちの胎を完全に閉ざしておられました(二〇・十八)。アブラハムは、彼自身の失敗とサラがなおも子供を生むことができないという事実を顧みることなく、アビメレクの必要のためにとりなすべきでした。神はアブラハムの失敗を数えず、まだ彼を神の預言者と見なしておられました。このことは、わたしたちが他の人のためにとりなすことは、わたしたちの状態にかかっているのではなく、わたしたちがだれであるかにかかっていることを示しています。
神の九回目の語りかけ
第二一章では、神は先に言われたようにサラを訪れました。そして彼女は身ごもり、アブラハムに男の子を産み、その名をイサクと呼びました。その時アブラハムは百歳でした。イサクが乳離れしたとき、サラはハガルがイサクをあざけっているの見て、アブラハムにその女奴隷と息子を追い出すように言いました。アブラハムがそのことで大いに悩んでいるとき、神は九回目の彼への語りかけをされました、「サラがあなたに何を言っても、彼女の声を聞き入れなさい.イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからである」。そしてアブラハムはハガルとイシマエルを送り出し去らせました(一―十四節)。これもまたしるしです。それが表徴するのは、信仰によって恵みから生まれた者が真のアブラハムの子孫であり、善悪知識の木に従い、律法を源とする人は神に拒絶されるということです。
神の十回目、十一回目、十二回目の語りかけ
神が十回目にアブラハムに語られたのは、彼をテストするためでした。神は彼に彼の息子イサクを全焼のささげ物としてささげるように求められました。彼はこの神のテストに通りました。その後に、神は十一回目の彼の語りかけで、彼に自分の息子をささげるのを止めさせました。そして彼は雄羊(キリストを予表する――ヨハネ一・二九)をイサクの代わりに全焼のささげ物としてささげました(創二二・一―十四)。ヘブル人への手紙第十一章十九節は言っています、「彼(アブラハム)は……死人の中から自分の子を返してもらったのです」。アブラハムは神が創造の神であるだけでなく、死人を復活させる神でもあることを知っていました。彼は、その子イサクが死んだとしても、神はイサクを復活させることができると信じていました。アブラハムは、神が父であり、すべての始まりであり、無から有を生み出し、死人の中から人を復活させる方であることを認識していました。彼は神が父であることを知っていたので、神を信じ、神を仰ぎ望みました。創世記第十五章において、アブラハムは信仰によって義とされました。第二二章において、神は再びアブラハムを、この信仰の行ないのゆえに義としました(参考、ヤコブ二・二一)。
アブラハムがこの段階にまで達した時、神は十二回目に語られました、「わたしは自分によって誓う.あなたがこのことを行ない、あなたの息子、あなたのひとり子さえ惜しまなかったので、わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を天の星のように、また海辺にある砂のように増やす.そしてあなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。あなたの子孫の中で、地のすべての諸国民は祝福される.あなたがわたしの声に従ったからである」(創二二・十六―十八)。神がアブラハムを召された最終の目的は、この時、達成されました。
神が何度もアブラハムに現れ、毎回、彼の栄光と彼ご自身のある要素をアブラハムの中へと伝達されました。ですからアブラハムの信仰は、実際には神が彼の中へと伝達した要素であり、彼の内側からあふれ出たものです。わたしたちがもし、アブラハムの信仰の足跡にしたがって歩くなら、アブラハムはわたしたちに対して父であり、わたしたちは自己に信頼せず、ただ神に信頼する生活へと入って、わたしたちは神に主観的に義とされ、アブラハムの真の子孫となります。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第7巻より引用


