主イエスは御父のみこころを行なうことで満足される

真理

主イエスは地上で働かれていた時、自分の意志を行なわず、彼が行なったことはすべて御父のみこころであると何度も力強く宣言されました。ヨハネによる福音書第四章で、彼は食物を持って戻って来て彼に食べるように求めた弟子たちに言われました、「わたしの食物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行ない、彼のみわざを成し遂げることである」(三四節)。これが啓示しているのは、主の食物が、御父のみこころを行なうこと、特に罪人を救って満足させることであるということです。当初、主イエスがサマリアに来られたのは、罪深いサマリアの女を見いだし、満足させるためだけでした。今、彼が来られたのは、わたしたちに会い、わたしたちを満足させ、彼の食物をわたしたちの食物とするためです。祈りは、その機能において交わりの祈りと尋ねる祈りという二つの面に分けることができます。クリスチャンは、この二つの祈りの面を認識し、さらに実行し学ぶ必要があります。

 

主は御父のみこころにしたがって、
サマリアを通過しなければならなかった
ヨハネの福音書が啓示しているのは、イエス・キリストが神の救い主であり、人のあらゆる状態の必要を満たすための命であるということです。第一に、高尚な「善人」であるニコデモにおいて、主はわたしたちに、人の最初の必要は再生であることを見せました(三・一―十三)。神の永遠の定められた御旨は、一群れの人を得て、神の神聖な生活によって再生し、命と性質において神のようにならせ、彼らを神の団体の表現とならせて、永遠に至らせることです。この定められた御旨を成就するために、わたしたちは再生され、神の神聖な命を持たなければなりません。

再生の後、人の第二の必要は満足です。それが、主がサマリアの女と接触するためだけに、サマリアに来た理由です。第四章四節は、彼は「サマリアを通過しなければならなかった」と言っています。この節のキーワードは「しなければならなかった」です。それは救い主が罪人のいる場所を「通過しなければならなかった」ことを意味します。

歴史によれば、ユダヤ人はサマリアを通過することはありませんでした。紀元前七百年ごろ、アッシリア人はこの地を占領し、人々をバビロンや他の異教の国々からサマリアの諸都市に移住させました。それ以来、サマリアの人々はユダヤ人と異教徒との混合となりました。歴史は、彼らがモーセの五書を持ち、旧約聖書のその個所によって神を礼拝していたことを告げています。しかし彼らはユダヤ人によって、ユダヤの民の一部分とは決して認められませんでした。

ユダヤ人は決してサマリアを通過しようとしませんでしたが、主イエスはそうする負担を感じられました。彼がそこへ行かなければならなかったのは、地理的に必要であったからではなく、御父のみこころのゆえでした。御父のみこころのゆえに、彼はその領域を通らなければならなかったのです。主は正午に一人の不道徳な女が井戸の所にいることを知っておられました。

疑いもなく、このサマリアの女は過去の永遠において父なる神にあらかじめ知られ、あらかじめ定められていました(ローマ八・二九)。確かに、彼女は御父によって主イエスに与えられていました(ヨハネ六・三九)。そのような低い、卑しい、不道徳なサマリアの女が、御父によって主に与えられたのです。ですから、主は負担を負って、サマリアへ行き、御父のみこころを行なわれたのです。後ほど、主は彼の弟子たちに、「わたしの食物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行ない、彼のみわざを成し遂げることである」と告げられました(四・三四)。主はサマリアへ行って、神のみこころを行なわれました。それは、あの不道徳なサマリアの女を見いだすためでした。主は、彼女が御父を礼拝する者になるようにと彼女を捜しておられたのです。主がことさらそこに行かれたのは、その一人の人と接触するためでした。

救い主は井戸のそばで罪人を待つ
主は、「ヤコブがその子ヨセフに与えた土地に近い、スカルと呼ばれるサマリアの町に来られた.そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、そのまま井戸のそばに座っておられた.それは第六時ごろであった」(五―六節)。主イエスはその堕落した不道徳なサマリアの女より先に、井戸へ行って、彼女を待たれたのです。

その女が来る前に、彼は良い口実を見つけて、彼の弟子たちをみな追い払われました。もし弟子たちのだれかがそこにいたなら、あまりうまくいかなかったでしょう。主はその不道徳な女に彼女の夫たちのことを語るには具合が悪かったでしょう。ですから主は、彼の主権と知恵にあって、彼の弟子たちを、食物を買いに町へ追いやったのです。おそらく、主はこう思っておられたでしょう、「どうか、わたしを一人にしておいてもらいたい。わたしはあの不道徳な女を待っている。彼女はとても不道徳なので、だれにも会いたくないし、だれとも話したくない。しかしわたしは、彼女のすべての夫の歴史をもって彼女の良心に触れようとしている。あなたがた弟子たちは離れていなければならない」。食物を買うという口実がなかったなら、主はどのようにして弟子たちを追いやることができたでしょうか? 弟子たちが食物を買いに行っているうちに、その女がやって来ました。主は彼の主権と知恵の中で、屋外で、その女が来るのを待たれました。屋外でさえ、その会話を聞いている者は一人もいませんでした。主イエスは何と賢明であったことでしょう!

救い主は罪人がどこにいるか知っておられます。彼は罪人の真の状況をご存じです。主は井戸へ行き、彼の弟子たちをすべて追いやり、井戸のそばに座って、その女が来るのを待っておられました。わたしたちは自分の救いを振り返って見るなら、少なくともある程度、同じ原則が働いていたことを認識するでしょう。わたしたちが天へ行ったのではありません。主がわたしたちの所へ来てくださったのです。彼はわたしたちがいたその所に下りて来られたのです。

渇いている救い主と渇いている罪人
主イエスはその罪人が来るのを待っていた間、渇いておられました。ですから、この事例で、わたしたちは渇いている救い主と渇いている罪人を見ます。最初、救い主と罪人の両方が渇いており、救い主は飢えておられました。罪人は渇いており、渇きを満たそうとして水をくみに来ました。救い主は飢え、渇いておられました。彼は食べるための食物を買いに弟子たちを送り出し、その罪人に一杯の水を求められました。結局、救い主も罪人も何も飲まず、何も食べませんでしたが、両方とも満たされました。これはすばらしいことです! 罪人は救い主から飲み、救い主は罪人から飲まれ、彼らは両方とも満たされました。弟子たちは驚きました。彼らは食物を携えて戻り、彼に食べるよう促しましたが、彼は言われました、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」(三二節)。罪人は救い主の生ける水で満たされ、救い主は罪人を満たすという神のみこころで満たされました。罪人を満たすという神のみこころを行なうことが、救い主の食物です。今日、この救い主である主は、わたしたちを得ることを切望しておられ、わたしたちを得るとき、満足されます。

主は御父のみこころを実行し、
罪人を満足させることによって満足する
救われた罪人は救い主で満足し、救い主はその救われた罪人で満足されました。わたしたちがこれを知るのは、その女が井戸と水がめを置いたまま町へ走って行き、キリストのことを告げた事実によります。彼女はとても満足し、人々は、これがキリストであると知るに至りました。わたしたちは主イエスが満足されたことを知っています。なぜなら、食物を持って戻って来た弟子たちが彼に食べるようにと求めたのに、彼は、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」(三二節)と言われたからです。弟子たちのだれかが彼に、何か食べ物を持って来たのだろうかと互いに尋ね合っていた時、彼は彼らに言われました、「わたしの食物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行ない、彼のみわざを成し遂げることである」(三四節)。主の食物とは、彼を遣わされた方のみこころを行なうことでした。それは、彼の食物とは罪人を救い、満足させることであったことを意味します。

わたしたち罪人は救い主にとって満足です。わたしたちの飢えは主が飢えておられることを表徴し、わたしたちの渇きは主が渇いておられることを表徴します。しかし、地上に渇いている罪人がいる限り、主は天で渇いておられます。罪人が満足する時、救い主は満足されます。今日の人の必要は神の必要を表しており、人の不満足は神の不満足を表しています。放蕩息子が外で安息がなかったように、父も家で安息がありませんでした。息子が安息したとき、父も安息することができました。父と子は一つの安息を得ました。父と子の二人の安息は互いに関係があります。サマリアの女は飢え渇いていましたが、主はさらに飢え渇いておられたのです。罪人の食物は主であり、主の食物は罪人でした。救い主は罪人を満足させ、罪人は救い主を満足させました。

主は神のみこころを
実行することによって生活し働く
ヨハネによる福音書全体がわたしたちに見せているのは、主イエスが神のみこころを行なうことに満足していたということです。神の新約の務めを遂行するうえで、主の生活と働きには次の特徴があります。

ご自身から何もしない
ヨハネによる福音書第五章で、主イエスは安息日に三十八年間病気であった人をいやし、宗教家の間で敵意を引き起こしました。ユダヤ人は、彼が安息日を破っただけでなく、神を彼の父と呼んで、彼自身を神と等しくされたので、彼を殺したかったのです。この時、主イエスは彼らに言われました、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.子は、父が行なわれることを見ないでは、自分から何もすることができない.父が行なわれることは何であれ、子も同じように行なう」(十九節)。宇宙全体が主によって創造されましたが、主はご自身について何もしませんでした。

第八章二八節で、主は再び啓示されました、「あなたがたが人の子を上げてしまった時、『わたしはある』を知り、また、わたしが自分からは何も行なわず、わたしの父がわたしに教えられたとおりに、これらの事柄を語っていることを知るであろう」。世の人は多くの事を行なって、自分が知っていることやできることをして、人の注目を集めます。しかし、わたしたちは世の人ではなく、今日の神・人であり、イエスの複製です。わたしたちは自己を否み、自分自身で何かを行なおうとするのではなく、主によってすべてを行なうという意図を持つべきです。

ご自身の働き(わざ)をしない
ユダヤ人の宗教家の敵意と疑いに直面して、主イエスは言われました、「わたしの父は今に至るまで働いておられる.だから、わたしも働いているのである」(五・十七)。彼はまた言われました、「父がわたしに成し遂げるようにと与えられたわざ、すなわち、わたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証しするからである」(三六節)。奉献の祭りの時、ユダヤ人は彼の周りに集まり、彼がキリストであることを明らかにすることを期待して、イエスは再び彼らに答えて言われました、「わたしはあなたがたに言ったのに、あなたがたは信じない。わたしがわたしの父の御名の中で行なうわざが、わたしについて証ししている」(十・二五)。世を去る前、弟子たちの混乱と不安に対して、主は目を天に上げて祈られました、「父よ、時が来ました.あなたの子の栄光を現してください.それは、子があなたの栄光を現すためです.……わたしは、あなたがわたしに行なわせようとして与えられたわざを成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(十七・一)。

主イエスが務めを行なった時、彼はご自身の働きを行なったのではなく、父のわざを行なったと繰り返し言われました。また彼は御父の御名の中で来て(五・四三)、御父の御名によって働き、決してご自身の御名の中では何も行なわれませんでした。彼は御父の御名の中で働かれます。それが意味するのは、彼が御父の身分をもって働くということです。主イエスと御父は別々に働かれませんでした。それどころか、主と御父は一人の人のように共に働かれました。

ご自身の言葉を語らない
主イエスは彼の地上の務めにおいてご自身の言葉を決して語りませんでした。彼が語ったのは御父が語ったことでした。ピリポが彼に御父を見せるように求めた時、主は言われました、「わたしを見た者は父を見たのである.……わたしが父の中におり、父がわたしの中におられる……わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない.わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである」(十四・九―十)。彼はまた言われました、「あなたがたが聞いている言は、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父の言である」(二四節)。彼はご自身の言葉を語るのではなく、神を語り、神の言葉を語り、神は彼が語ることを通して現されました。

ご自身の意志を求めない
第五章三〇節で主は言われました、「わたしは自分からは何も行なうことができない.わたしは聞くとおりに裁く.そしてわたしの裁きは正しい.なぜなら、わたしは自分の意志を求めないで、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからである」。神の御子であるイエスは、ご自身の意志を求めるのではなく、御父のみこころを求め、御父のわざを行ないました。このすばらしい方は、御父と共にある御子です。三六節は続けて言います、「父がわたしに成し遂げるようにと与えられたわざ、すなわち、わたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証しするからである」。イエスはご自身のわざを行なったのではなく、御父から与えられたわざを行ないました。第十章三七節はまた言います、「もしわたしがわたしの父のわざを行なわないなら、わたしを信じなくてもよい」。これが意味するのは、彼はいつも御父のわざを行なっている、すなわち、御父のみこころを行なっているということです。

主はご自身の意志を求めず、彼を遣わされた方のみこころを求めました。第一に、彼はご自身を否みました。第二に、彼はご自身の意志、意図、目的を否みました。彼は決してご自身のものを求めず、ご自身のために何かを求めることもなく、ただ彼を遣わした御父のみこころを求めました。主の食物は、父のみこころを実行し、御父のわざを行なうことです。彼はただ御父のみこころを求めました。わたしたちも自分自身の意図を持たず、ただ神のみこころだけを持つべきです。

ご自身の栄光を求めない
第七章十八節で、主はパリサイ人たちに言われました、「自分から語る者は、自分の栄光を求める.しかし、遣わされた方の栄光を求める者は、真実であり、彼の中に不義はない」。主はご自身の栄光を求めず、ご自身を遣わされた御父の栄光を求めました。パリサイ人は自分たちの栄光を求めたので、主は彼らに対して、彼らが自分たちの栄光を求めなければ、ご自身が御父から遣わされたことを知ることができることを示されました。主イエスは、「わたしは自分の栄光を求めない」(八・五〇)とはっきり言うことができました。なぜなら、彼はご自身のために余地を残さず、ご自身を遣わされた御父の栄光を求めたからです。

今日、わたしたちは主の回復における唯一の働きにあずかろうとするなら、わたしたち自身を否み、わたしたちの企てを絶ち、わたしたちの野心を放棄しなければなりません。それだけでなく、わたしたちはただ主と同労すべきであり、キリストにわたしたちの中で生活し、働いていただき、わたしたちを彼ご自身の複製とならせ、神の永遠の定められた御旨を成就します。

御父のみこころを選び、神の命によって神・人の生活をし、
神を表現する

要約すると、ヨハネによる福音書が啓示しているのは、キリストが生ける神であり、父のみこころを行なったということです。彼は神ご自身である命を生きられました。だれも神を見たことがありませんでしたが、神の御子キリストだけが神を明らかに示されました(一・十八)。キリストは御父を人に現し、明らかにする生活をしました(十四・九)。彼はまた同時に御父のみこころを行ない、自分のわざを行なわず、自分の意志を行なわずに、御父のみこころを行ないました。

キリストは真に人でしたが、彼の人の命によって生きませんでした。彼は神聖な命を生き、父なる神を生かし出しました。彼はご自分からは何もしませんでしたが、彼が語ることや行なうことはすべて御父からのものでした。彼が行なうことはすべて御父のみこころでした。彼はご自身の人の意志を持っていましたが、ご自身の意志にしたがって生活したり、選択したりしませんでした。彼はご自身の意志を放棄しませんでしたが、ご自身の意志を強く行使して、御父のみこころを選択しました。主は十字架の前に、ゲッセマネの園で祈られました、「わが父よ、……わたしの意のままにではなく、あなたの意のままになさってください」(マタイ二六・三九)。このような困難で苦しみのある環境の中で、主はご自身の意志を強く行使して父のみこころを実行しました。

これが意味するのは、主が地上で生きられたのは神・人の生活であり、外側では人のように見えましたが、神の命が生かし出されていたということです。そのような生活は、毎日、自己に死に、毎日、自己を拒絶することです。主はご自身から何もせず、ご自身から語りませんでした。主はご自身の意志を求めるのではなく、神のみこころのみ求めました。主のすべての言葉と行ないは、彼ご自身から来たのではなく、御父のみこころにしたがっており、御父と協力してなされました。彼はナザレのイエスでしたが、彼は人の生活をしておらず、神に彼の中に生きていただき、神の命を彼の人の生活の中で表現させました。

彼の食物はわたしたちの食物である
主の食物は、「わたしを遣わされた方のみこころを行ない、彼のみわざを成し遂げること」です(ヨハネ四・三四)。もしわたしたちが、わたしたちを遣わされた方のみこころを行なわず、わたしたちを遣わされた方のわざを行なわないなら、食物も養いもないのです。聖書を読んで祈ること、熱心に働くこと、財物をささげることなど、霊的な事を行なうことはすべて、神のみこころに置き換わることはできません。神のみこころのみがわたしたちの霊的な命の食物であり、神のわざのみがわたしたちを養うのです。

わたしたちは、聖書を読み、祈ることで神のみこころを行なうことに替えることはできません。わたしたちは財物をささげ、熱心に働くことを神のみこころを行なうことの代わりとして、神のみこころを行なわないことを絶えず非難しているわたしたちの中にある良心に対する賄賂とすることはできないのです。わたしたちの働きを彼の働きに置き換えることはできません。すべての良い行ない、美しい行ない、さらには神聖で霊的な行ないや神の外側にある真剣な働きでさえ、わたしたちを養うことができないだけでなく、わたしたちを飢え渇かせます。

神のみこころを実行し、神の働きを成し遂げることによってのみ、人の飢え渇きがいやされるだけでなく、それは自分自身に食物を得させることができます。主イエスがスカルの井戸のそばで行なったことは、サマリアの女に生ける水を得させただけでなく彼女自身も食物を得ました。本来、彼と女はいずれも疲れており、喉が渇いていて、空腹でした。その後、主は神のみこころを実行し、神の働きを成し遂げることを選んだので、両方の当事者は、欠け目、飢え渇き、空腹から解放されました。これが主の食物であり、わたしたちの食物です。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第8巻より引用

 

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