永遠と結び付き、現在を生きる

証し

宇宙において、クリスチャンとして生まれて来る人は一人もいません。
わたしはかつて神を拒絶し、神を軽んじ、神を誤解し、神のすべてを排斥し優先しませんでした。
しかし、ある日、神のあわれみを受け、神はわたしの心の目を開いてくださいました。

わたしは、幼い頃から愛で満ちた家庭の中で育ちました。交通事故に出遭ったり、癌になったり、失恋したり、配偶者を失ったりなどの逆境にある人たちだけに神が必要なのだと思っていました。そしてわたしの生活はとても順調であり、また楽しいので当然のように神は必要でないと思っていました。さらに、神を信じて何の良いことがあるのかとも思っていました。わたしにとって、クリスチャンが言っているいわゆる「永遠の命」は、実に抽象的なものでした。わたしは小さいころからきれいであることが好きでした。ですから七十歳、八十歳となってしわだらけになるまで長生きすることは望みませんでした。わたしが長生きすることは、わたしには良い知らせではありませんでした。

キリスト教とは、わたしに言わせれば、何か道徳的な善行をするように勧め拘束しているものにしか過ぎませんでした。小さい頃から大人になるまで、学校において、社会において、家庭において多くの拘束の下にあり、その上さらに宗教に自分自身を拘束させたくはないと思っていました。また自分は良い人であり、人に善行を勧める宗教を受け入れる必要はないと思っていました。十数歳の時に、ある人がわたしに福音を伝えた時、「神はこの世の人を愛されました。その愛のゆえに、神のひとり子を彼らのために与えられました。それは神を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです」(参考‥ヨハネによる福音書 第3章16節)と言いました。その時のわたしの環境というのは、愛で満ちていて、神の愛が必要だとは少しも思えませんでした。わたしは心の中で、この世にはわたしよりも神の愛を必要とする人がとても多くいるので、まず神は彼らを愛すればいいでしょうと思っていました。

大学の卒業前に、わたしは卒業生の答辞を読む代表に選出されました。同時に、アメリカのウィスコンシン大学の全額給付の奨学金も得ることができました。大学四年生の最後の学期で、成績優秀賞も取りました。そのときのわたしは、何も欠けているものがなく、完璧な人生に見えました。家庭の環境は良く、父母も慈愛で満ちていて、友人もいて、栄光に満ちていました。しかし、わたしには満足と喜びがありませんでした。外側に反して、内側の心の深みでは、意気消沈し失望感がありました。この時に、わたしは人生の意義を尋ね求め始めました。

二十二歳になったわたしには、まだ人生の成熟期のきらびやかさや、成功はありませんでしたが、遠く未来を思い、次のような問いかけを抑えることができませんでした。「もし人生が、ただ絶え間なく回っていて、一つまた一つと目標に到達していくか、また失敗していくかだけであるならば、それに何の意義があるのでしょうか? わたしの人生の究極的な目標とは何なのでしょうか?」。わたしは、同級生や、友人、先生にも問いかけましたが、彼らの答えは同じで、「あなたは少年が悲しみの深みを知らず、無理に新しい言葉でそれを説明しようとしているようなものだ」というものでした。彼らはみな、わたしが持っているものをうらやましいと思い、わたしに自らそんなに悩まないように勧めました。しかしわたしは、人に究極的な目標がなく、目的もなく平気で生活することが理解できませんでした。わたしにとってこのことは受け入れがたいことでした。

わたしが、その答えを探している時に、以前にわたしに福音を伝えた人が、「あなたの霊を用いて、すなわちあなたの真実をもって、神を求め、神に触れてみてください……」と言ったことを思い出しました。わたしは真剣にわたしの真実をもって、わたしの本音で神に言いました、「神よ、あなたがもし真実であるなら、あなたが宇宙を創造され、わたしを造られた神であるならば、なぜわたしを造ったのですか? わたしの人生の目標とは何なのですか?あなたがわたしを造った目的が何なのかを、あなたはわたしに告げる責任があります。わたしはこれから何をすべきですか? どのようにすれば満足と喜びが得られるのですか? あなたはその答えを必ずわたしに与えなければなりません」。このようにわたしが真心で神と話した後に、何の奇跡も起こりませんでしたが、何とも言えない平安が心の中から湧き上がってきました。わたしは何を得たのかを言い表すことはできませんでしたが、それがまさに、わたしの求めていたものでした。そのとき、わたしの内側は愛と光と希望で満たされたのです。

三十年前に、その簡単な祈りの後に、神は神ご自身である永遠の命を、無代価でわたしに与えてくださったのです。三十年もの間、神は聖書を通してはっきりとわたしの疑問に答えてくださいました。そして、神が人を造られた意義をわたしに認識させてくださいました。それだけではなく、神の朽ちることのない、汚れることのない、滅びることのない命が、常にわたしと共にあり、わたしに供給され、わたしの限りある人生の中で、神の無限の豊かさを経験させてくださっています。わたしは、確かに人生の究極的な目標を得たこと、キリストを知り、獲得し、神と一となって生活していることを証しすることができます。神はわたしの短いつかの間の人生を永遠のものへと結び付けてくださいました。

詩歌(喜びがありますか) 習志野に在る教会作成

記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」

第1期第2巻より引用