サムエル記における神聖な三一

真理

神のエコノミーとは、神聖な三一を通して、神ご自身を彼の選ばれた人の中へと造り込むことです。神聖な三一は、神のエコノミーにとって非常に重要です。もし神が三一でなければ、神は、彼が創造された人の中へと入り込むことはできません。神が人に彼ご自身を分け与えるためには、神は三一でなければなりません。これは、旧約聖書と新約聖書の両方に描かれている絵です。

 

神聖な三一は、主の言葉の内在的な構造である
神聖な三一は、聖書全体の内在的な構造です。神聖な三一は新約の中でとても明確に啓示されています。それはマタイによる福音書第二八章十九節のように、父、子、聖霊という神聖な三一を示している節があるからです。神聖な三一はコリント人への第二の手紙第十三章十四節にも明確に示されており、そこでは「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」と言っています。旧約の神聖な三一に関する思想は、新約の思想とまったく同じです。旧約の神聖な三一に対する啓示は、新約ほど明らかではありませんが、旧約はさらに多くの神聖な三一に関する詳細を与えています。わたしたちが主の言葉を読むとき、その内在的な構造である神聖な三一を見る必要があります。建物の基本構造は鉄骨です。建物の中で鉄骨を見ることはできませんが、鉄骨がなければ建物を維持することはできません。同じように、神聖な啓示全体の構造は神聖な三一です。

サムエル記に記載された歴史の概要
サムエル記は、エルカナという人が、ハンナとぺニンナという二人の妻を持つところから始まります(一・一―二)。エルカナはハンナをより愛していました。しかし、ハンナには子供がいませんでしたが、ぺニンナには子供がいました。これは、主の主権から出たものでした。モーセの律法に従い、エルカナとその家族は毎年、神の家(その当時はシロの幕屋でした)に上って、エホバを礼拝し、エホバに犠牲をささげていました(三節)。エルカナはハンナを愛していたので、犠牲をささげるたびにハンナに二倍の分け前を与えていました(五節)。神はハンナの胎を閉じておられました。このことが彼女を強いて、何度も祈らせました(十―十二、十五節)。ハンナは男の子を祈り求めましたが、それは自分のために彼を手元に置くためではなく、エホバの必要に応じるために、その子の生涯をエホバにささげるためでした。ハンナは、男の子が主のために絶対的であるナジル人として生まれてくるようにと祈りました。主は彼女の祈りに答えてくださり、彼女は男の子を産み(二〇節)、彼の名をサムエルと呼びました。それは「神に聞いた」、あるいは「神に求めた」を意味します。

サムエルは幼い頃からナジル人であり、神の家で祭司として仕えていました(一・二四、二・十一、十八)。サムエルとエリが神の宮にいたとき、神はビジョンの中でサムエルに現れました(三・四―十四)。サムエルは、ちょうどイエスが両親と一緒にエルサレムに行かれた時と同じように、その時はまだ子供でした(ルカ二・二四)。そしてサムエルはイスラエルの有名な預言者、士師となりました(サムエル上三・二〇、七・六)。しかし、サムエルが祭司、預言者、士師になることが神の目的ではなく、神は王国と王を立てたかったのです。そのため、神はサムエルを二回遣わして、人を油塗らせました。まず、サウルを油塗り、イスラエルを統治させました(九・十六、十・一)。その後、サムエルはダビデを油塗り、王としました(十六・一、十三)。ダビデはサムエルを通してもたらされました。わたしたちがこの歴史を読むときに、サムエルを生み出し、ダビデをもたらすためには、神聖な三一がその中でかかわる必要があったことを見る必要があります。

サムエル記における神聖な三一
続いて、シロにおける幕屋、ナジル人の分離と犠牲をささげることでの規定、複合の塗り油の三つ
の項目から神聖な三一を見ていきます。

幕屋は具体化された三一の神の予表である
サムエル記上第一章三節によると、エルカナの家族は毎年、シロのエホバの家に上って行き、万軍のエホバを礼拝し、犠牲をささげていました。このエホバの家とは、シロにおける幕屋であり、具体化された三一の神の予表です。

出エジプト記第四〇章二節と九節は言っています、「幕屋を建て上げなければならない。……塗り油を取って、幕屋……に油を塗り」。三四節は言います、「その時、雲は集会の天幕を覆い、エホバの栄光が幕屋を満たした」。この絵の中には、神聖な三一を示す重要な項目、幕屋、油塗り、雲、栄光があります。幕屋が建てられると同時に、雲が下って幕屋を覆い、栄光が入ってきて幕屋を満たします。幕屋が建てられ、雲に覆われ、栄光に満たされたときに、それは神聖な三一の完全な予表となります。ヨハネによる福音書第一章十四節前半には、「そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた」と書かれています。このように、幕屋の予表の成就は、神聖な三一の第二である、肉体と成られた子なる神、キリストにおいて成就します。

コリント人への第一の手紙第十章一節から二節、そして第十二章十三節において、下ってきて幕屋を覆った雲は、神聖な三一の第三である聖霊を予表しています。ヨハネによる福音書第一章三二節でも、下ってきた雲がその霊の予表であることが確認できます。そこでは、「わたしはその霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た」と言っています。ヨハネは、その霊がキリストへと下ってきたのを見ました。同じ章の十四節では、キリストは幕屋の成就として見られています。それだけでなく、十四節の後半は「わたしたちは彼の栄光を見た」と言っています。この栄光は、幕屋を満たす栄光に相当するものです。ですから、出エジプト記第四〇章で、幕屋が下ってきた雲に覆われ、エホバの栄光で満たされたという絵は、ヨハネによる福音書第一章のキリストにおいて成就されています。

幕屋が建てられ、雲が下って幕屋を覆い、栄光が入ってきて幕屋が満たされた日は、歴史上の大いなる日でした。それ以前には、三一の神は地上において具体化されていませんでした。雲に覆われ、栄光に満ちた幕屋は、イスラエルの大きな祝福でした。それらは外側での出来事にしかすぎませんでしたが、今日わたしたちには、その実際があります。今日、幕屋の成就としてのキリストがわたしたちと共におられます。覆う霊がこの幕屋の上におられ、栄光がこの幕屋を満たしています。

ナジル人の分離において啓示された神聖な三一
「ナジル人」という言葉には、「分離された者」という意味があります(民六・二)。ナジル人は、特別な誓願を立て、自分自身を神へと分離した者です。旧約においては、神はアロンの子孫を祭司に定めました。このように、神の選びによって、ある者たちは祭司職に生まれました。しかし、それらの神に仕える心がある者に対して、門戸は閉ざされていませんでした。なぜなら、神はまたナジル人の原則を確立しておられたからです。それらの祭司職へと生まれなかった者たちも、神に仕えたいという心があれば、誓願によってナジル人になることができました。サムエルはナジル人でした。彼は祭司として生まれたわけではありませんが、ナジル人になることで、祭司として仕えることができました(サムエル上第一章―第三章)。

わたしたちは、神聖な三一が、ナジル人が分離されることにおいて完全にかかわっていたことを見る必要があります。ナジル人の分離には、いくつかのささげ物、すなわち全焼のささげ物、罪のためのささげ物、平安のささげ物、そして異なったいくつかの、油が塗られ、そして混ぜ合わされた穀物のささげ物のパンが必要です。ナジル人が分離されることにおいて、これら四種類のささげ物はみな基本的なものです。

民数記第六章十三節は言います、「これは、分離の日が満ちた時のナジル人の規則である.彼は集会の天幕の入り口に連れて来られなければならない」。幕屋とは、キリストが神の住まいであり、神の民が集まる場所であることを指しています。わたしたちは出エジプト記とレビ記のいくつかの箇所で、神聖な三一を享受するあらゆる事例がみな、幕屋の中においてであったことを見ます。わたしたちは、幕屋としてのキリストから離れてはいけません。なぜならキリストこそが、わたしたちが神聖な三一を享受する立場と領域だからです。

次に、十四節では、ナジル人が「ささげ物をエホバに献げなければならない」ことが語られています。「エホバ」という神聖な称号には二つの大きな特徴があります。それは神と人との関係を明らかに示しており、また神聖な三一を示しています。出エジプト記第三章六節でエホバは言われました、「わたしは……アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。エホバが自らを三代の神、三重の神と呼んだことは、神の神聖な三一を暗示します。このように、民数記第六章のナジル人の分離において、エホバは三一の神です。

十四節で続けてささげ物について次のように言っています、「すなわち、全焼のささげ物として傷のない一歳の雄の小羊一頭、また罪のためのささげ物として傷のない一歳の雌の小羊一頭、また平安のささげ物として傷のない雄羊一頭」。全焼のささげ物は神の満足のためのキリストを表徴し、罪のためのささげ物はナジル人の罪のためのキリストを表徴しています。全焼のささげ物はナジル人の誓願の基礎であり、基本的なささげ物です。ナジル人になるためには、全焼のささげ物の生活、完全に神のためである生活をする必要があります。罪のためのささげ物が必要なのは、わたしたちの罪深い性質が、神のために絶対的に生きることを阻むからです。ナジル人の誓願には違犯のためのささげ物は含まれていません。なぜなら、わたしたちは基本的には、わたしたちの違犯のゆえではなく、罪深い性質のために、神のために絶対的に生きることができないからです。わたしたちの天然の構成は、人の目にどんなに良く見えても、すべては罪であり、神のためのものではありません。

ナジル人の誓願の中の平安のささげ物は、わたしたちが神に自発的に仕える生活を送るときに、わたしたちは平安を享受することを見せています。つまり、絶対的に神のために生きるという、ナジル人の生活をしていないなら、平安を得ることは難しいのです。外側では、わたしたちと人との間に何も問題がないかのようですが、わたしたちの内側ではみな問題があるのです。平安のためのささげ物は、キリストがナジル人と神、また神の民との平和であることを表徴しています。

十五節から十六節は、「パン種のないパン一かご、油を混ぜ合わせたきめの細かい小麦粉の輪型の平らなパン、油を塗ったパン種のない極薄のパン、これらの穀物のささげ物と注ぎのささげ物を献げなければならない。祭司はこれらのものをエホバの御前に持って来て、彼の罪のためのささげ物と全焼のささげ物を献げなければならない」と言っています。パン種の入っていないパンのかごには、穀物のささげ物の構成要素が含まれています。「塗った」は外側での結びつきであり、「混ぜ合わせた」は内在的なミングリングです。油を混ぜ合わせたきめの細かい小麦粉のパンの絵は、キリストにおける人性と神性のミングリングをはっきりとわたしたちに見せています。

油を混ぜ合わせたきめの細かい小麦粉のパン種の入っていないパンは、罪のないキリストがその霊とミングリングされ、その霊によって油塗られ、神と祭司のための食物となったことを示しています。キリストは罪のない方であり、外側ではその霊で油塗られ、内側ではその霊とミングリングされています。彼は罪のない方であり、その霊で満ちた方です。そのようなキリストは、神と彼に仕える者の食物です。

穀物のためのささげ物は神の満足のためのキリストを予表しており、注ぎのささげ物は神の喜びのためのキリストを予表しています。注ぎのささげ物はぶどう酒であり(レビ二三・十三)、それを飲んだ者を喜ばせます。満足と喜びとは同じではありません。わたしたちが食事をするとき、メインディッシュはわたしたちを満足させますが、デザートを食べたときに喜びを経験します。神は満足するだけでなく、喜ぶことを望んでおられます。わたしたちは自分をささげることで神を満足させることができますが、わたしたちはまた、自分を注ぎ出すことで神を喜ばせる必要があります。

ナジル人は分離されることで、予表において神聖な三一の神聖な分与にあずかっています。ナジル人が奉仕を開始し、自分自身をこの世から神へと分離したとき、彼は神聖な三一の豊富にあずかります。ローマ人への手紙第十二章一節は、わたしたちは自発的に自分自身を神にささげる必要があると命じています。民数記第六章におけるこのナジル人の分離という予表において、神聖な三一がわたしたちのささげることと完全にかかわりがあることが示されています。

油塗りは三一の神の究極的完成としてのその霊を予表する
サムエル記上第十章一節は言います、「サムエルは油の壷を取って、それをサウルの頭に注ぎ……言った、『エホバはあなたを油塗って、ご自身の嗣業の民を支配する者とされました』」。第十六章十三節は言います、「サムエルは油の入った角を取り……彼(ダビデ)を油塗った.その日から、エホバの霊がダビデの上に激しく臨んだ」。この節の中で、油塗りは神の霊、すなわち三一の神を予表します。神聖な三一がサウルとダビデを油塗られ、イスラエルの王とされたことにかかわっていました。

出エジプト記第三〇章二三節から二五節は言います、「あなたはまた、最も良い香料を取りなさい.すなわち、流れる没薬五百シケル、かおり高い肉桂をその半分、すなわち二百五十シケル、におい菖蒲二百五十シケル、桂枝五百シケル……またオリブ油一ヒンを取りなさい。あなたはそれを聖なる塗り油に……複合して、かおり高い膏油に作らなければならない.それは聖なる塗り油である」。オリブ油は神の霊を表徴します。三つの五百シケルの単位、すなわち香料の分量は、神聖な三一を表徴しています。その中間の単位、五百シケルは二つの部分に分けられ、各々が二百五十シケルになっています。それは三一の第二が、十字架に付けられたとき、岩が裂かれたのと同じように、「分けられた」ことを表徴しています(ヨハネ十九・三四、出十七・六)。一ヒンのオリブ油は唯一の神を表徴しています。四種類の香料はキリストの人性を表徴しています。なぜなら、四という数字は神の創造された人(創一・二六)を指しているからです(エゼキエル一・五)。没薬は埋葬するときに用いる香料であり、キリストの死を予表しています。肉桂はキリストの死の甘さと効力を予表しています。菖蒲は沼地に生える葦の一種で、キリストの復活を予表しています。桂枝は虫や蛇を追い払う駆除剤として用いられ、キリストの復活の力、効力を予表します。これらの成分と分量が複合されて膏油となります。すなわち、聖なる膏油となります。これは、三一の神の究極的な完成としての手順を経た、すべてを含む、複合の霊であり、神の贖われた民を油塗ります。

油塗りはペンキを塗るのと似ています。ある対象物にペンキを塗るとき、そのペンキはそれと一になります。わたしたちは三一の神によって「塗られ」たので、神と一とされました。三一の神が手順を経て、すべてを含む複合の霊と成られた目的は、三一の神が彼の究極的完成の中で、彼の神聖な要素と、彼が経過されたすべての過程(肉体と成り、人の生活をし、十字架に付けられて復活したことを含む)のすべてを彼の贖われた民の中へと分与し、彼らと神を一にすることでした。

神聖な三一のかかわりと働きに信頼する
サムエル記は、王をもたらし王国を設立することが、神聖な三一がご自身の民とかかわりを持つことにかかっていることを啓示しています。今日も、三一の神はわたしたちとかかわりを持っておられます。三一の神は、彼の具体化と、彼の贖いと彼の霊とをもって、ご自身の来臨と王国のために、わたしたちを有用な人へと構成しつつあります。わたしたちは、神のエコノミーを完成するために、神聖な三一のかかわりと働きに信頼しなければなりません。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第5巻より引用

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