福音の鍵 恒

福音メッセージ

日の下で、物質の領域において、永存するものは何一つありません。あなたはこのものが重要であると思っているかもしれませんが、それはすぐに過ぎ去ります。あなたがつかみ取っていると思うものもすぐに消え去ってしまいます。この世で、永久、永遠のものを見いだすことはできません。

「世と世の情欲は過ぎ去っていきます.しかし、神のみこころを行なう者は永存するのです」(ヨハネの第1の手紙第2章17節)。

古代ギリシャのマケドニア国王のアレクサンドロス大王は、戦いに強いことで良く知られており、戦いに敗れたことがなく、数年でヨーロッパ、アジア、アフリカをまたぐ大帝国を築き上げ、世界を治め、空前絶後の国勢を持ち、この世に並ぶものがない勢いがありました。あるとき、彼は凱旋の途中に病で倒れました。まもなく、死がやってくるというときに、彼は栄華のむなしさ、人生のはかなさを思って、部下たちにこう告げました、「わたしが死んだ後、わたしの棺の両側面に穴を開け、わたしの腕を棺の外に出してください。そして、両手が空のまま町を行進してください。それは、この世の人の目を覚まさせるためであり、わたしは空の手でこの世に来て、なお空の手で世を去ることを彼らに見せるためです。すべての栄華、富、名誉、名声は一つも持っていくことはできません!」。

聖書における伝道の書は、知恵の王であるソロモンによって書かれました。ソロモンは比類のない知恵、至高の地位、計り知れない富を持ち、さらには数百人の王妃がおり、情欲において極みまで堕落していました。地上の学問、名誉、享受、娯楽などを追い求めるための十分な条件を彼より持っている者はいないでしょう。結局、彼はすべてを得ましたが、満たされず、彼の経験から一つの結論を得ることしかできませんでした。それは、「空の空、伝道者は言う.空の空、すべては空である」(伝道の書第1章2節)です。すべての積極的、また消極的な人生の経験を経過することを通して、彼は伝道の書の中でこの深い思いを表しました。それは、日の下で、堕落して神から離れた人生はすべて空であり、風を捕らえるようなものです。ソロモンは完全にこのことを理解して、彼の描写の中で、このことを極みまで強調しました。しかし、彼はこのことで完全に失望したのではなく、このむなしさから逃れる一つの道をわたしたちに教えました。

人は神に造られたものであり、造られた人の命は短く、去っていくものですが、人の内側に永遠を追い求める願いがあるということをソロモンは理解していました。すばらしいものは何であれ、人々はそれが永遠に残って欲しいと望みます。ですから、彼は言いました、「彼(神)はすべてを造り、時にかなって美しくされた.また、彼は彼らの心に永遠を置かれた」(3章11節)。ソロモンはわたしたちに告げていますが、神は世の人の心に「永遠」というものを置かれ、植えられました。それは、人が永遠を尋ね求める感覚、永遠を追い求める願いを持っているということです。神以外にこの感覚を満たすことはできません。

人は常に何かを追い求めて、内側にある永遠の感覚を満たそうとします。この永遠を追い求める願望、永遠を追い求める感覚を満たすことができるものはどのようなものでしょうか? 物質の領域において人を満たすものは何一つありません。日の下で、どんな人、事、物も、人の内側の奥深くにある永遠を追い求めようとする感覚を満たすことはできません。ただ永遠の神だけが、人の尋ね求めている永久、追い求めている永遠の感覚を満たすことができます。ですから、新約において使徒ヨハネはこのように言っています、「世と世にあるものを愛してはいけません。……なぜなら、すべて世にあるもの、すなわち肉の情欲と目の情欲と生活の虚栄とは、御父から出たものではなく……世と世の情欲は過ぎ去っていきます.しかし、神のみこころを行なう者は永存するのです」(ヨハネの第1の手紙第2章15節ー17節)。神のみこころは、神が人に触れ、接触されることです。なぜなら、神からのものだけが永存するからです。

この神は永遠であるので、彼から出て来たものも永遠です。この万物を創造された神、彼の存在、彼の属性、彼の美徳はすべて永遠です。彼ご自身は永遠であり、彼の命は永遠であり、彼の言葉は永遠であり、彼の愛は永遠であり、彼の属性は永遠です。彼は時間において永遠であるだけでなく、性質においても永遠です。ですから、人は神を知り、神を得て、人の内側に入って来ていただき、永遠を追い求める感覚が満たされるようにする必要があります。神が入って来るとき、永遠の命を人の中へと分与し、有限でつかの間の人に永遠で無限の命を得させ、人を再生させ、人を神の子供としてくださいます。つかの間の有限な人生の中で、わたしたちには希望があり、可能性があります。また永遠の事柄を追い求めるべきです。すなわち、神ご自身を得て、神の永遠の命を得るべきです。それは人の短い命を神聖で永遠の命と結合し、ミングリングし、永遠へともたらし、神の中へともたらすことができます。

「なぜなら、『すべての肉は草のようで、その栄光はすべて草の花のようだ。草はしおれ、花は散る.しかし、主の言葉は永遠に存続する』。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられた言葉です」(ペテロの第1の手紙第1章24節―25節)。

すべての堕落した人類はしおれた草のようであり、彼らの栄光は散る草の花のようです。ですから、その散っていく人は永遠の神が必要です。神は唯一しおれず、散らない、永遠に存続する方です。人生は何と短いことでしょう! 聖書で人の年月を「手幅のように」(詩篇第39篇5節)、また、人の命は、「やがて消えていく霧のようなものです」(ヤコブの手紙第4章14節)と言っています。この万物を創造された神だけが永遠であり、変わらないのです。ですから、彼の言葉も永遠です。聖書は言います、「言は神と共にあった.言は神であった」(ヨハネによる福音書第1章1節)。神は目で見えないものであり、抽象的で、奥義的ですが、彼は彼の言葉の中に具体化されており、わたしたちに宣べ伝えられた福音がこの言葉です。この言葉は実際に、肉体と成った神であるキリストです。この生ける言葉であるキリストは永遠に存続します。クリスチャンが受け入れた福音は、イエス・キリストであり、彼は永遠に生きておられる救い主であり、二千年前に死なれましたが、今、生きておられ、永遠に生きておられます。ローマ人への手紙第10章9節は言います、「あなたが自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神は彼を死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われます」。人が彼の名を呼び求めて、彼を信じるとき、生ける霊であるキリストは人の中へと入って、人の命を変えられます。ムハンマドは死に、彼の墓はなおメッカにあります。アレクサンドロス大王は死に、同じように墓に横たわっています。この世のすべての偉大なリーダーはみな死に、彼らの墓、もしくは陵に葬られています。しかし、イエス・キリストはなお生きておられます! 彼の墓は空であり、彼は何千万もの彼を信じる人の中に生きておられます。もし、あなたがイエスを呼び求めるなら、彼は必ずあなたの中へと入ってきて、あなたの命を変えてくださいます。彼はあなたのむなしさを実際に変え、暗やみを光に変え、弱さを力に変え、恐れを勇気に変え、悲しみを喜びに変えてくださいます。なぜなら、神の言葉はこう言うからです、「彼を呼び求めるすべての者に、彼は豊かです.なぜなら、『主の御名を呼び求める者はすべて救われる』からです」(第10章12節―13節)

「生ける望みを持たせ、朽ちず、汚れず、しぼまない、あなたがたのために天に蓄えられている嗣業を得させてくださいました」(Ⅰペテロの第1の手紙第1章3節後半―4節)。

聖書は言います、「その当時、あなたがたはキリストから離れ、この世の中で希望もなく、神もない者でした」(エペソ人への手紙第2章12節)。わたしたちにキリストがなければ、神はなく、わたしたちの人生に希望はありません。あなたの事業がどんなに発展しても、どんなに成功しても、どんなに地位を得ても、依然としてむなしいと感じて満たされません。神がない者は、何とあわれで、何と望みがないことでしょう! あなたはこの世に生きていて味気ないと感じているでしょうか? それはあなたに神が欠けているからです。

キリストがわたしたちの中に入って来ることによってのみ、わたしたちの内側にあるむなしさは解決され、わたしたちの人生に望みを持つことができます。復活のキリストがわたしたちの命と成るとき、生ける望みをもたらします。それは、永遠の命と関わるすべての天的で神聖な祝福である嗣業を得ることです。この嗣業は物質的なものではなく、地の嗣業に相対するものであって、天に蓄えられているものですが、今やわたしたちは地上でそれを享受することができます。それは、遠い発電所に蓄えられている電気のようであり、電力の伝達を通して、わたしたちは日々家の中で電気を使って享受することができます。同じように、わたしたちの天的で、神聖な嗣業は天に蓄えられていますが、絶えずわたしたちの霊に伝達され、わたしたちに享受させます。わたしたちが主の名を呼ぶとき、神聖で、天的な伝達を経験し、わたしたちのために天に蓄えられている嗣業を適用し、享受します。この嗣業は本質において、朽ちることなく、純潔において、汚れることはなく、美しさと栄光において、衰えることはありません。これはクリスチャンの生涯の中で絶えず経験し、享受する神聖な命です。

「エホバはわたしの嗣業の分け前、……まことに、この嗣業はわたしにとって美しい」(詩篇第16篇5節―6節)。

聖書は、天地は滅び、すべては衣のように古びると言っています。また、神は常に変わらず、彼の年は尽きることがないと告げています(ヘブル人への手紙第1章11節―12節)。ですから、地は人の真の嗣業ではありません。地はただ一つの象徴であって、神が人の嗣業です。聖書ではっきりとわたしたちに告げていますが、神が造った人は神の器です(ローマ人への手紙第9章23節―24節)。器は容器であり、本体は空であるので、内容を持つべきです。器の内容は器の嗣業です。人は神の器であって、人の嗣業は神です。ですから、人に神がなければむなしく、貧しいのです。

今日、人はみな生活する土地が必要であり、住む家も必要です。しかしながら、神がわたしたちの永遠の分け前であり、わたしたちのすべてであり、またわたしたちの安息の住まいです。神はわたしたちの地の嗣業であり、またわたしたちの住まいです。これが旧約における詩人の神に対する経験です。「エホバはわたしの嗣業の分け前、……まことに、この嗣業はわたしにとって美しい」(詩篇第16篇5節―6節)。主イエスも来られたときに言いました、「すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える」(マタイによる福音書第11章28節)。また彼は人に対して言いました、「わたしの中に住んでいなさい」(ヨハネによる福音書第15章4節)。今日すべての堕落した人はみな神を失い、嗣業を失い、真の住まいを持たずにさまよい、路頭に迷い、帰る家がありません。表面的に見て、彼らには高層マンションがありますが、実際に彼らの内側には安息がなく、住まいがありません。人がさまようのは、神を失ったからです。ただ神だけが人の真の住まいであり、人の真の嗣業です。

この話を聞かれた友人のみなさん、このつかの間の有限な人生を捕らえて、永遠で無限の神を得てください。一方で永遠を追い求めようとする感覚が満たされ、もう一方で永遠の命を得て、永遠の神を得て、あなたは永遠で無限の神と結合します。これは人生において何という祝福でしょう! これは神が人のために定めたみこころであり、彼の心の願いです。別の被造物にはこの望みはなく、人だけが神の姿にしたがって、彼のかたちにしたがって造られたので、彼は人の心の中に永遠を追い求めようとする感覚を植えられました。あなたが永遠である彼を追い求めて得ることができますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第5巻より引用

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