ひそかな敵あり(5)

福音メッセージ

自己を追い求めることから離れるには、第一にわたしたちの古い人がすでに十字架につけられたことを見る必要があります。また、わたしたちの意見は、わたしたちの古い人の中の一つの表現であることを見る必要があります。そして、キリストの十字架の死を、わたしたちの意見に適用する必要があります。ここで言っている、「われを祭壇に、ささげさせよ(全訳‥あなたの生ける供え物としてささげさせてください)」とは、詩の作者が追求の方向を変えたということだけでなく、彼とキリストとが結合されたということを示しています。わたしたちは、聖霊に、わたしたちの目を開いていただき、十字架で主だけが釘づけられ死んだのではなく、同時に、わたしたちの古い人も十字架につけられ、そこで終わらされたことを見る必要があります。わたしたちは、すでにキリストと共に死にました。この事実をわたしたちが受け入れるなら、聖霊はさらに進んだものをわたしたちに見せます。それは、わたしたちの主張や意見が古い人の一つの表現であるということです。わたしたちの古い人は、主によってすでに十字架につけられましたが、なぜ古い人にこのような表現を、いまだに持たせてしまうのでしょうか?

ですから、わたしたちは十字架の死を自分に適用する必要があります。もしわたしたちが、自己の主張や、意見が出てきたことを見つけ出したなら、いつでもそれをすぐに否定し、十字架の死の下に置きます。これが十字架を負うことの意義です。

5 猛れつないき吹き、
    自己ほろぼせ;
  もはや立てぬまで、
    自己ほろぼせ。
  栄こう満ちるとき、
    だれも立ち得ぬ;
  栄こうわれに満ち、
    自己死なせよ。

[5 主よ、わたしに猛烈な息を吹き、
    わたしの自己を焼き殺してください。
  自己のあらゆる面が、
    永遠にもはや
    戻ることがありませんように。
  あなたの栄光が幕屋に満ちる時、
    モーセでさえ立つことが難しいのです。
  あなたの栄光がわたしに満ち、
    永遠にこの自己を殺し
    死なせますように。 (全訳)]

わたしたちが真に十字架を適用したいなら、十字架の殺す力が今、聖霊の中にあることを認識する必要があります。わたしたちは、客観的な事実によって、自己が死んだとすることだけでは不十分です。さらに、主のわたしたちへの「猛れつないき吹き」が必要です。多く聖霊がわたしたちに与えられることで、わたしたちは真に「自己を死なせる」ことができます。自己を対処する経験の適用は、まずわたしたちが聖霊の交わりの中にいることです。わたしたちが聖霊の交わりの中に生きているのでなければ、すなわち古い人が十字架につけられたことを理解し、わたしたちの意見が自己の表れであることを知ったとしても、それはむなしい教理です。また、どんな実際的な経験を持つこともできません。わたしたちが聖霊の交わりの中に生き、聖霊に触れるなら、その時わたしたちは聖霊に、キリストの十字架の死をわたしたちのすべての生活と行動の上で執行してもらわなければなりません。このようにされることは、わたしたちが聖霊と協力することです。まずわたしたちは聖霊によってキリストの十字架の死を適用します。そして次に聖霊にキリストの十字架の死を執行してもらいます。一方ではわたしたちが行なうのであり、もう一方では聖霊に行なってもらうのです。聖霊の交わりの中にあってこの二つは切り離すことができません。

出エジプト記 第40章34節から35節前半は言います、「その時、雲は集会の天幕を覆い、エホバの栄光が幕屋を満たした。モーセは集会の天幕に入ることができなかった.雲がその上にとどまり」。列王記上 第8章11節はまた言います、「祭司たちはその雲のゆえに、立って務めをすることができなかった.エホバの栄光がエホバの家を満たしたからである」。これらの絵図は、わたしたちに深い印象を与えます。神の臨在がある神の住まいの中で、いかなる天然のものには地位がないということです。雲と栄光が神の幕屋を満たすには、自己が依然としてそこに立っていることは許されません。もしわたしたちが、今いる召会において、神の栄光の証しを表し出したいならば、徹底的に自己が対処されなければなりません。わたしたちの自己が殺されるなら、神の栄光がわたしたちを満たします。この世の人は、愚かさの中で、優越感や、その他の魂の命を満足させる事柄を追求するでしょう。神の子どもたちは、目を覚まして、自己の脅威を認識し、霊を用いて、このひそかな敵を撃退し殺してしまう必要があります。自己を認識し、自己を否むことで、この詩歌はわたしたちを大いに助けます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第1巻より引用