渇いている人の必要

福音メッセージ

ユダヤ人は毎年七つの祭りを持っています。その一年の最後、収穫時に持たれたのが仮庵の祭りでした。ユダヤ人は収穫し、倉に入れた後に、仮庵の祭りを守り行ないます。それはただ神を礼拝し、この一年で労苦し収穫した物を喜ぶものです。この祭りの間は、人は労苦することはありません。なぜなら仕事はすべて終わっているからです。作物はすでに収穫され、穀物や、新しい酒すべてが倉に収められました。それは彼らが豊作を味わい、楽しく祭りをする時なのです。

普通、祭りといえば長くてもせいぜい二、三日のものです。ところが仮庵の祭りは、七日間も続く一年のうちで最大の祭りでもありました。祭りの最後の日は、最も大いなる日であり、ユダヤ人にとって一番楽しいはずでした。その日、主イエスは立ち上がって彼らに叫んで言われました、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」(ヨハネによる福音書 第7章37節)

主イエスが彼らにこれらのことを語られたのは、祭りの終わりの大いなる日でした。この祭りは、彼らにとって一年中で一番最後の大いなる日であり、最大の一日であり、また最も楽しい一日でもありました。単に祭りの終わりの日であるだけでなく、一年中のすべての祭りの最後の日でもありました。言い換えれば、この日が過ぎると、一年中のすべての祭りもみな過ぎてしまい、この一日の楽しみが過ぎてしまう時には、一年中のすべての楽しみも過ぎてしまうということです。 

祭りは楽しい日であり、人生の楽しい時を象徴しています。仮庵の祭りは、さらに人が学業において、事業において、家庭において、また人生のあらゆる事で、成功を収める時の喜びと享受を表徴しています。祭りの終わりの日とは、人生の楽しみの終わりを象徴しています。人生の楽しみが何であろうと、またどれほど多くあろうとも、それには一つの終点があり、やがて終わりの一日が来ます。どんなことにも終わりの日があります。学校の卒業の時の楽しみも、その卒業式の楽しみがたちまち消えてしまうことをわたしたちは知っています。円満な家庭にも、死から来る終わりの日があります。最も盛んな事業にも、没落する日があります。最も長生きの人にも、この世を離れる日があります。一着の美しい衣服、一つの装飾品にも、終わりの日があります。

ユダヤ人が仮庵の祭りを持つこの絵図は、人生を最もよく描写しています。彼らのすべての労苦が実り、穀物や新しい酒となります。彼らはその両手で労苦して、すべてを得ます。労苦が終わり、最後に残されたことは、七日間連続して共に彼らの労苦した収穫を享受することだけです。そしてその第七日目は、最も大いなる日です。それは最高潮であり、また最終の日でもあります。みながそれぞれに帰っていく日でもあります。宴席での食べ飲みは暫時的な満足と享受をもたらしますが、「最高潮」と「終わり」の悲しい状況は、尽きることのないむなしさと渇きをもたらします。終わりの日に、楽しみが終わり、得ることが失うことに変わり、満足が渇きに変わります。多くの事は、人の喜びが大きければ大きいほど、高ければ高いほど、深ければ深いほど、濃厚であれば濃厚であるほど、その終わりの日の渇きの感覚が一層強いものであることを証明しています。

主イエスが祭りの終わりの日まで待ってから、はじめてこの祭りで楽しんでいる人たちに渇きの問題を持ちかけられたのは、このゆえでした。その七日間の祭りの初めの二、三日は、始まったばかりであり、みな大いに興奮しているので、だれも渇きを覚える者などいません。三日目、四日目と、その楽しさが最も高まる時には、渇きを覚える者はいません。ところが、五日目、六日目には、いくらか味わいが違ってきます。ああ、七日目になると、それが最も楽しい日であるはずなのに、より深い、より強烈な渇きが内側から自然に起こってきます。このような時、主イエスは立って叫んで言われました、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」。

主イエスがこのように大きな声で叫ばれたのは、彼が祭りを過ごした人が誰も満足を得ていないことを知っていたからです。その祭りがいかに盛大でも、六日間の宴席と享受が渇きを止めることはできず、渇きを解決することができません。その祭りの終わりの日が来ても人の内側には渇きがあり、満足がありません。

多くの人は、自分が渇いている者であることを知っています。またこの世の中から「水」を探して渇きを解決しようとします。この世の事物は渇きを解決してくれないだけでなく、かえって一層、渇きを増し加えるだけです。渇けば渇くほど、さらに渇きます。内なる渇きは解決されないだけでなく、かえって増し加わるばかりです。賭博をする者は、ますますかけごとをしたくなりますし、ダンスをする者は、踊れば踊るほど踊りたくなりますし、たばこを吸う者は、吸えば吸うほど吸いたくなりますし、酒を飲む者は、飲めば飲むほど飲みたくなります。このような罪のことだけでなく、人生における正当な事柄においても同じ原則です。研究担当から主任に、課長から部長に、学士から修士へ、修士から博士へ、地位が高くなれば、もっと高くなりたいし、男の子を産めば、また女の子が欲しくなり、名声を得れば、また富も欲しくなります。山の幸を味わえば、海の幸を味わいたくなり、名酒を飲めば、有名なたばこも吸いたくなります。高級車を持てば、また高級マンションが欲しくなります。要するに、現在のこの世の事物は、すべて人の必要を強め、渇きを深め、なお一層の不満足を感じさせるばかりで、渇きを解決してくれるものは何一つないということです。


人は渇いており、渇きを解決する方法がありません。ですから、主イエスは祭りの終わりの日に叫んで言われました。「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。……わたしの中へと信じる者は、……その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」。主イエスがこのように叫ばれたのは、人には渇きがあることを人に知らせるだけでなく、彼には生ける水があって、人の渇きを解決することができることを知らせようとされたのです。
 
当日、主イエスが言われた言葉には歴史的な背景がありました。彼らの先祖たちが荒野を歩いていた時、水のない土地で非常に渇きを覚えたことがありました。その時、神は一つの奇跡を行なわれました。すなわち、岩を裂いて生ける水を流し、彼らがみなそれを飲んで、渇きがいやされたのでした。ユダヤ人は毎年この仮庵の祭りで、彼らの先祖たちが荒野で送った天幕の生活を記念していました。

主イエスが祭りの終わりの日に、ユダヤ人たちに語られたその意味は次のようなものでした、「あなたがたの先祖たちは昔、荒野で水のない渇いた地をさ迷った時、岩から流れ出た水を飲んだ。今日あなたがたもこの世の荒野を歩き回り、いつかは水のない地、すなわち喜びの終点に至る。その時、人は人生の渇きを、今日の祭りの終わりの日と同じように見いだすであろう。それゆえ、だれでも渇きを覚えた者は、わたしに来て飲みなさい。わたしは生ける水を持っており、永遠に流れ、人の渇きを解決することができる」。

詩歌( いのちの泉、深く甘い)習志野に在る教会作成

親愛なる友人の皆さん、当時、主イエスがユダヤ人たちに向かって叫ばれたこれらの言葉は、今日も同じようにあなたに向かって叫ばれているのです。彼は命の救い主であって、わたしたちの人生の渇きを解決することができます。彼はかつて十字架上でご自身の体を裂かれ、ちょうど昔のユダヤ人の先祖たちが荒野にいた時に岩が裂かれたように、彼の中から生ける命の水が流れ出ました。

あなたは、快適な日々を過ごし、祭りの期間の中にいるかもしれません。しかし終わりの日は必ずやって来ます。忘れないでください、あなたに生ける水を与え、あなたの渇きを解決できるのは、主イエスだけです。あなたは、ただ主に開いて言う必要があるだけです、「主よ、あなたを信じます。わたしは渇き、疲れた心を持ってあなたへと行きます。あなたをわたしの救い主として受け入れます」。主イエス、この命の生ける水があなたの中へと入り、あなたの渇きを解決し、あなたを喜ばせ、満足させます。それだけではなく、この命の生ける水は、あなたの中から湧き出て、他の人へと臨み、人の渇きを解決します。

JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第2巻より引用

 

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