福音の祝福

福音メッセージ

多くの人は福音を信じたら、天のお守りを獲得することができ、大きい問題が小さくなり、小さい問題がなくなると考えています。また、みな裕福になり、災いも病もなく、多くの祝福、長寿、多くの子、多くの孫を得ると考えています。しかし、これらはただ人の考えと願望にすぎず、本来の福音の主旨ではありません。福音は人にこの世の祝福を与えるわけではありません。なぜなら、たとえ人が一国の王のように裕福であり、多くの祝福を得て、長寿を得たとしても、人の内側にある空しさ、不安、憂いを解決することはできないからです。この世の祝福は人に、栄華、名誉、人の享受を与えることができるかもしれませんが、人に真の満足を与えることができません。この世の祝福は野にある草花のようであり、やがて草は枯れ、花は散っていきます。環境が変わり、さらには死が近づいたとき、この世の祝福はすべて幻となり、瞬く間に、煙のように消えていきます。もし、神の福音が人に「この世の祝福」を与えるだけであるなら、それは何とあわれで、むなしいことでしょう!

それでは、福音が人にもたらす祝福とはどんなものでしょうか? 聖書ではサウロという名の一人の青年を記述しています。彼が使徒パウロになる前、ユダヤ教のためにとても熱心であり、率先して信者を迫害し、召会を荒らし回りました。彼はこれが神に仕えることであると思っていました。ある日、彼は主イエスを信じる者を捕らえようとダマスコへ向かっているとき、主イエスが大きな光として、天の四方から彼を照らしたので、彼は盲目になって見ることができなくなりました。それから主は彼の目を開き、特に彼の内側の目を開き、また他の人の目を開くように彼に託しました。

使徒行伝第二六章十八節はパウロに対する主の委託について記載しています。それは、彼がユダヤ人と異邦人のところへ行き、「彼らの目を開き、彼らを暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせるのである.それは、わたしにある信仰によって、彼らが罪の赦しと、聖別された人たちの間での嗣業を受けるためである」ということです。これは完全で、全体的な、すべてを備えている福音を啓示しており、その内容はキリストご自身であり、五つの祝福を含んでいます。(一)人の目を開く、(二)暗やみから光へ、(三)サタンの権威から神に立ち返らせる、(四)主を信じることによって罪が赦される、(五)聖別されて嗣業を受ける。

人の目を開く
福音の第一の祝福は、人の目を開くことです。

人は生まれながら盲目である
ある人は反論して、「わたしは盲目ではない」と言うかもしれません。しかしながら、神から見て、すべての未信者は生まれながら盲目です。なぜなら、人々はこの世の神(サタン)によって心の目をくらまされてしまっているからです(Ⅱコリント四・四)。人の外側の目は見えるかもしれませんが、内側の目は失明しており、神の事柄、霊的な事柄に対して、少しも見ることができず、完全に盲目です。

このことは、以下のことによって証明されます。第一に、人は神を知らないということです。人はこの世の事柄、人の状況、学問と知識、世界情勢を知っているかもしれませんが、神はいないと大胆に言います。実は神がいないのではなく、人が盲目で神を見ることができないのです。第二に、人は宇宙の物語を理解していないということです。宇宙の起源と結末に対して、人は少しもはっきりしていません。第三に、人は自分の起源、行程、結末を知りません。人は高い学歴を持ち、哲学と科学を理解し、この原理とあの法則を知っているかもしれませんが、人がどこから来たのか、またどこへ行くのかを全く知りません。これは、人が盲目であることを証明しています。なぜなら、人は自分の実際の状況が見えず、自分の人生がどうなるのかもわからず、さらに自分が神と何の関係があるのかもわからないからです。第四に、神の中に隠された奥義に対して、すなわち宇宙における神のご計画、神がキリストの中で人の内側に入って、人の命となり、人と結合し、ミングリングすることなどに対して、人は全く理解していません。今日、人は最高の教育を受け、最も進歩している文明を持っているかもしれません。しかしながら、上記の四つの項目に対して、全く理解がないのは、人の心の目が盲目であるのにほかならないからです。

目が開かれる
人が福音を聞き、主イエスを信じると、聖霊は人の目を開き、人が神を知り、人生を知り、自分を知り、救い主を知るようにしてくださいます。多くのクリスチャンは、みな証しすることができますが、悔い改めて主イエスを信じたときに視力を得て、霊的で神聖な事物を見て、理解することができるようになりました。主を受け入れる前、わたしたちは霊的な事物に対して、何もわからず、神を知らず、また永遠の事柄も知りませんでした。一旦わたしたちが主イエスの中へと信じて聖書で啓示されている真理の中に入り込むと、わたしたちは霊的な事物に対して理解し始め、人生に対しても、わたしたちがどこから来て、どこへ行くのかに対しても、人生の意義に対してもはっきりと見えるようになります。

暗やみから光へ
福音の第二の祝福は、人を暗やみから光へ立ち返らせることです。

人は生まれながら暗やみの中にいる
生まれながら盲目な人は、光を見たことがありません。たとえ太陽の光、月の光、星の光、ともし火の光があっても、彼は常に暗やみの中にいます。盲目の人は、暗やみの中にいる人です。今日、聖書には書かれた言葉があり、召会と多くのクリスチャンが宣べ伝える神の言葉があり、また多くの霊的な書物があります。これらはみな神からの霊的な光を伝達し、人に神を知らせます。しかし、多くの人は読んでも理解できず、神を見ることができず、神の事柄に対して知らず、理解できず、また信じません。これは、人が生まれながら暗やみの中にいることを証明します。

また、暗やみの中にいる人には喜びがありません。なぜなら暗やみの中にいることは苦しいことであり、少しの望みもないからです。暗やみは罪と死の印です。罪の中にいる人はみな、暗やみの中にいます。暗やみは人をくらまし、罪の汚れと恐ろしさを見えないようにさせるので、人は罪から出ることができず、出ようともしません。主イエスが地上におられたとき、思い上がっているある聖書学者とパリサイ人はそのようでした。彼らは他の人の罪しか見えず、ただ人の罪を罪定めしようとしていましたが、自分の狡猾さ、邪悪、偽善を認識していません。彼らは暗やみの中にいるので、自分の罪と汚れを見ることができません。こういうわけで彼らは、罪から救い出す主イエスを救い主として受け入れようとしませんでした。

今日の状況はまさにこのようです。人の心はますます邪悪になり、この世の状況はますますひどくなっていますが、人々はなお良心に背いて、主イエスを信じようとしません。多くの人は極みまで罪を犯し、腐敗し、一日中罪の中におぼれていながら、依然として救い主によって救い出される必要を感じていません。たとえある人が救い主に転機するように彼らに勧めたとしても、彼らは受け入れることを望みません。この原因は、暗やみが彼らを罪の中にいるようにくらましているからにほかなりません。これは聖書が告げているように、「この時代の神は、彼らの中で、信じない者たちの思いをくらましてしまい、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、彼らの上に照らさせないようにしています」(Ⅱコリント四・四)。

暗やみから光へ
わたしたちが福音を信じると、光を見ます。なぜなら、神は光であり、キリストの命も光であり、神の福音も光であるからです。わたしたちの内側に光があるなら、すべてがはっきりと見えるようになり、すがすがしくなり、喜ばしくなります。

主イエスが地上におられたとき、彼はこのように宣言されました、「わたしは世の光である.わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく、命の光を持つ」(ヨハネ八・十二)。わたしたちは暗やみの中を歩むことなく、罪の中で生きることがないようにしたいなら、主イエスを受け入れて彼に従わなければなりません。なぜなら、「彼の中に命があった.この命は人の光であった」(一・四)と述べられているからです。主がわたしたちの中に入られると、わたしたちの命の光となられます。この光は常にわたしたちの内側で照らし、わたしたちがもはや罪を再び犯すことがないように照らし、罪を再び犯すことを望まないまでに照らし、わたしたちを罪から抜け出すまで照らし、救い出します。

暗やみの中にいる人は、罪を犯せば犯すほど、ますます味わいを持ちます。例えば、人と争うとき、争えば争うほど、ますます調子づいて、争えば争うほど、自分に理があるように感じます。これは暗やみの中で自分の間違いが見えないということです。その人が主イエスを信じ、命の光である彼を得た後、再び人と争おうとするとき、この光は彼の内側にある間違いを照らし出すので、彼の怒りは消え、争うことができなくなります。他の罪に関しても、このようにして離れていきます。それは、何かの教え、規則、教義によるものではなく、キリストの命の照らしによります。わたしたちが主イエスを信じるなら、光である彼は、暗やみと罪からわたしたちを救い出し、わたしたちが明るく、喜ばしい生活をするようにしてくださいます。

サタンの権威から神に立ち返らせる
福音の第三の祝福は、人をサタンの権威から神に立ち返らせることです。

人は生まれながらサタンの権威の下にいる
人は生まれながら盲目で、暗やみの中で生きているだけでなく、サタンの権威の下におり、サタンに制限され、サタンの奴隷となっています。これはどういうことでしょうか? 例を挙げてみましょう。第一に人が罪を犯すことは自分によるのではないということです。罪はサタンの具体化です。アダムの堕落によって、サタンは人の中に入って罪となり、人の中に住み、人が行ないたくないことを強いて行なわせます(ローマ七・十七二〇)。はたして罪を犯したい人はいるでしょうか? しかしながら、否定できない事実として、人の内側に自動的で自発的な罪を犯す能力があり、人は罪に支配され、罪の奴隷となっています(ヨハネ八・三四)。人は自由を得たいのですが自由を得ることができません。もがき、努力しようとしますが、罪の支配と束縛から逃れることができません。罪を犯し、悪を行なうことを望んでいませんが、それを行なうのは自分によるのではありません(ローマ七・十四後半―十五)。人が罪を犯すことにおいて、自分によるのではないということは、人がサタンに支配を受けている証明です。

第二に、人は罪を犯し、悪を行なうことにおいて、自分によるのではないだけでなく、死に関しても、自分によるのではありません。なぜなら、人はみなサタンの死の権威の下におり、だれも罪から逃れることはできず、まただれも死から逃れることができません。聖書はわたしたちに告げていますが、「罪の報酬は死です」(ローマ六・二三)。ここで見ることができますが、死は罪によってもたらされたものであり、死は罪の結末です。また聖書は、「死の権能を持つ者、すなわち悪魔」(ヘブル二・十四)と告げています。これは、死の主謀者は悪魔であることをわたしたちに見せています。聖書はさらに告げています、「人が一度死ぬことと、その後、裁きが定められているように」(ヘブル九・二七)。人は罪を犯したことによって、肉体の死があるだけでなく、魂の死があり、それは火の池における「第二の死」(啓二一・八)です。肉体の死は第一の死であり、これは事実です。魂の死は第二の死であり、これもまた事実です。体が死ぬだけでなく、魂も火の池で死にます。これは何と厳粛なことでしょう!

サタンの権威から神に立ち返る
慈愛に満ちた神は、すでに十字架上における主イエスの贖いを通して、わたしたちのために罪と死の難題を解決してくださいました。主イエスは神の御子であり、彼には罪がなく、死の苦しみを受けるべきではなかったのですが、神は、「わたしたちすべての者の罪科を、彼に負わせられた」(イザヤ五三・六)のです。主イエスが十字架上におられたとき、悪魔はあらゆる暗やみの権威を用いて彼を攻撃しました。死は彼を十字架上まで追いやりましたが、彼に打ち勝つことはありませんでした! 死は彼において、完全に失敗しました。なぜなら、主イエスは三日目に死から復活されたからです。死の権勢は彼の足の下に踏み砕かれ、彼はまた、彼を信じるすべての者に罪を赦す恵みを与えられました。主イエスは十字架上でわたしたちの罪を解決されただけでなく、さらに彼は、「死を通して、死の権能を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼ」(ヘブル二・十四)しました。これは天地を揺り動かす事実です! 死の力は強力ですが、死の源、すなわち罪と悪魔は、すでに神によって主イエスの死を通して、わたしたちに代わって対処されました。

主イエスは言われました、「わたしの言を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持っており、また裁きを受けることがなく、死から命へ移っているのである」(ヨハネ五・二四)。ですから、人が福音を聞き、主を信じて受け入れるなら、サタンの支配から逃れ、罪と死から逃れ、神に立ち返って、永遠の命を得ることができます。今日、それはあなたがどちらの方を選ぶかにかかっています。命でしょうか? あるいは死でしょうか? あなたは神の救いを受け入れて、死から命へ移ることができます。また、神の恵みを拒んで死にとどまり、サタンの捕虜となることもできます。もし、あなたが主イエスを求めないなら、サタンの権威から逃れることはできず、死があなたの最後の結末となります。最終的に、あなたはサタンと共に火の池に入ります。しかし、あなたが神の救いを受け入れ、心で主イエスを救い主として信じるなら、彼はあなたを死から命へと移されます。

主を信じることによって罪が赦される
福音の第四の祝福は、人が主を信じることによって罪が赦されることです。

人は生まれながら神の裁きと罪定めの下にいる
人は罪を犯したので、神の裁きの下におかれました(ローマ三・十九)。神は義であり、人には罪があります。神の義にしたがって、また彼の律法によって、神は罪を犯した者を裁かなければなりません。神の義と律法は、人を彼の裁きの下に服させます。

今日、人は神の裁きの下にいるだけでなく、また神の御前においてすでに罪定めされています(ヨハネ三・十八)。人が知っていても知らなくても、感覚があってもなくても、人は神の御前ですでに罪定めされています。人は将来神の裁きを受けるまで待って、罪定めされるのではありません。神の御前で、人の罪ははるか昔に定められています。アダムが罪を犯し、神に罪定めされたとき、この世のすべての人もアダムの中で、彼の一度の違犯を通して、神に罪定めされました(ローマ五・十八前半)。ですから、今日人は生まれながら罪定めされている罪人です。

主を信じることによって罪が赦される
聖書は、「血を流すことがなければ、赦しはありません」(ヘブル九・二二)と告げています。人の違犯が赦されるのは、キリストの血が成し遂げた贖いを通してです。エペソ人への手紙第一章七節は言います、「その愛する者の中で、わたしたちは彼の血を通しての贖い、すなわち違犯の赦しを受けています」。人は罪を犯した後、神の義における律法の罪定めの下におかれました。人は神の義における律法の要求の代価を払わなければ、律法の下から出て来ることができません。主イエスが十字架上でわたしたちのために彼の尊い血を流されたことによって、代価を払い、神の義の要求を満たしてくださいました。ですから、わたしたちが福音を聞き、主イエスの成し遂げた贖いを信じるなら、律法の罪定めから逃れることができます。

わたしたちが主を信じて贖われると、神はわたしたちのすべての罪を全部赦され、わたしたちの罪の案件は、神の御前で完全に解決されます(使徒十・四三Ⅰヨハネ二・十二コロサイ二・十三)。わたしたちが神の御前で犯した罪は、一度で永遠にみな赦され、解決され、もはや罪定めはありません。なぜなら、主イエスはすでにわたしたちを贖ったので、わたしたちの罪は、どんなに大きく、多く、深く、重くても神はすべて赦されました。

聖別されて嗣業を受ける
福音の第五の祝福は、聖別されて嗣業を受けることです。

人は生まれながら聖くなく、神と関わりがない
当初、神が人を造られた後、神ご自身を表徴する命の木の前に人を置かれましたが、人は命の木を受け入れることなく、逆にサタンを表徴する善悪知識の木を受け入れてしまいました(創二・八―九、三・六―七)。こうして、人は神に対する享受を失いました。人が神を失うと、神の供給、防衛、喜びを失ったので、生き延びるために、人は自分で供給、防衛、娯楽を作り、自分の生存の必要を満たしました。このときから、人は神の無い文化を作りました。これを、聖書ではこの世と呼んでいます。

人の作った神の無い文化はサタンに利用されて人を占有したので、人は力を尽くしてただ衣食を顧みて自分を養い、武器を造って自分を守り、あらゆる娯楽を発明して自分を楽しませました。これだけでなく、サタンはさらにこれらを編成して、多くのシステムへと形成しました。今日のこの世は大学のようで、多くの部門に分かれています。それは、飲食部門、服飾部門、婚姻部門、葬儀部門、文学部門、音楽部門、金銭部門、名誉部門……などです。サタンはこれらのシステムを利用して、人をひどく束縛し、あらゆる面で占有し、人を神から完全に離れさせ、神を忘れさせ、この世の中でさまよわせました。人はこれらのことを営み、享受していると思っていますが、すでにあの悪しき者の手に陥っており、彼にやりたいようにやられ、もてあそばれていることを知りません。ですから、人は生まれながらこの世の中に調和されており、俗で聖くありません。

それだけではなく、人と神は関わりがなく、神の家におけるすべての嗣業に対して分け前がありません。ルカによる福音書第十五章は一人の放蕩息子を描写しており、彼は父から与えられた彼の財産を使い尽くし、また飢饉に遭って、貧しくなり、豚が食べていたいなご豆で飢えを満たしたいと切に思っていましたが、だれも彼に何も与えませんでした(十一―十六節)。この物語が描写しているのは、ある堕落した人が父なる神の家にある財産を完全に捨て去り、自分を奴隷として売ったことです。これは今日におけるこの世の人の描写です。神の目に、王、大統領から道路清掃員、乞食までみな放蕩息子であり、彼らの嗣業と享受としての神を失っており、みな漂流し、さまよい、ホームレスです。表面的に見て、彼らは高層ビルに住んでいます。しかし、実際において、彼らの内側には安息がなく、住まいがありません。

聖別されて嗣業を受ける
わたしたちが福音を聞き、キリストを信じ、神に向きを変えるとき、この世から分離され、聖別されます。地位に関して言うと、聖別はこの世とこの世の占有から分離されて、神と神の定められた御旨に帰すことです。神にあずかるだけでなく、神の家の嗣業にもあずかります。性質に関して言うと、聖別は神に浸透されることです。神はわたしたちの嗣業であり、わたしたちの今日の享受となっています。これは、わたしたちが神の命において円熟することによって完成し、神に似るようになります。また、次の時代と永遠において、わたしたちの嗣業としての神を完全に得て、享受することができる資格を持ちます。

エペソ人への手紙第一章十三節から十四節は言います、「あなたがたは真理の言、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、また彼の中で信じ、彼の中であなたがたはまた約束の聖霊で証印を押されました.この聖霊は、わたしたちの嗣業の担保であって」。救われることは神に立ち返って、再びわたしたちの嗣業としての神を享受することです。わたしたちが救われた後、聖霊はわたしたちの中で担保となり、わたしたちが嗣業を得る証明、保証となります。この嗣業は三一の神ご自身と彼が持つもの、成し遂げたもの、彼の贖われた民のために行なうすべてです。この三一の神はすべてを含むキリストの中に具体化されています(コロサイ二・九)。このキリストは聖徒たちに割り当てられた分け前であり、彼らの嗣業です(一・十二)。また聖徒たちに与えられた聖霊は、この神聖な嗣業の前味わい、担保、保証です(ローマ八・二三エペソ一・十四)。ギリシャ語において、担保は見本の意味です。見本はあなたに前味わいを与え、将来あなたが完全に享受することを保証します。聖霊が今日わたしたちの中におられることは、神がわたしたちの享受する担保、見本となることであり、まずわたしたちに前味わいさせ、将来わたしたちが嗣業としての神を完全に享受することを保証します(Ⅰペテロ一・四

どのようにして福音の祝福を得るのか
親愛なる友人のみなさん、神があなたに与えられるものは、瞬く間に煙のように散っていく「この世の福」ではなく、完全で、全体的で、満ちあふれる祝福であり、神ご自身であるこの永遠の命があなたの永遠の祝福となります。今日、あなたが心から悔い改めて主に立ち返り、自分の罪を告白し、救い主としての主イエスを受け入れるなら、彼は直ちにあなたの霊の中に入り、あなたと結合して一となり、三一の神と彼の贖い、救い、命の豊富を伴う神聖な命をあなたに受け継がせ、永遠の祝福となります。今、あなたはこのように祈ることができます、「主イエスよ、わたしはあなたに立ち返ります。わたしは自分の罪を告白し、あなたを救い主として受け入れます。わたしの目を開き、すべての暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせ、わたしのすべての罪を赦してください。主よ、わたしを聖別してください。召会の中で、聖徒たちの間で、わたしの嗣業としてのあなたを享受させてください。」

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第3巻より引用