人にとっての裁き(朗読付き)

福音メッセージ

このじんせい、つゆのように、 さいげつは消えてゆく;

死んだのちに、さばきある!  永えんの火をのがれよ!

主は死を経て、よみがえり、  昇てんし、おうとなった;

死をはい棄し、解ほうして、  いのちをあらわされる。

(詩歌715番3―4節)


人が一度死ぬことと、その後、裁きが定められている

裁きがあることは事実である

あなたの罪は解決されたのか

裁きの結果

裁きの時の言い訳

裁きの時を逃れる方法はない

どのようにして裁きを逃れるか


朗読(人にとっての裁き①) 習志野に在る教会作成

人にとっての裁き①

人が一度死ぬことと、その後、裁きが定められている
ヘブル人への手紙書 第9章27節は、読めば人を不快にし、また聞きたくもない節です。この節を好んでも、好まなくても、聖書の中で最も厳粛な節であり、あなたもわたしも知っておかなければならない節です。この節は言います、「人が一度死ぬことと、その後、裁きが定められている」。ここの定めは二つの部分に分けられます。第一に、人が死ぬことです。第二に、死んだ後に裁きがあることです。もし第一の定めである死が成就されれば、第二の定めである裁きも成就されるでしょう。もし死が確定しているなら、裁きも必ず確定しているでしょう。もし人が死ぬなら、必ず裁きを受けるでしょう。もし神が定めた死をあなたが逃れることができるなら、神が定めた裁きもあなたは逃れることができます。

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裁きがあることは事実である
聖書がわたしたちに告げている多くの事柄のすべては、事実です。もし人がそれらを信じても、信じなくても、それらは依然として事実です。聖書は神がおられて、罪があり、死があるという事実をわたしたちに告げているだけでなく、将来に関する事実、すなわち裁きをわたしたちに告げています。多くの人はこの事実にあまり注意を払いません。なぜなら、それが将来に関することであるからです。しかしながら、人がこの事実を信じようと信じまいと、裁きはやって来ます。あらゆる種類の罪は、小さいものであれ、大きいものであれ、文化的なものであれ、粗野なものであれ、魅力的なものであれ、醜いものであれ、評判の良い人が犯したものであれ、評判の悪い人が犯したものであれ、神による裁きを受けます。あなたがそれを信じても、信じなくても、いずれにしても裁きがあるということは、事実なのです。

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朗読(人にとっての裁き②) 習志野に在る教会作成

人にとっての裁き②

あなたの罪は解決されたのか
友人のみなさん、今日あなたは自分にこのように問わなければなりません、「わたしの罪は解決されているでしょうか?」。死が確実であるのと同じように、裁きも確実なのです。あなたは、自分がいつ死ぬのかわかりません。また、あなたは自分がいつ裁きを受けるのかもわかりません。ですから、今日のうちにあなたの罪の問題を解決すべきです。そうでなければ、あなたはそれがどれほど危険なものであるかわかりません。多くの人は、裁きはそれほど重要ではないと考えています。しかしながら、もしあなたが自分の罪の問題を今日解決しないで、神の御前で罪を対処しないなら、裁きは将来あなたに対し、容赦なく臨むでしょう。この問題は極めて重要です。あなたは今日、神の御前でこの問題を徹底的に対処しなければなりません。そうでないと、裁きがやって来た時に後悔しても遅すぎます。

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裁きの結果
聖書はわたしたちに、裁きがあることを告げているだけでなく、裁きの結果も告げています。将来、神はこの世のすべての人の罪を裁かれるでしょう。神は、神を知らない者たちや、主イエスの福音に従わない者たちに報いを与えられるでしょう。彼らは、永遠の滅びという刑罰を受け(テサロニケ人への第2の手紙 第1章8節―9節)、火の池に行くでしょう。聖書はわたしたちに、神が世の人を愛されることを告げていますが、また火の池の火についても告げています。もしわたしたちが赦しの恵みを得られなければ、これは最も危険なことです。未信者は主の御顔から引き離され、火の池に行くでしょう。これは永遠の滅びであり、だれもそれを逃れることはできません。

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裁きの時の言い訳
ある人は次のように考えるかもしれません、「わたしは裁きの座の前に立つ時、神に言います、『あなたはわたしを火の池に送ることはできません。なぜなら、わたしは自分が聞いた福音を理解できなかったからです』」。ある人は、裁きの時、神に言い訳をすればよいと思うかもしれませんが、神はすでにずっと前に、あなたが言い訳できないようにあなたに答えておられます。

どうか聞いてください、「ニネベの人たちが裁きの時に、この世代と共に立ち上がり、この世代を罪に定めるであろう。なぜなら、彼らはヨナの宣べ伝えによって、悔い改めたからである」(マタイによる福音書 第12章41節前半)。将来、裁きの座の前で、神は自ら人の罪を責める必要はありません。神はただそこに座っておられるだけであり、ニネベの人たちを立ち上がらせ、彼らの罪を責めさせるのです。

ニネベは、かなり大きな、有名な古代の都市でした。その都市のすべての人は、罪人でした。神はヨナという名の預言者を遣わし、四十日後にニネベが滅びることを彼らに告げ知らせました(ヨナ書 第3章4節)。ニネベの人たちは、預言者ヨナが宣べ伝えたことを聞きました。すると、彼らは断食を布告し、身分の高い者から低い者まで荒布を着て、強く神に叫びました(5-8節)。神は彼らのわざを見られました。彼らが邪悪な道から向きを変えたのを神は知って、彼らをのろうことをされませんでした(10節)。こうして、彼らは赦しの恵みを得ました。主はこの事例を引用して、ニネベの人たちがこの時代の人々の罪を責めるであろうことを証明されました。

ニネベの人たちは、ヨナの言葉で悔い改めました、「見よ、ヨナにまさるものがここにいる」(マタイによる福音書 第12章41節)。今日の人々は、神の御子ご自身の口から出て来た言葉を持っています。聖書を読んだことのない人がいるでしょうか? ヨハネによる福音書を読んだことのない人がいるでしょうか? 神の御子の言葉を聞いたことを否定する人は、だれもいません。もしあなたが、神の御子があなたのために死なれたことを聞いたことがないなら、何も言うことはありません。しかし、もしあなたがそれを聞いたことがあるなら、あなたは決して将来の裁きを逃れることができません。裁きの時に、ニネベの人たちは立ち上がって、次のように言うでしょう、「わたしたちは、ヨナの語ることを聞いて悔い改めました。あなたは、神の御子の福音を聞いて悔い改めませんでした。どうしてあなたはこの罪を逃れることができるでしょうか?」。

ある人は言うかもしれません、「確かに、ヨナはニネベに行って宣べ伝え、ニネベの人たちは悔い改める機会を持ちました。しかし、わたしは田舎に住んでいる者であり、わたしのいる所ではだれもわたしに福音を宣べ伝えてくれません。神は、わたしのような者の罪を責めることはできないでしょう」。しかしながら、このような人に言い訳をさせないもう一つの事例を、主は述べられました。

「南の女王が裁きの時に、この世代と共に起き上がり、この世代を罪に定めるであろう.なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである」(マタイによる福音書 第12章42節前半)。裁きの時に、南の女王が立って、このような人の反論に答え、この時代の人々の罪を責めるでしょう。この南の女王は、シバの女王です。シバは、今日のエチオピアです。彼女は、何千マイルも遠くからソロモンの所へとやって来ました。なぜなら、彼女はソロモンの名声と、彼がどれほど多くの知恵を持っているかを聞いたからです。

「見よ、ソロモンにまさるものがここにいる」(42節後半)。わたしたちの主イエスは、ソロモンよりも偉大な方です! 彼が語られたことはソロモンよりも知恵があり、思慮深いものでした。彼が語られたことには、さらに大きく、またさらに深い効果がありました。それは、人の永遠の命と永遠の滅びに影響を与えます。南の女王は、何千マイルも遠くからやって来て、ソロモン王から知恵の言葉を聞きました。あなたは、町から数十マイルほどしか離れていません。もしくは、町から何百マイルも離れていたとしても、あなたは町に行って、福音を聞く場所を見つけることができなかったのでしょうか?南の女王はあなたの罪を責めることができます。彼女は何千マイルも遠くからやって来たのに、あなたは自分の家から出かけて行き、福音を聞くことができなかったのでしょうか? ですから、それぞれの救われていない人たちは、裁きの時に言い訳することができません。

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裁きの時を逃れる方法はない
ある人は次のように考えるかもしれません、「すべての人は死ななければならず、裁きがその後にやって来ます。わたしは死んで、ハデスに行くでしょう。わたしはそこに隠れ、そこから出ないことにします。良いことをした者たちは、命へと復活させられるでしょう。悪いことをした者たちは、罪定めへと復活させられるでしょう。そうであるならば、わたしは、復活させられないことを選びます。わたしはハデスに隠れています。それで構わないのではないでしょうか?」。しかし、神の言葉を聞いてください、「たとえ、彼らがシェオール[陰府]にもぐり込んでも、そこからわたしの手は彼らを取り出す」(アモス書 第9章2節前半)。あなたはハデスに隠れ、ハデスの口を閉じることによって、裁きを逃れることができると考えます。しかしながら、神の御手はあなたをそこから引き出します。たとえあなたがハデスにまで掘り進むことができたとしても、また、たとえあなたがこれ以上深い所には進めないほど掘ることができたとしても、神の御手はあなたをそこから引き出されるでしょう。

今日の科学者やパイロットなどの人々は、裁きの日には、飛行機に乗って空に行き、最も高い所にとどまって、裁きを逃れようと考えるかもしれません。しかしながら、どうか聞いてください、「たとえ、彼らが天に上って行っても、そこからわたしは彼らを引き下ろす」(2節後半)。あなたは上るかもしれませんが、神はあなたを引き下ろされます。あなたが上るのには多くの労力を必要としますが、神があなたを引き下ろすのは容易です。

ある人は次のように考えるかもしれません、「わたしは、高い山々や茂みの中に隠れます。だれもわたしを見つけることはできないでしょう」。しかしながら、神の言葉は言います、「たとえ、彼らがカルメルの頂に隠れても、そこからわたしは捜して彼らを捕らえる」(3節前半)。高い山々には多くの木があり、もしそこに隠れれば、裁きを逃れることができると、あなたは考えるかもしれません。しかし、神はあなたを捜し出して捕らえるでしょう。

ある人は、ハデスに隠れることも、天に飛んでいくことも、高い山々に隠れることもできないのなら、海の底に逃れようと考えるかもしれません。しかしながら、神の言葉は言います、「たとえ、彼らがわたしの目から海の底に身を隠しても、その所でわたしが蛇に命じると、それは彼らをかむ」(3節後半)。あなたは海の底に隠れるかもしれませんが、神は蛇に命じて、あなたをかませるでしょう。ですから、あなたには逃れる所はありません。

前述したいくつかの状況は、神があなたのために描かれた絵にすぎません。あなたは、ハデス、天、高い山々、海の底に行くことによって、人の手を逃れることができるかもしれませんが、神の御手を逃れることはできません。聖書によれば、裁きから逃れる方法はなく、また言い訳をする方法もありません。もし今日あなたが依然として罪を犯し、この世のために生き、自分自身の楽しみを求め、罪を犯すことを自分の生涯とするのであれば、わたしはあなたに裁きの問題を考慮するよう請い求めます。あなたは永遠に生きるのではなく、裁きから免れることもありません。裁きは、死と同じように確かであり、確実なのです。

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朗読(人にとっての裁き③) 
習志野に在る教会作成

人にとっての裁き③

どのようにして裁きを逃れるか
裁きを逃れるためには、わたしたちはまず、なぜ将来裁かれるのかを問わなければなりません。すべての人は罪を犯したので、裁かれなければなりません。もしあなたが罪を逃れることができれば、あなたは裁きも逃れることができます。

原文の「裁き」は、「義」や「罪定め」と同じ言葉です。ですから、「一度死ぬことと、その後、裁きが定められている」は、「一度死ぬことと、その後、罪定めが定められている」と読んでも同じです。罪は、だれもが逃れることのできない問題です。もし人に罪がないなら、わたしたちはこの集会所を取り壊すことができたでしょう。なぜなら、わたしたちはそれを必要としないからです。伝道者もすることがなく、聖書も燃やしてしまい、人は何でもすることができたでしょう。しかし、罪は実際にあります。そして、わたしたちが救い主を必要とすることは、確実な事実です。

神はどのような方法を用いて、わたしたちを罪から救われたのでしょうか? わたしには罪があります。そして、罪は裁きと火の池に値します。しかしながら、聖書はわたしたちに、神の御子がわたしたちの罪のために死なれたことを、告げています(コリント人への第1の手紙 第15章3節)。神の御子は来られて、わたしのために死なれました。神の御子はわたしの罪を担い、十字架上で罪の刑罰を受けられました。ですから、わたしは彼を信じることを通して救われることができます。これが福音です! わたしの目的は、あなたに災いの知らせをもたらし、あなたが死んで裁きを受けることをあなたに告げることではありません。わたしがあなたにまず裁きを示したのは、あなたが自分の必要に気づくためです。あなたは、罪を担ってくださる救い主を必要とします。

朗読(人にとっての裁き④) 習志野に在る教会作成

人にとっての裁き④

アメリカ合衆国の南北戦争の時、二人の兄弟がいました。一人は北部に住み、もう一人は南部に住んでいました。彼らは二人とも徴兵されました。南軍は敗北し、北軍によって多くの兵士が囚人として連行されました。捕虜を監視していたのは、兄でした。彼は、自分の弟が囚人の中にいることに気づきました。彼は何も言おうとしませんでした。夜になると、彼は自分の服を脱ぎ、弟にそれを着せて逃がしてやり、弟の命を救いました(当時、囚人は翌朝に処刑されることになっていました)。彼は弟の服を着て、弟に代わって囚人になりすましました。翌朝、兄は銃殺隊によって処刑されました。後に、だれかが、死んでいるのは本人でないことを発見しました。彼らは弟を捕まえようとすることもできましたが、法律によれば、弟を逃がさなければなりませんでした。なぜなら、兄が弟のために死んだからです。だれも二回死ぬことはできません。これは、十字架のほんの小さな例証にすぎません。

イエスが来られたのは、わたしたちのために裁かれるためであったと、聖書はわたしたちに告げています。わたしたちは死に値する者でしたが、イエスはわたしたちのために死なれました。彼は天からやって来られ、わたしたちが天に行く道を造ってくださいました。彼が神から離れ、この世にやって来てくださったのは、わたしたちが神へと近づくためです。彼が貧しくなられたのは、わたしたちが富むためです。彼がこの地に来られたのは、わたしたちが地から自由になるためです。彼が来て罪を担われたのは、わたしたちが罪から自由になるためです。彼がわたしたちのために裁かれたのは、彼を信じるわたしたち一人一人が裁きから免れるためです。

朗読(人にとっての裁き⑤) 習志野に在る教会作成

人にとっての裁き⑤

将来において、死と裁きは確実なものです。しかしながら、神はわたしたちのために救いを用意されました。彼の御子がわたしたちのために死なれました。友人のみなさん、どうか今日、イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れてください。ヨハネによる福音書 第3章18節は言います、「御子の中へと信じる者は、罪定めされない。信じない者はすでに罪定めされている。なぜなら、神のひとり子の御名の中へと信じなかったからである」。原文において、「罪定めされ」という言葉は「裁かれる」です。言い換えれば、「御子の中へと信じる者は、裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」となります。第5章24節において、主は告げます、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.わたしの言を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持っており、また裁きを受けることがなく、死から命へ移っているのである」。この節がわたしたちに告げていることは、もし人が主イエスの言葉を聞いて、主イエスを遣わされた方を信じるなら、(一)彼は永遠の命を持ち、(二)裁きを受けることがなく、(三)死から命へ移っている、ということです。信じることは裁きから免れる道です。

朗読(人にとっての裁き⑥) 習志野に在る教会作成

人にとっての裁き⑥

友人のみなさん、もしあなたがまだ神の御子を信じていないのでしたら、どうか今、彼を救い主として受け入れてください。あるとき、ある兄弟がある所で宣べ伝えていると、死にかけている医者に福音を伝えるように頼まれました。その医者は言いました、「わたしはイエスについて聞いたことはありますが、いつも彼を拒みました。わたしは軍医であり、多くの種類の人に会い、また多くの罪を犯してきました。わたしの心の中には平安はありません。わたしは死んだ後、神に会うことはできないでしょう」。その兄弟は彼に、ヨハネによる福音書 第5章24節を読んであげました。彼はこれらの御言葉を聞くと、神が人に命を与えることを願っていることと、人は信じる限り、永遠の命を得、罪定めを受けることがなく、死から命へ人に命を与えることを願っていることと、人は信じる限り、永遠の命を得、罪定めを受けることがなく、死から命へ移ることを認識しました。彼はこの御言葉を受け入れた時、平安を持ちました。この友人と話す前と話した後では、彼はまるで別人のようでした。その兄弟が来た時には、彼は涙を流していました。その兄弟が去る時には、彼は喜んでその兄弟と握手し、感謝していました。しかし、友人のみなさん、かの日がやって来るまで信じるのを待たないでください。あなたの最後の機会まで、信じるのを待たないでください。今、神に言ってください、「神よ、たった今、わたしはあなたの御子を受け入れます」。おお、神の御子はあなたのために死に、あなたに代わって裁きを担われました。ですから、罪人たちよ、どうぞこれらのことを信じてください。

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JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」

第1期第4巻より引用

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