牧者のいない羊

福音メッセージ

「イエスは舟から出て来て、大群衆をご覧になり、彼らに深く同情された.なぜなら、彼らは牧者のいない羊のようであったからである」(マルコ6:34)。

人生の荒野
福音書の中に、次のような物語が記載されている箇所があります。イエスと弟子たちがある日、ひそかに船で人里離れた所、荒野へと出かけようとしたところ、多くの人は彼らが行くのを見て、あらゆる町からいっせいにそこへ徒歩で駆けつけ、彼らより先に着きました。そしてイエスは出て来られて、大群衆を見られ、彼らに深く同情されました。なぜなら、彼らは牧者のいない羊のようであったからです。イエスは彼らに多くの事を教えられただけでなく、彼らの病気をいやされました(マルコ六・三二―三四マタイ十四・十四)。神から見れば、わたしたちはみな、道に迷って、荒野をさまよっている羊のようです。荒野は砂漠のような土地で、食料も水の供給も不足しており、そこに迷い込んだ者は飢え、そして渇きます。わたしたちの人生は、時に荒野をさまよっているようであり、道に迷い、荒れ、飢え、渇きを感じるものです。最も高い地位を持ち、最も知恵のあったソロモン王でさえ、年老いてから次のように言いました、「空の空、すべては空である。……日の下に新しいものは何もない」(伝一・二、九)。

わたしたちはみな、多かれ少なかれ、人生の味わいを味わったことでしょう。わたしたちは、この世で何を成し遂げても、どんな地位や楽しみを得ても、最終的な結果は「空の空」であることを、わたしたちの人生の少しの経験からでも確かに理解することができるでしょう。ある人は、名声や富を得た後、自分が持っているものに対して非常に満足感を持つでしょう。しかし、時が経過すれば、むなしさ(空の空)を感じます。ある人たちは、そのことに夢中になっているときは、とても興味があるのですが、時が経過して、少し冷静になったときにむなしさ(空の空)を感じます。ある人は、努力奮闘しているときは、とても充実しているように思えるのですが、その事を成し遂げた後、むなしさ(空の空)を感じます。聖書の伝道の書が言っているように、すべては空であって、風を捕らえるようなものです(一・十四)。

わたしたちはみな、自分の存在の奥深くにあるむなしさと同時に、説明のしようがない切望、願いがあることをはっきりと感じることができます。なぜ人生はこんなにむなしいのでしょうか? 人生のすべての事柄のその終わりは、なぜむなしいという感覚を人に与えるのでしょうか? わたしたちの心の奥深くにある切望、願いとはいったい何なのでしょうか?

漂いの人生
人がむなしさを感じるのは、人の内側で、真に帰る所を失ってしまったからです。中国語に、「あらゆるものには主人(所有者)がいる」という言葉があります。宇宙では、人は高貴で、価値があり、感情が豊かで、思慮に富んでおり、また多くの考えや目的を持っていますが、人の主人とはだれなのでしょうか? わたしたちはだれに属し、だれに所有されているのでしょうか? 多くの妻たちは自分の夫を自分の主であると思い、また子供たちは両親を自分の主であると思っています。ですから、妻は常に夫を頼り、子は常に両親を頼るのです。しかし、困難に遭遇し、大病を患い、生死の境をさまよう時、妻は夫が自分の頼れる主であることができないことに気づきます。同様に、子供たちも両親を生涯にわたって頼れるわけではないことに気づきます。何か大きなことが起こったとき、すべての人は、地上に身近な人がたくさんいたとしても、頼れる人を見出すことができるとは限らないことに気づくでしょう。これが意味することは、人が地上で生きているとき、実際の経験において、頼れるものは何もなく、また帰る所もなく、自分がだれに属しているのか、だれに所有されているのか、だれに頼ればいいのかわからないということです。

ですから、主イエスは大群衆が自分の所に来るのを見た時、彼らに深く同情されました。なぜなら、彼らは牧者のいない羊のように、苦しみ、さまよっていたからです(マタイ九・三六マルコ六・三四)。これらの多くの人は失われた羊のようでした。羊は牧者に属しており、牧者は羊の主人です。牧者は羊のすべての問題を解決し、羊のすべての必要を満たします。主イエスは、人々が牧者のいない羊のようにさまよっており、帰る所も、属する人もいないのを見た時、彼らに深く同情されました。今日、人は牧者のいない羊のようであり、帰る所がなく、荒野を漂っています。

イエスが来られた
聖書は、人は自然に存在するようになったのではなく、神から出たものであり、神によって創造されたものであり、神に戻され、神のものであることをわたしたちに告げています(創一・二六)。人生のすべての事柄は、人を満足させることはできず、人をむなしくさせるものです。なぜなら、これらすべての事柄は人生の意義ではないからです。ただ、神だけが人生の真の意義です。ですから、人が神に欠けるなら、人生には意義がなく、荒野においてさまよい漂っているようであり、むなしく、満たされず、さらには飢え渇きを感じるのです。むなしく満たされないことにしろ、あるいは飢え渇くことにしろ、これらの感覚はすべて人の中にある必要を言っています。人の内側の必要が満たされたならば、自然と安息があるようになり、満足があるようになります。

主が荒野に着き、荒野に駆けつけた大群衆をご覧になられた時、彼らは牧者のいない羊のようであり、また食べる物もなく飢えていました。そして、時もすでに遅くなっていたので、弟子たちは主の所に来て、群衆を解散させ、周りの村へ行って、各自で食べる物を買うようにさせてくださるようにお願いしました。しかし、主は群衆を解散させずに、食べる物を与えられました。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、祝福し、パンをさいて、人々に配るよう弟子たちに与えられました。また二匹の魚も、全員に分けられました。彼らはみな食べて満腹しました。弟子たちがパンのかけらと魚の残りを集めると、十二の手かごいっぱいになりました。食べた者は、女と子供を別にして、男が五千人でした(マルコ六・三五―四四マタイ十四・十五―二一)。

主は、この一つの奇跡を通して、人々における真の必要と、その必要に対する彼の供給を、彼らに深く印象づけました。荒廃した人生の中で、主だけが人を満たす食物を供給することができ、そのような供給は無限で完全でさえあるのです。

イエスを受け入れた結果
今日、あなたの人生とわたしの人生が有意義なものとなり、内側深くにあるむなしさと満足できない感覚を終わらせるには、ただ単純に主イエスをわたしたちの食物として受け入れ、彼をわたしたちの救い主として認めるだけでよいのです。この主イエスが来られたのは、人々に食物を与え、人々を満腹させるためだけでなく、彼ご自身が小さな食物となられるためでもあります。主ご自身は言われました、「わたしが命のパンである.わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」(ヨハネ六・三五)。

それだけでなく、彼はまたわたしたちの良い牧者であり、失われた羊であるわたしたちを探しに来て、十字架上で血を流され、わたしたちのために命を捨てられ、わたしたちを贖い、罪から離れさせ、また死から復活し、昇天し、主またキリストとされました(使徒二・三六)。彼は主であり、宇宙の主であり、あなたの主であり、わたしの主であり、また人類の主でもあります。わたしたちには、彼以外に別の主はいません。彼だけが主です。これに対してわたしたちはみな、「ハレルヤ!」と言う必要があります。これは栄光なことです。一般的にこの世で、人がある種類の宗教を信じたとき、自分のことを、「主を信じる」者とは言わないでしょう。イスラム教を信じている人も、「主を信じる」者とは言いません。仏教を信じている人も、「主を信じる」者とは言いません。ただイエスを信じる者たちだけが自分のことを「主を信じる」者です、と言います。例えば、部屋の中にあるテーブルや椅子、扇風機などの命のない物を人と呼ぶことはできず、ただ生きているわたしたちだけが人と呼ばれます。同じように、イエスだけが主です。仏教のブッダは主ではありませんし、道教の老子も主ではありません。わたしたちがイエスを信じるということは、主を信じるということです。それはイエスが主であるからです。わたしたちは「主」という言葉を他のどのような人にも適用することはできません。わたしたちはただ主イエスだけを指すためにそれを使うことができます。なぜなら、ただ彼、キリスト・イエスだけが主であるからです。「イエスが主である」ことは、聖書の中の明確な言葉です(ローマ十・九Ⅱコリント四・五)。わたしたちはみな、「イエスは主である!」と宣言する必要があります。あなたがただ「主イエスよ、わたしはあなたを救い主として受け入れます」と言えば、あなたは命の食物としての彼を受け取り、あなたは満腹します。またイエスを良い牧者として受け取り、あなたのさまよう人生を終わらせます。このようにして、あなたはもはや牧者のいない羊のようではありません。ある子どもの詩歌は言っています、「わたしは小さな羊です。主がわたしを牧養し、わたしを水辺のほとりの牧場に連れてこられ、わたしに安息と、満足と、喜びを与えてくださいました」。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第8巻より引用