福音の鍵 真(2)

福音メッセージ

”福音の鍵 真(1)”の続きです。

飲食、祭りである「これらは来たるべき事柄の影であって、その本体はキリストにあります」(コロサイ人への手紙 第2章17節)。

日常生活の中で、わたしたちは衣食住が必要であり、車で移動したり、娯楽を楽しんだり、休暇を取得したりして、生活に楽しみを持つ必要があります。しかしながら、聖書では、飲食、祭りであるこれらは影であって、その本体はキリストであると告げています(コロサイ人への手紙 第2章17節)。食物は人の満足と力付けることであり、祭りは人の喜びと享受です。当然これらは人生の中で必要なことですが、考えてみてください、あなたが美味しい食事を享受し終えた後、あなたは完全に満たされたのでしょうか? 実際は、あなたが食事をした後、また次の食事を欲します。あなたが新しい服を買った後、その服を着てからまもなく、すぐにもう一枚買いたいと思います。それは、まるでクローゼットに服が足りないかのようです。あなたの住んでいる家は豪華で心地良いかもしれませんが、あなたが最もこだわりのあるベッドに寝たとしても、なお眠れないときがあります。多くの祭りの興奮と遊びの後にさらに大きいむなしさを感じます。わたしたちの生活で必要なこれらの各面は、聖書で告げているようにすべて影であり、わたしたちに真の満足を与えることができません。

イエスが地上におられたとき、あるとき、祭りの終わりの日に、彼は立って叫んで言われました、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」(ヨハネによる福音書 第7賞37節)。なぜ彼は祭りの終わりの日に、立ってこれらの言葉を言われたのでしょうか? なぜなら、祭りの終わりの日において、人々が数日の楽しみを経過し、まもなく離れるとき、むなしさがやってくるからです。そのとき、イエスは、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい」と言われました。さらに、「わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」(38節)と言われました。ここの「生ける水」と「最も内なる所」はたとえであり、この救い主が生ける水のようにわたしたちの中に入ってきて、わたしたちの渇きをいやすことを示しています。

詩歌203:生ける水の川(調布に在る召会作成)

それだけでなく、聖書はなおこのように告げていますが、彼は人を贖うために十字架に釘付けられて復活した後、弟子たちの間に戻って、彼らに息を吹き込んで言われました、「聖霊を受けよ」(20章22節)。ギリシャ語原文において、霊と息は同じ字であるので、「聖なる息を受けよ」とも訳すことができます。これは、わたしたちに対して、イエスは空気のようであることを示しています。今日、万物が生存することができるのは、完全に命の息によります。空気がなければ、すべての生物は生存することができません。空気は隠れたしるしの一つであり、主イエスがその実際です。彼は真の空気です。彼はわたしたちの中に入り、わたしたちの実際の命となり、わたしたちの内側にあるむなしさを解決してくださいます。

主イエスは命の水であるだけでなく、実際の命の息であり、わたしたちの命のパンであって、わたしたちは彼を食べることによって、永遠に飢えることはありません。主イエスが地上におられたとき、かつて人々にこう言われました、「わたしが命のパンである.わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない」(6章35節)。古今東西において、だれ一人このように大口を叩く人はいませんでした。このような言葉は、ただ宇宙を創造された神だけが語る事ができます。この宇宙を創造された神はキリストであり、彼はこれらすべての影の実体です。日、月、年において彼はわたしたちにとってみなすべての積極的な事物の実際です。

「こういうわけで、わたしはこの事を言い、また主の中で証しをします.もはやあなたがたは、異邦人が彼らの思いのむなしさの中を歩くように、歩いてはなりません……イエスにあるあの実際」(エペソ人への手紙 第4章17節21節)。

わたしたちはキリストを知る前、聖書で告げている異邦人が思いのむなしさの中を歩くように、わたしたちも堕落した虚無に服従させられていました。わたしたちは思いの中でむなしく、心の中でかたくなになっており、理解することで暗くなり、自分の知識の中に神を持つことを認めようとせず、感覚を失い、自分自身を淫蕩にゆだねて、飽くことなくあらゆる不潔を行なっています。今日におけるこの世の状況を見れば、人がいかに良心の感覚を顧みずに、放蕩してあらゆる良識の感覚がないことを行なっていることがわかります。

しかしながら、わたしたちがイエスを信じて、バプテスマしてキリストに帰すなら、わたしたちは再生され、イエス・キリストにあるあの実際の中に置かれます。これは、練り粉のかたまりを鋳型の中に入れるように、わたしたちが鋳型としてのイエスの中に入れられることを意味します。神はわたしたちを鋳型としてのキリストの中に入れられました。この鋳型は四福音書の中に記されているイエスの生活であり、完全に実際にしたがった生活です。実際は真理であり、光の輝き、光の表現です。神は光であるので(ヨハネの第一の手紙 第1章5節)、実際(真理)は神の表現です。福音書で記されているイエスの生活は、すべての面において神を表現しています。主イエスが地上で生きておられたとき、彼はむなしさの中を歩まれたことがなく、むしろ常に実際の中で歩み、神聖な光の輝きの下で歩まれていました。これは、主イエスの生活と歩み、彼の語ることと行なうことのすべてが神と一であり、神を表現していることを意味します。

わたしたちがイエスにあるあの実際の鋳型の中に入れられたのは、自分の天然の命をもって彼に倣い、彼から学ぶためではありません。わたしたちが信じることを通して彼の命をわたしたちの中に受け入れることによって、彼の命は、わたしたちを彼の生活の実際の鋳型にしたがって彼を生きるようにさせてくださいます。この生活は光の輝きであり、実際であり、真理であって、この実際と真理は神の表現です。

これはわたしたちがむなしさから逃れる救いの道です。わたしたちが思いを神に向け、命の救い主としてのイエス・キリストを受け入れるなら、もはやわたしたちはむなしくなることはなく、思いのむなしさの中を歩くことはなく、神の命を持ち、イエス・キリストにある実際の中で、すなわち実際と真実に満ちた命の光の輝きの下で生活することができます。

JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第3期第5巻より引用

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