神は世の人を愛された (2)

神は世の人を愛された(2) 福音メッセージ

神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである(ヨハネによる福音書 第3章16節)。

ヨハネによる福音書 第3章16節は、わたしたちに4つのことを告げています。(1)神が世の人を愛されたこと。(2)そのひとり子を賜わったほどであること。(3)彼の中へと信じる者についてであること。(4)彼らが一人も滅びないで、永遠の命を持つためであることです。
第1のことと第2のことは、前の記事(”神は世の人を愛された(1)”)を参照して下さい。本記事では、第3のことと第4のことを述べます。


神が彼のひとり子をわたしたちに賜わったのは、わたしたちに彼を信じさせるためです。信じるとは、受け入れることです。「すべて彼を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者……」(ヨハネによる福音書 第1章12節)。神がわたしたちを愛し、彼の御子をわたしたちに賜わるのは、わたしたちを受け入れさせるためです。神の心はすでに愛しましたから、わたしたちの心は信じるべきです。神の御手はすでに賜わったのですから、わたしたちの手は受け入れるべきです。神が愛し、賜わりました。わたしたちが信じ、受け入れます。神がすでに愛し、すでに賜わりました。神はわたしたちが信じ、受け入れるのを待っています。わたしたちが神を待つのではなく、神がわたしたちを待っているのです。わたしたちが神に愛してくださるように請い求めるのではなく、神がわたしたちに信じるように請い求めるのです。わたしたちが神が賜わるように請い求めるのではなく、神がわたしたちに受け入れるように請い求めるのです。神はあなたが信じることを待ち、あなたが受け入れることを待っています。神はあなたが信じ、受け入れるように請い求めています。神は彼の御子をあなたの前に置き、あなたが信じ、受け入れるのを待っています。


彼の中へと信じる者は一人も滅びません。逆に言えば、彼を信じない人は必ず滅びます。(1)体だけが死ぬのでなく、さらに(2)死んだ後に霊と魂がハデスの火の場所で苦しみを受けます。(3)将来、この世の終わりの時、体、霊、魂がすべて硫黄の燃えているゲヘナの火の池へ行って、永遠に第2の死の苦しみを受けます。これらはすべて滅びの苦しみの中に含まれています。主イエスがすでに死に打ち勝ち、ハデスに打ち勝ちました。主はご自身を信じる人をすべて救うことができ、死の苦しみから離れさせ、ハデスの権威から離れさせ、硫黄の火の池から離れさせることができます。彼はわたしたちに告げました、「わたしの中へと信じる者はすべて、決して永遠に死ぬことはない」(ヨハネによる福音書 第11章26節)。


主イエスを信じる人は滅びないだけでなく、さらに永遠の命を得るのです。滅びないのは消極的なことであり、永遠の命を得るのは積極的なことです。信じる人は消極的な面で滅びないで、積極的な面で永遠の命を得ます。永遠の命を得るとは、将来において得る祝福ではなく、今この時に主イエスを信じれば、すぐに命を得るのです。この命は主イエスの命です。主イエスの命は神の命です。神の命は永遠に生きるものですから、この命は永遠の命と呼ばれます。

永遠の命は神の御子の内側にあります。人が神の御子を信じ受け入れると、神の御子の内側にある永遠の命を得ます。神の御子を持つなら、命を持ちます。神の御子を持たないなら、命を持ちません。なぜなら、命は神の御子の内側にあるからです。神は彼の命を彼の御子の内側に置き、また彼の御子をわたしたちに賜わりました。わたしたちが信仰を用いて神の御子を受け入れるとき、わたしたちは彼の命を得ます。神は彼の命を、彼の御子を通してわたしたちに賜わったのです。わたしたちが神の御子を受け入れるなら、神の命を得ることになります。永遠の命を得ることは人が想像したような難しいことではありません。人は、永遠の命を得たければ、必ず良いことをし、神のみこころに従い、神の喜ばれる行程を走り抜かなければならないと思いました。しかし、主イエスはわたしたちに、永遠の命を得ることはとても簡単なことであり、彼を信じれば得られると告げました。

永遠の命は信じることによって得るものです。他のことは必要ではなく、ただ信じれば、永遠の命を得るのです。神はわたしたちを愛しているので、わたしたちに難しいことを要求しません。神はわたしたちに、わたしたちができないことをさせません。またわたしたちが到達できないことをさせません。ただ信じれば、無代価で永遠の命が与えられます。信じることはとても簡単なことです。信じることは呼吸のように簡単なことです。人に呼吸ができるならば、信じることができます。人が呼吸できるどんな時でも、信じることができます。人が呼吸できるどんなところでも、信じることができます。信じることは時間と場所の制限を受けません。信じることはどんな人でもできることです。すべての人が願えば、信じることができます。信じることはできるかできないかの問題ではなく、願うか願わないかの問題です。あなたが信じることを願うなら、信じることができます。

永遠の命は主イエスを信じれば得られるものです。人が想像したように将来まで待つものではありません。また死んだ後に初めて得られるものでもありません。人は、今主イエスを信じておけば、死んだときに永遠の命を得ることができるという望みがあると思います。しかし、主イエスはわたしたちに、信じれば永遠の命を得ることができると告げています。「信じる」と「得る」との間に時間の隔てはありません。「望み」というものは間にありません。信じるときに永遠の命を得られるのです。今日信じれば、今日のうちに永遠の命を得ることができます。今信じれば、今永遠の命を得ることができます。

あるいは、あなたは言うかもしれません、「わたしはすでに信じました。しかし、わたしは自分が永遠の命を得たと感じません」。友よ、永遠の命があるかどうかは、あなたが感じるかどうかによらず、あなたが信じるかどうかによります。あなたがもし信じるなら、あなたは永遠の命を持ちます。あなたが永遠の命を感じても、感じなくても、あなたがもし信じるなら、たとえあなたが感じなくても、すでに永遠の命を持っています。主イエスは言いました、「彼を信じるなら、永遠の命を得ます」(ヨハネによる福音書 第3章16節)。「信じて、感じて永遠の命を得る」と言っておられません。あなたの感覚に頼らずに、ただ主イエスの言葉を信じてください。わたしたちが永遠の命を持つことの根拠は、自分の感覚ではなく、主イエスの言葉です。主イエスの言葉だけが信頼できるものです。

ですから、あなたが信じた後、あなたが自分の内側に永遠の命を持っているかどうかを振り返ってはなりません。あなたはただ、主イエスを信じたかどうかを問うべきです。もしあなたが主イエスを信じたなら、あなたは永遠の命を持つのです。「わたしを信じる者は永遠の命を持つ」(ヨハネによる福音書 第6章47節)。これは確かな事実です。

ヨハネによる福音書 第3章16節は、わたしたちに四つのことを告げています。(1)神が世の人を愛されたこと。(2)そのひとり子を賜わったほどであること。(3)彼の中へと信じる者についてであること。(4)彼らが一人も滅びないで、永遠の命を持つためであることです。第1のことと第2のことは神がすでに行なわれました。神は今わたしたちに第3のことをして欲しいのです。わたしたちが第三のことをするなら、第4のことはわたしたちの上に成就されます。神はすでにわたしたちを愛し、すでに彼のひとり子をわたしたちに賜わりました。今、神はわたしたちに信じて欲しいのです。わたしたちが信じるなら、永遠の命を得ます。神は自分の側のことをすべて、すでに行なわれました。神は今わたしたちに、わたしたちの側のことを行なって欲しいのです。わたしたちがわたしたちの側のことを行なうなら、神がわたしたちを愛した目的が達成され、永遠の命はわたしたちの上に成就されます。神はすでに「愛しました」、すでに「賜わりました」。わたしたちは今「信じるなら」、今すぐ「得る」のです。

友人のみなさん、どうか神にこのように言ってください、「神よ、感謝します。あなたがわたしを愛し、あなたのひとり子をわたしに賜わりました。わたしはすでに彼を信じました。わたしはすでに永遠の命を得ました」。


JGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第3巻より引用

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