エレミヤ書から見た、神のエコノミー

真理

神のエコノミーの観点から言えば、エレミヤ書の内容は次のとおりです。すなわち、神が彼のエコノミーを完成することは、愛の中で、彼の優しい顧み、深いあわれみと同情をもって、彼の選民イスラエルを懲らしめ、彼の愛に符合する義の中で諸国民を裁くことによって、イスラエルが新創造とされ、神聖な命の内なる法則を持ち、神を知るこの命の能力を持って(三一・三三―三四)、彼らの神聖な義である、彼らの中心(中心性)また円周(普遍性)としてのキリストを現します。このゆえに、わたしたちはエレミヤ書を学ぶとき、神のエコノミーのビジョンを持ち、神のエコノミーの中心であるキリストを見る必要があります。

神のエコノミーの啓示に従って、
命としてのキリストを追い求める
モーセの五書が書かれた時から今日まで、ユダヤ人たちはずっと聖書を学んできました。しかしながら、主イエスはユダヤ人の宗教家たちに言われました、「あなたがたは聖書を調べている.なぜなら、その中に永遠の命があると思っているからである.しかし聖書は、わたしについて証しするのである。しかしあなたがたは、命を得るためにわたしに来ようとはしない」(ヨハネ五・三九―四〇)。聖書はキリストについて証ししています。しかし、ユダヤ人の宗教家たちはキリストを知らず、「聖書を調べている」にもかかわらず、キリストに来て命を得ようとしません。聖書は、主キリストについて証しするので、主から分離されるべきではありません。この二つは同行すべきです。

今日、わたしたちが聖書を学ぶときにも、「聖書を調べている」ことと、「わたしに来(る)」、ことを分離しているかもしれません。わたしたちは聖書に触れていても、主に触れていないかもしれません。命は単なる文字とは異なります。主だけが命を与えることができます。わたしたちは、聖書を調べるだけでなく、命としてのキリストを追い求めるべきです。これは、わたしたちがエレミヤ書を学ぶときも例外ではありません。わたしたちは、神のエコノミーに関する神聖な啓示にしたがって、これらを理解し、この書の中にある神のエコノミーを見る必要があります。

神と一になり、彼を生きて
彼の団体的な表現となる
神にはエコノミーがあり、このエコノミーは多くの案配を伴うご計画を含んでいます(エペソ一・十)。神のエコノミーにおける神の目的は、内側で神の命と性質を持っており、外側で神のかたちと姿を持っている一群れの人を持つことです。この一群れの人は団体的な実体、すなわちキリストのからだであり、彼と一になり、彼を生きて彼の団体的な表現となります(エペソ一・二三)。神はからだによってだけでなく、またからだを通して表現されるとき、彼の栄光が現されます。神の栄光が現されるとき、彼の栄光が現される中で彼の民も栄光化されます。このようにして、神と人は栄光の中で一です。

この一の中で、わたしたち神の民は神から分離してはいませんが、明確に彼から区別されています。わたしたちが神と一であるのは、命において、性質において、要素において、本質において、構成においてです。わたしたちはまた、目的、目標、かたち、姿において彼と一です。しかしながら、わたしたちがどれほど神と一であっても、神の神格にあずかることは決してありません。人は人のままであり、神は神のままです。そうです。キリストが肉体と成ることにおいて、神は人と成られましたが、彼は彼の神格を放棄されませんでした。そうではなく、彼はただご自身のために神格を保有し保たれました。ですから、人は依然として制限されており、神は依然として唯一の神格を所有しておられます。神格を除いてあらゆる面で神と一である一群れの人は、すばらしい、聖なる都、新エルサレムによって象徴され、表徴され、記述され、描写されています。わたしたちはエレミヤ書に来るとき、このビジョンをわたしたちの前に保つ必要があります。

神の目標――新エルサレム
聖書は新エルサレムの都の啓示をもって究極的に完成します。これは、新エルサレムが神の目標であることを示しています。新エルサレムのビジョンは、千百八十九章ある聖書の結論です。聖書の各巻、創世記から啓示録まで、ある意味で神の目標としての新エルサレムと関係があります。しかしながら、聖書は他の多くの事柄について語っているので、わたしたちは御言を読むとき容易にそらされて、神の目標を見ないかもしれません。神はご自身の知恵の中で、彼の目標は新エルサレムを持つことであると、聖書で直接、わたしたちに言われません。そうではなく、新エルサレムはすばらしくて、わたしたちが想像することができないことを神は知っておられます。ですから、神は聖書とその明確な言葉、物語、歴史、予表、型、影を用いて、この事柄を啓示されるのです。このさまざまな異なる手段を用いて、神は新エルサレムに関する彼の思想を啓示し、新エルサレムのさまざまな面を描写されます。わたしたちは、この目標に狙いを定めるべきです。

神のエコノミーのビジョンを保持して、エレミヤ書を学ぶ
わたしたちはエレミヤ書を学ぶとき、神のエコノミーのビジョンを保持する必要があります。そして、その中から神のエコノミーに関連する事を掘り起こす必要があります。以下は、エレミヤ書第二六章を例に挙げ、エレミヤ書の中に啓示された神のエコノミーを簡単に見てみましょう。

エレミヤ書第二六章の事例
ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの統治の初めに、エホバの言葉がエレミヤに臨んで言った、「エホバの家の庭に立ち、エホバの家に礼拝しに来るユダのすべての町の人たちに、わたしがあなたに命じて語らせるすべての言葉を語りなさい」(エレミヤ二六・二)。神はエレミヤに、ユダの民に、彼の言葉に聞き従い、自分の悪の道から立ち返ることを勧告するよう命じました(三―七節)。もしイスラエルが聞き従わず、悔い改めず、立ち返らないなら、彼らの運命は、打ち破られ滅ぼされたシロの運命のようになり、(七・十二―十四、サムエル上四・十―十一)彼らは諸国民にとってのろいとなります。

イスラエル人たちは、この言葉を聞いた後、二つの反応がありました。一群れの人たちはエレミヤを捕らえて、「あなたは必ず死ななければならない!」と言いました(エレミヤ二六・八―十一)。しかしもう一群れの人たちは、「エレミヤは死刑に当たらない、彼はエホバ・彼らの神の御名の中で彼らに語ったからである」と言いました(十六節)。その後もまた、長老たちの意見と王が別の預言者を殺した状況が記されています(十七―二三節)。これらはすべて、エレミヤをジレンマに追い込みました。最終的に、神の主権の下で、エレミヤはシャパンの子アヒカムによって保護され、民の手に渡されて死に渡されることはありませんでした(エレミヤ二六・二四)。

神のエコノミーの路線を読み取る
エレミヤは守られましたが、異なる意見のゆえに、神の目標を完成することに関しては、何もできませんでした。人々がエレミヤに賛成しても彼に反対しても、これらの意見はみな同じ結果になりました。すなわち神の定められた御旨が妨げられました。エレミヤに賛成した者も彼に反対した者もみな、神の分与から遠く引き離されていました。彼らは、生ける水の源泉としての彼からそらされていました(二・十三)。そらすことは悪魔の計略であり、神の民が神聖な分与を受けることができないようにします。

神の意図は、彼の選ばれた人たちのすべてとなって、彼らがすべてのことで彼に信頼し、彼に依り頼むことです。彼らがこうするなら、神の分与を受けます。しかしサタンは、神の意図を知り憎んでいるので、サタンは意見によって神の民を妨げました。あらゆる意見の背後には悪鬼と邪悪な力があります。それは、偶像と同様に人を神から引き離します(Ⅰコリント十・十九―二二)。エレミヤが生きるべきか死ぬべきかについて、論じられた意見の背後には、このような霊的な光景がありました。エレミヤを遣わす神の目標は、イスラエルを正しい意見、教え、指示へと連れ戻すことではなく、生ける水の源泉、源としての神に直接連れ戻して、彼らが神の分与を受けることでした。しかしすべての異なる意見が、神の民を神の分与から引き離しました。

わたしたちはエレミヤ書を学ぶとき、神の分与に関する神聖な啓示の中心路線にしたがって、神聖な分与を受けながら、神のエコノミーを完成するべきです。わたしたちがこれらの言葉を読むのは、意見や教訓を受けるためではなく、神の分与によって、神のエコノミーをわたしたちの内側へと注入させるためです。エレミヤ書は多くの混乱した状況を記していますが、わたしたちはその中にある神のエコノミーを見るべきです。わたしたちは常に、キリストが神のエコノミーの中心性と普遍性であると言ってきました。しかしながら、これはわたしたちの単なるスローガンとなるべきではありません。そうではなく、神のエコノミーの中心性と普遍性としてのキリストによって、わたしたちの心が触れられなければなりません。わたしたちがこの中心のビジョンによって触れられるとき、わたしたちは聖書のあらゆる書とあらゆる章の中で、キリストを見ることができるでしょう。

キリストは神の選民にとって
エホバの義とされる
エレミヤ書は、キリストが神の選民にとってエホバの義とされることを啓示しています(二三・六、三三・十六)。なぜキリストは神の民にとって神の義とされる必要があるのでしょうか? ある人は答えて、キリストが神の選民にとってエホバの義とされなければならないのは、彼ら自身が悪く、腐敗し、全く義がないからであり、もしキリストが彼らにとって義となられないなら、神は彼らと何の関係を持つこともできないからであると言うかもしれません。そのような答えは良いのですが、光とビジョンに欠けており、単なる聖書研究の水準にとどまっています。この質問に答える最上の方法は、神のエコノミーに関する新約の啓示にしたがって答えることです。

神のエコノミーは、キリストをすべてとし、キリストを中心性また普遍性として、神の増し加わり、神の拡大、すなわち召会を生み出すことです。神の増し加わり、拡大は、神の表現のための豊満です。この豊満の究極的完成は新エルサレムとなります。わたしたちは啓示録第二一章と第二二章に描写されている新エルサレムを見るなら、新エルサレムがキリストを中心(中心性)また円周(普遍性)とした、神の永遠の増し加わりであることを見るでしょう。

過去の永遠において、神は「独身」であったと言ってよいでしょう。それは、神が独りで、彼にふさわしい者がだれもいなかったことを意味します。しかしながら、未来の永遠において、神はもはや独身ではなく、新エルサレムを妻として持たれます(啓二一・九―十)。この妻は幕屋でもあります(啓二一・三)。この妻、この幕屋は神の増し加わりです。ですから、新エルサレム(神の選ばれた人の究極的完成)は神の拡大です。キリストはこの拡大の中心性と普遍性です。これが神のエコノミーです。

わたしたちはこれを見るなら、なぜキリストが神の民にとってエホバの義とされる必要があるのかを知るでしょう。エレミヤ書によれば、イスラエルは悪く、神の激怒をひき起こし、このゆえに神は入って来て彼らを罰し、懲らしめました。実は、イスラエルの邪悪さと不忠実さは、キリストが入って来て彼らの義となる道を備えました。もしイスラエルが義であったなら、どうしてキリストが彼らの義となることができたでしょうか? それは不可能であったでしょう。しかし、彼らの不義と罪深さが機会を備えて、キリストが入って来て彼らにとってエホバの義とされるようにしたのです。ですから、エレミヤ書の主題は、神が彼の選民であるイスラエルと諸国民を対処されるとき、キリストが彼らにとってのエホバの義となられ、彼らの中心また円周となるということです。最終的に、イスラエルはキリストを表現し、キリストは彼らの義であり、彼らの中心性また普遍性となります。この現れは新エルサレムにおいて究極的に完成します。

神がキリストをイスラエルにとって
すべてとする道
神がキリストを、イスラエルの民にとってすべてとする道とは何でしょうか? ある人はこの質問に答えて、神がこれを行なわれる道は、キリストがダビデの若枝として肉体と成り、十字架につけられ、そして復活の中で命を与える霊と成られることであると言うかもしれません。しかしながら、これは神がキリストをわたしたちにとってすべてとされる「手段」であって、神がキリストをわたしたちにとってすべてとされる「道」ではありません。神がキリストを民にとってすべてとするという道は、義、贖い、神聖な命と関係があります。わたしたちはすでに、キリストはわたしたちに対して神の義と成られたことを見ました。今わたしたちは、さらにキリストの贖いが必要であることを見る必要があります。贖いがなければ、キリストはわたしたちに対して義となることはできません。贖い以外によって、神はわたしたちに何も与えることはできません。神聖な命がわたしたちに与えられるのは、キリストの贖いにおいてです。

エレミヤ書第三一章は新しい契約に関する預言について記しており、贖いを暗示しています。三四節後半は言います、「わたしは彼らの罪科を赦し、もはや彼らの罪を思い出さないからである」。エペソ人への手紙第一章七節によれば、赦しは贖いに等しいのです。この節は言います、「その愛する者(キリスト)の中で、わたしたちは彼の血を通しての贖い、すなわち違犯の赦しを受けています」。ここで贖いと赦しは同格であり、それらが同じ事を指していることを示しています。これは、エレミヤ書第三一章三四節の赦しに関する言葉に、贖いが暗示されているとわたしたちが言う根拠です。新しい契約において、神はわたしたちの罪科を赦されます。これは贖いの事柄です。

神がキリストを、神の選民にとってすべてとされるのは、義と贖いによります。それはまた神聖な命によります。神聖な命は、キリストの贖いと神の義認を通して与えられます。また神の義認は彼の義に基づいています。命は、能力と機能を伴う命の法則を暗示します。この三つの事柄、義、贖い、命は新約で完全に発展します。神がキリストをわたしたちにとってすべてとする道は新約で発展していますが、それはすでにエレミヤ書で内在的に啓示されています。これは、わたしたちがエレミヤ書の中で新約のものを見ることができることを意味します。

キリストは、神のエコノミーを
成就することができる唯一の方である
キリストに関するエレミヤの預言は、キリストだけが神のエコノミーを成就することができることを示しています。キリストだけが、神のエコノミーにおける神の要求に対する答えです。神のエコノミーを成就することで、キリストはまずわたしたちの義であり、次にわたしたちの贖い、またわたしたちのすべてを含む内なる命です。わたしたちの命の供給として、キリストはわたしたちの食物また飲み物です。そのようなキリストの中で、また彼を通して、わたしたちは命、性質、かたち、外観において神と一になります。

今日、キリストがわたしたちにとって何であるかは、彼が戻って来られた時のイスラエルにとっても同じです。彼が戻って来られる時、イスラエルは悔い改めてキリストを受け入れます(ゼカリヤ十二・十―十三・一)。彼らはキリストを彼らの義、贖い、命として受け入れ、生ける水の源泉から飲み、命の木から食べるでしょう。その結果、イスラエルも神で構成され、命、性質、かたち、外観において神と一になります。

エレミヤ書における
神聖な啓示の究極的完成
エレミヤ書における神聖な啓示の究極的完成は新エルサレムです。わたしたちはこのことは、全聖書が新エルサレムにおいて完成するという事実に基づいていると言ってもよいでしょう。エレミヤ書は直接、新エルサレムについて語っていませんが、第三一章で新しい契約について、神の新創造を語っています。新しい契約は新しいものを生み出し、この新しいものは新創造です。神の新創造は神の増し加わり、神の拡大であり、神の豊満となります。この新創造の究極的完成は新エルサレムです。

わたしたちがここで「豊満」という言葉を使っているのは、神の豊富ではなく神の表現を示すためです。この言葉が示すのは、神が何であるかの豊富ではなく、これらの豊富の表現、神の豊富な存在の満ち満ちた表現です。わたしたちは水を入れるコップを例証として用いることができます。水が満たされたコップには、豊富な水があります。しかし水がコップから満ちあふれ、流れ出るとき、それは水の豊富だけでなく、水の豊満、表現としての水のあふれ出があります。ですから、神の豊満は、神の満ちあふれる表現です。聖書の究極的完成である新エルサレムは、神の豊満、神の満ちあふれる表現です。

最終的に、新しい契約によれば、イスラエルは贖われ、救われ、新しくされて、神は彼らの神となられ、彼らは神の民となって、三一の神の豊富の享受にあずかります。このあずかることは、来たるべき復興の時代の千年期において、また永遠の新天新地における新エルサレムにおいて究極的に完成します。

一見して、エレミヤ書はイスラエルの罪と悪について、また神がイスラエルを懲らしめることについての書であるようですが、実はそうではありません。エレミヤ書は、聖書全体がそうであるように、この目的のために書かれたのではありません。聖書は、エレミヤ書を含めて、神のエコノミーのために書かれました。それが書かれたのは、神が増し加わり、拡大され、豊満を持ってご自身を表現するのを願っておられることを、わたしたちに示すためです。これが全聖書の主題と内容です。ですから、エレミヤ書の主題と内容だけが異なることがあり得るでしょうか? エレミヤ書における神聖な言葉の基本的な要素は、イスラエルの罪と神の懲らしめではありません。その基本的な要素は神のエコノミーです。これは、わたしたちがみな見る必要がある極めて重要な事柄です。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第2巻より引用