信仰の盾を取る

真理

クリスチャンの生涯の旅路は信仰と切り離すことはできません。邪悪な者のあらゆる燃える火の投げやりの攻撃に直面したとき、わたしたちは抵抗して防衛するために信仰の盾を取る必要があります。しかし、信仰とは、想像上のものではなく、能力や感覚によって得られるものでもありません。エペソ人への手紙第六章は、神の武具についての言葉が啓示されています。そして真に信仰を用いるには、真理、義、平和を土台とする必要があることが述べられています。神がわたしたちの生活の実際となり、わたしたちの行ないがすべて義しく、またわたしたちの自己が十字架によって砕かれ、神と人とに対して少しも問題がないとき、わたしたちは信仰を持ち、用いることができます。

 

信仰の盾とは何か
信仰の盾は、神の敵に対抗する神の武具の項目の一つです。エペソ人への手紙第一章一節から第六章九節は、召会の積極面において、どのようにして神の永遠の定められた御旨が成就されるのかを語った後、続けて消極面で、召会がどのようにして霊的な戦いに従事し、神の敵を対処するのかを語っています。「主の中で、また彼の力強い大能の中で力づけられなさい。神のすべての武具を身に着けなさい.悪魔の策略に敵対して立つことができるためです」(六・十―十一)。
神の敵を対処するために、わたしたちは神のすべての武具を身に着ける必要があります。この武具には六つの項目があります。それは、真理の帯、義の胸当て、平和の福音の堅固な土台としての靴、信仰の盾、救いのかぶと、その霊の剣です(十四―十七節)。

信仰の盾の特徴とは何か
十六節は言います、「なおその上に、信仰の盾を取りなさい.それによって、あなたがたはあの邪悪な者の燃える火の投げやりを、いっさい消すことができます」。燃える火の投げやりは、使徒時代に戦士たちが攻撃するのに使ったものです。使徒はこの言葉を用いて、わたしたちに対するサタンの攻撃を説明しました。燃える火の投げやりは、サタンの脅迫、罪定め、訴えであり、そして彼から出て来る攻撃、虚偽、混乱、誘惑、試み、挑発、分離、疑い、疑問、提案、扇動、刺激、罠、批判、判断、軽視、冷笑、嫉妬、誹謗中傷です。多くのとき、サタンは何度も虚偽を用いてわたしたちを攻撃しますが、信仰の盾がわたしたちを保護し、邪悪な者の燃える火の投げやりに、抵抗し、それを消し去ります。

信仰の盾は、わたしたちが着るものではなく、取るものです。これは安全の保護であり、敵の燃える火の投げやり、猛烈な攻撃に対抗するためのものです。わたしたちの信仰は、自己の能力、力量、功績、美徳ではなく、それは完全に神を信じ、神の心を信じ、神の信実を信じ、神の力を信じ、神の言を信じ、神の御旨を信じ、神の主権ある権威を信じます。わたしたちがそのような信仰を持っているなら、サタンの燃える火の投げやりはわたしたちを傷つけることはできません。

どのようにして信仰の盾を取るか

真理を腰に帯として締める必要がある
――キリストを生きる
十四節は最初に、「ですから立ちなさい.真理を腰に帯として締め」と言っています。それはエペソ人への手紙でそれまでに語られてきた真理を根拠にしています(原文での同じ文字は、「真実」――四・十五五・九、「実際」――四・二一二四、「真実な言葉」――四・二五とも訳せます)。特に第四章二一節では、イエスにあるあの実際(真理)と言っています。それは真理という言葉の意味は、教理を指しているのではなく、また誠実さを指しているのでもなく、イエスにおいて現された神を指しています。ですから、ここでの真理を腰に帯として締めるという言葉も、教理や誠実さを指しているのではなく、神が人の生活の中で現されること、人の生活の実際となることを指しています。

聖書の他の箇所にある真理という言葉の意味も、わたしたちの解釈を裏付けています。ヨハネによる福音書第十四章六節で、主イエスはご自分が実際(真理)であると言っています。この言葉の後で、弟子たちは主に父を見せてくださるように願いました(八節九節後半―十節前半.参考一・十八)。このことは、主が実際(真実)であると言われたとき、彼が聖書の教理であるとか、彼が誠実なものであると言われたのではなく、父なる神が彼から現されること、すなわち人が彼を見たなら、父を見たことであることを指しています。言い換えれば、この真理とは、神がわたしたちの生活全体の各方面へと入って来て、その中でバランスをとり、正しく、真実で、理にかなって、実際となることを指しています。このように、わたしたちの生活全体が神の要素で満たされ、神で満たされます。これが、わたしたちが腰に締める帯であり、それは霊的な戦いの中で立つために、全力を集中させ、強化させるものです。

神がキリストの中でわたしたちの生活の実際となるとは、神がわたしたちの生活の中の実際と経験となること、つまり、キリストご自身がわたしたちから生かし出されるということです。パウロはピリピ人への手紙第一章二一節で言っています、「なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです」。パウロが生きたこのキリストが、彼の真理の帯でした。このキリストは、パウロの日常の歩みの中で現され、示された神でした。ですから彼は立つ力、あらゆる反対と逆境に立ち向かう力を持っていました。

義の胸当てを身に着ける必要がある
――わたしたちの義としてのキリストがわたしたちを覆う
エペソ人への手紙第六章十四節は続けて言っています、「義の胸当てを身に着け」。義の胸当てとは、胸を覆うもの、わたしたちの良心を保護するものです。エペソ人への手紙が啓示していることが根拠ですが、義とは神の義なる道にしたがって、神と人に対して正しいことです(四・二四五・九)。わたしたちがもし、神と、あるいは人と問題を持つなら、また何かの物事で不義があるなら、わたしたちの良心にとがめがあるようになります。わたしたちの良心にとがめがあるなら、サタンは内側で、わたしたちを罪に定め、訴え、わたしたちの良心に漏れ穴を生じさせます。わたしたちの良心に漏れ穴が生じたなら、わたしたちは信仰において破船したようになり(Ⅰテモテ一・十九)、わたしたちの信仰と大胆さは漏れてしまいます。このようであれば、わたしたちの霊的な戦いは終わってしまいます。

わたしたちの良心にとがめがないなら、訴えもありません。これは義の問題です。ですから、わたしたちはいかなる不義も対処しなければなりません。わたしたちは義で覆われ、敵からの訴えを受けないように保護される必要があります。このような義はキリストです(Ⅰコリント一・三〇)。啓示録第十二章十一節は言います、「兄弟たちは、小羊の血のゆえに、……彼に打ち勝った」。小羊の血の覆いがあることは、わたしたちに義の胸当てがあるということです。義は血の中であり、血の覆いは胸当てです。主の血の清めの下で、主はわたしたちの義となられました。わたしたちが毎回、霊的な戦いにあずかるときには、わたしたちは祈る必要があります、「主よ、あなたご自身がわたしたちの義となって、わたしたちを覆ってください。主よ、わたしはあなたの血の下に隠れていることができますように」。これだけではなく、わたしたちは、あの訴える者にも告げなければなりません、「サタンよ、わたしは自分の功績によってではなく、小羊の勝利の血によっておまえに打ち勝っている」。

主の贖いにおいて、主の血はわたしたちの良心を清めます。また主の命はわたしたちに合理的で合法的な生活をさせます。この主観的な義の生活は、客観的な義も含んでいます。もしわたしたちの良心にとがめがあるなら、すぐに主の血の清めにしたがって、わたしたちは義とされます。このことはわたしたちの主観的な義として、さらにわたしたちが主によって生きることができるようにします。

平和の福音を確固とした土台、靴として足にはく必要がある
――キリストの十字架は、わたしたちに神と人との平和を持たせる
エペソ人への手紙第六章十五節は継続して言います、「平和の福音を確固とした土台として足にはきなさい」。第二章によると、平和の基本的な意味は、キリストが十字架上で人と神、人と人との間を隔てていた壁を取り壊し、人と神、人と人との間を和解させることです。ですから、平和の福音とは、キリストの平和の働きを福音として人に宣べ伝えることです。キリストは十字架上で、わたしたちと神、またわたしたちと人とのために平和となり、わたしたちを神と一とし、また異邦人信者とユダヤ人信者とを一とされました。この平和がわたしたちの福音となりました(十三―十七節)。

平和があるなら、確固とした土台があります。この確固として土台は、わたしたちが立つための安全な足場です。大部分の聖書の翻訳者は、ここのギリシャ語を「確固とした土台」と訳すのではなく、「準備」あるいは「備え」と訳します。これは、パウロがエペソ人への手紙を読む多くの人に、常に福音の靴をはく準備と備えをしているように命じていると考えさせます。しかし、そのような翻訳は不正確です。第六章十五節のパウロの思想を理解するためには、ここの福音は恵みの福音ではなく、罪の赦しの福音でもなく、キリストの計り知れない豊富の福音でさえなく、平和の福音であることを見る必要があります。第二章十五節と十六節によれば、キリストは十字架上で平和を成就して、異邦人がユダヤ人信者と接触することができように、またわたしたちがみな神と接触することができるようにされました。この平和は喜ばしいおとずれ、良い知らせです。言い換えれば、それが福音です。こういうわけで、十七節で、キリストは平和の福音を宣べ伝えられたと言っているのです。

わたしたちは救われたときに、わたしたちに宣べ伝えられた平和の福音を受け入れました。その時から、わたしたちは、実際的に平和の立場の上に立つために、福音をわたしたちの中で働かせなければなりません。その意味は、わたしたちは十字架によって肉、天然、自己を対処し、わたしたちの中にある、神との、また人との距離や対立するあらゆるものを取り除き、わたしたちを正しい立場へともたらす必要があるということです。このように平和の福音を適用して、わたしたちが立つときには、わたしたちの足には靴があります。それはつまり、わたしたちが神と人との両方に対して正しくあるために、備えの働きとしての平和の福音を持つということを言っています。この平和の福音は確固とした土台、足にはく靴となって、わたしたちを立たせることができます。わたしたちは平和の中で立つことを通して戦います。もしわたしたちと神との間の、あるいは他の信者との間の平和を失うとしたなら、わたしたちは足場を失ってしまいます。キリストは、わたしたちを神と一にし、また聖徒と一にする平和です。キリストが十字架上で成就された平和は、わたしたちが確固として立って敵に立ち向かうことができるための、確固とした足場であり、確固した土台です。

信仰の盾は、わたしたちが真理の帯、義の胸当て、平和の確固とした土台しての
キリストを経験したことの結果である
真理(実際)は、わたしたちの生活の中で、わたしたちの標準、パターン、原則として表現された神です。義はわたしたちの良心のおおいとしての、わたしたちの享受と経験の中のキリストです。わたしたちが生活の中で真理を持つなら、わたしたちのおおいとしての義を必ず持つでしょう。聖書は、義が平和を生むことを啓示しています。これは神に対しての、また人に対しての平和です。それは、キリストがわたしたちのために十字架上で成就された平和です。ですから、帯、胸当て、靴を持つことは、真理、義、平和を持つことです。わたしたちが日常生活の中で神を生かし出す時、わたしたちの義としてのキリストで覆われ、わたしたちの確固とした土台としての平和を持ちます。

最初の三つがそろって初めて、わたしたちは信仰を持ち、信仰を用いることができます。信仰は良心の中ではまだ用いることはできません。手の中にあって初めて用いることができます。しかし、この用いることは、攻撃のためではなく、邪悪な者の燃える火の投げやりに対する防衛のためです。信仰の盾が四番目に挙げられているのは、真に用いることのできる信仰は、真理と義と平和を土台としていなければならないからです。信仰とは、真理、義、平和の総合計だからです。

神がわたしたちの生活の実際となっていて、わたしたちの行ないがすべて義しく、そしてわたしたちの自己が十字架によって砕かれていて、神に対して、また人に対して少しの問題もないときに、わたしたちは信仰を持ち、用いることができます。これは、わたしたちが、あの邪悪な者の燃える火の投げやりを、いっさい消すことができる信仰の盾を持ったということです。

信仰の盾はわたしたちが立つことでの鍵であり、わたしたちにその他の武具を
用いさせる

神のすべての武具の最初の四つの項目は、真理の帯、義の胸当て、平和の確固とした土台の靴、信仰の盾です。この四つの項目は、立つ前に備えることが必要なものです。わたしたちは真理を腰に帯として締め、義の胸当てを身に着け、平和の福音の靴をはき、信仰の盾を取ることで、立つことができます。続けて、第六章十七節は言います、「また救いのかぶとを受け取りなさい.さらにその霊の剣、すなわちその霊である神の言葉を」。この節は、わたしたちが前述した最初の四つの項目を持って立った後に、さらに神のすべての武具の残りの三つの項目、救いのかぶと、その霊の剣と祈りを加える必要があることを示しています。この三つの項目は、立った後に初めて適用できるものです。

信仰の盾と救いのかぶとは共に働く
十七節前半でパウロはさらに、「また救いのかぶとを受け取りなさい」と言います。これは、あの邪悪な者によって投げ込まれた消極的な思想に対して、わたしたちの思い、思想を覆うためです。このようなかぶと、このようなおおいは神の救いです。サタンはわたしたちの思いの中に、脅迫、思い煩い、心配、人を弱くさせるその他の思想を注入します。神の救いは、これらすべてに抵抗してわたしたちが取るおおいです。この救いのかぶとは、わたしたちが日常生活の中で経験する救うキリストです(ヨハネ十六・三三)。

サタンの投げやりは、わたしたちの思いを通して来ます。ですから、わたしたちの良心が義の胸当てを必要とし、わたしたちの意志が信仰の盾を必要とするように、わたしたちの思いは救いのかぶとを必要とします。義の胸当ては良心を保護し、サタンの罪定めと訴えに抵抗します。信仰の盾はサタンのすべての燃える火の投げやりに抵抗し、救いのかぶとは思想を保護し、サタンからの脅迫的な思想に抵抗します。

真理は義を生み出し、義は平和を生み出し、平和はわたしたちに信仰を持つ立場を与え、その後に信仰は救いをもたらします。真理、義、平和、信仰を一緒に合わせた結果は救いです。この救いは、かぶとであり、わたしたちの頭を覆います。わたしたちは真理、義、平和、信仰、そして救いを必要とします。盾はわたしたちの前面を保護しますが、かぶとはわたしたちの頭部を保護します。盾とかぶとは共に働きます。救いのかぶとを信仰の盾から分離してはいけません。

その霊の剣を受け取り、敵を攻撃する
エペソ人の手紙第六章十七節でパウロはまた、「その霊の剣、すなわち霊である神の言葉」について語ります。神の武具の六つの項目の中で、これだけが、敵を攻撃するために用いられるものです。わたしたちは何を用いて外に向かって攻撃するのでしょうか? 神の言葉をもってです。主イエスは最も良い模範です。彼がサタンからの試みを受けたときに、神の言葉を用いてサタンを打ち破りました。サタンは三回、主を試みましたが、主は三回とも神の言葉を用いてサタンを撃退されました(マタイ四・一―十一)。しかし、もし神の言葉が聖霊の中にないなら、それは空っぽなものにすぎないということを忘れないでください。神の言葉は聖霊の中にあるなら力があります。ですからここで、「その霊の剣、すなわち霊である神の言葉」と言っているのです。

祈りを通して、神のすべての武具のそれぞれの項目を実際に用いる
エペソ人への手紙第六章十七節から十八節は言います、「また救いのかぶとを受け取りなさい.さらにその霊の剣、すなわちその霊である神の言葉を.すべての祈りと願い求めによって受け取りなさい」。「すべての祈りと願い求めによって」というこの言葉は、続く「受け取り」を修飾しています。祈りによって、わたしたちは救いのかぶとだけでなく、神の言葉も受け取ることができます。それだけでなく、この修飾している言葉は、十四節から十七節で言及されている六つの項目の武具にも関係しています。これがわたしたちに示していることは、わたしたちが、すべての(様々な)祈りと願い求めによって、真理を腰に締め、義の胸当てを着け、靴としての平和の福音の堅固な土台を足にはき、祈りによって信仰の盾を取り、救いのかぶととその霊の剣を受け取るということです。祈りこそが、神の武具を適用する唯一の方法です。

わたしたちは、神のすべての武具には七つの項目があると言ってもよいでしょう。すなわち六つの項目に一つの項目、祈りを加えたものです。六は創造された人を指し、一は神を指します。神に人が加えられて、初めて霊的な戦いをすることができます。先の六つの項目はわたしたちが準備することができますが、最後の一つの項目は神に行なっていただかないとできません。これが祈りの意義です。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第7巻より引用

 

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