「本」とは人の語りかけです。聖書は、歴史的には「唯一の本(The Book)」と呼ばれています。ですから聖書は神の語りかけです。
ヘブル人への手紙第一章一節から二節は言います、「神は、昔は多くの部分において、多くの方法で、預言者たちを通して、父祖たちに語られましたが、これらの日々の終わりには、御子の中でわたしたちに語られました」。神は旧約の時代、預言者たちを通して、多くの場所で、あちらで少し、そちらで少しと語られました。しかし新約になって、神はキリストという一人の人の中で語られました。今日、キリストは増し加わり、すべての使徒とキリストのからだのすべての肢体を含む団体の人となりました。
わたしたちが福音を語ることは、神を語ることです。わたしたちが恵みを語ることは神を語ることです。これは天然の人の語りかけではなく、神の要素で構成された語りかけです。わたしたちが神の言葉を語ることは、神を語ることです。ですから、それは神聖な語りかけです。わたしたちの神は語る神です。わたしたちの神は語る神であり、わたしたちは語る人です。今日、わたしたちの神はわたしたちに語り、わたしたちは神に語ります。それだけでなく、神について他の人に語ります。わたしたちは彼を語り、彼のために語り、キリストの言葉の中に神聖な語りかけを持つ必要があります。
旧約における神聖な語りかけ
聖書は旧創造における神聖な語りかけを、まず創世記第一章で啓示しています。三節は言います、「神は言われた、『光あれ』.すると光があった」。そして続けてわたしたちに告げています、「神は言われた、『水の間に大空があれ.そして水と水が分離せよ』……そのようになった。……また、神は言われた、『天の下の水は一つ所に集まれ……』.すると、そのようになった」(六―七節、九節)。このことは、旧創造が神の語りかけによって創造されたことを明確に告げています。詩篇第三三篇九節は言います、「まことに、彼(神)が語られると、それはあった.彼が命じられると、それは立った」。神は何かの手法を用い宇宙を創造されたのではなく、神の語りかけによって創造されたのです。神があると言えば、ありました! それゆえに、ヘブル人への手紙第十一章三節は言います、「信仰によって、わたしたちは、宇宙が神の語りかけによって組み立てられており、こうして、見えるものは現れている物から出て来たのではないことを理解します」。
それから旧約はかなり長い時間を扱っていますが、神が語ったという記載はほとんどありません。もちろん、神はノアに語られましたが、それほど多くはありませんでした。それから、アブラハムにも語られました。しかし、アブラハムに対しても、神はそれほど多く語られませんでした。そしてモーセが出て来て、彼は神の最高の語り手となりました。神は彼を用いて語られました。旧約聖書の最初の五冊は、モーセによって書かれたことをわたしたちはみな知っています。旧約における律法、規定、規則、そしてすべてのそれらの予表はみなモーセによって書かれました。つまり、モーセによって、モーセを通して語られました。
新約における神聖な語りかけ
旧創造は神の言葉によってもたらされました。では、新創造はどのようにもたらされたのでしょうか? 同様にそれは言を通してです。まず神は言です。ヨハネによる福音書第一章一節は言います、「初めに言があった……言は神であった」。この意味は、神は一種の語りかけであるということです。続けて十四節は、「言は肉体と成って」と言います。この言は肉体、一人の人と成られました。その人はまさしく神の語りかけでした。人なるイエスは神の言でした。言い換えれば、主イエスは神の語りかけでした。彼は、彼と御父が一であることをわたしたちに告げました(十・三〇)。彼は御父の中におられ、御父は彼の中におられました(十四・十)。彼はまた言われました、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.わたしの言を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持っており、また裁きを受けることがなく、死から命へ移っているのである」(五・二四)。これは語ることによって生み出された新創造です。
ペンテコステの日が来る前に、主イエスは弟子たちに言われました、「聖霊があなたがたの上に臨む時、あなたがたは力を受ける.……わたしの証し人となる」(使徒一・八)。わたしたちはみな、証し人とは語る人、語ることによって証しをする人であることを知っています。ですから、主はわたしたちが語る人、主のために語る人となることを望んでおられます。それから、ペンテコステの日が来ました。その時、何が起こったでしょうか?「火のような舌」が現れました。舌は語るためのものです。ペンテコステの日、火のような舌が現れ、それが分かれて信者めいめいの上にとどまり、彼らは語り始めました(二・三―四)。ですから、ペンテコステの日の直後に、三千人、五千人がみな各家庭で集まり、語り、宣べ伝え、教え、あらゆる人が語ったということに何の不思議もありません。彼らは家での集会で宣べ伝える人がいないのではないかと心配する必要はありませんでした。なぜなら、あらゆる人が語り、証しをし、宣べ伝え、教えたからです。
それから使徒行伝は言います、「神の言葉は成長し、また増し加わった」。同じような記述が使徒行伝の中で三回繰り返されています(六・七、十二・二四、十九・二〇)。神の言葉はどのように成長し、増し加わったのでしょうか? それは語りかけによってでした。大迫害が起こったとき、エルサレムにいた三千人、五千人はすべて散らされました。ただ使徒たちだけがエルサレムに残されました。そして、散らされた者たちは出て行って語りました。彼らは村々に行って語りに語りました。エチオピアからの宦官が馬車に乗っていた時、ピリポは彼に語るように命じられました(八・二六―三九)。これも語りかけの一例でした。弟子たちは、会衆のただ中で語ったのではなく、案配された集会の中で語ったのでもなく、彼らは至る所で語りました。
キリストの言葉が新約聖書となる
新約聖書の中には、主イエスが直接語られた言葉や文章がたくさんあります。マタイによる福音書第五章から第七章は、直接主イエスの口から出た言葉です。ヨハネによる福音書第十四章から第十七章は、主のメッセージと祈りです。これらは主の口から出た言葉です。最初に、主の言葉が使徒たちの口から他の人たちに伝えられました。次に、使徒たちが彼らのメッセージの中で語った多くのものを、それを聞いた者たちが書き留めました。それらの書き留めたものは疑いもなくキリストの言葉として人から人へと次々に伝えられました。第三に、初期の弟子たちの多くは、四つの福音書だけでなく、さまざまな福音書を書いたことでしょう。四福音書は、おそらく百以上の伝記の中から選ばれたものです。
歴史は新約聖書の中に収録された書簡以外にも、初期の弟子たちによる多くの文章があったことをわたしたちに告げています。それらのほとんどはあまり正確ではなかったため、その多くは選ばれませんでした。紀元後三二五年のニケア会議が開かれた時点でさえも、七つの書はまだ認められていませんでした。これらは三九七年の北アフリカのカルタゴの会議の中で選ばれました。この最終の選択で、新約聖書全体が完成しました。今やわたしたちは二十七巻からなる完全な新約聖書を持っています。その中の使徒たちによって書かれた多くの書は、実にキリストの言葉に満ちています。
歴史上で「唯一の本(The Book)」と呼ばれている聖書は、そのすべてがキリストに集中しています。キリストが中心であり、その要点であり、意義であり、また実際です。キリストは本の中の本(聖書)の中心性であり普遍性です。今、わたしたちは、キリストの言葉がその中にあることを知っています。イエス・キリストの地上での生涯の最後の三年半だけでなく、新約の時代全体において、神は御子であるキリストのパースンの中で語られます。今日、わたしたちは御子が団体的な方となられたことを知らなければなりません。神の御子を信じるわたしたちは、この団体的な御子の一部となったのです。こういうわけで、神は今日も依然として、団体的な御子、すなわち召会を通して語っておられます。わたしたちがここで語っている間も、神はわたしたちの中で語っておられるのです。神がわたしたちの中で語られるのは、わたしたちが神の御子キリストを語るからです。
神聖な語りかけとは神を語ることである
初めの言とは神です(ヨハネ一・十四)。言は神です。わたしたちの神は言です。言葉は語りかけのためです。語りかけは人が理解するためです。理解するのは人が信じるためです。信じることは、語ることができる言葉としての三一の神を人が受け入れるためです。わたしたちがキリストを受け入れるとは、わたしたちの語りかける言葉としての三一の神を受け入れることです。この言葉は霊であり、命です(六・六三)。言葉は神です。神は言です。この言は霊であり、この霊は命です。言、神、霊、命は同義語であり、すべて一つのものです。言葉は、わたしたちが語り、理解し、受け入れ、信じるためです。信仰は聞くことから来ます。聞くことは宣べ伝えることから、すなわち語りかけから来ます(ローマ十・十四―十七)。わたしたちの神が語る神であるだけでなく、わたしたちも語る人であるべきです。わたしたちは、神に語るだけでなく、神を他の人に語ります。わたしたちは神を語り出し、神のために語る必要があります。これは、天然の人の語りかけではありません。それは神の要素で構成された言葉です。ですからそれは神聖な語りかけです。わたしたちは福音を宣べ伝えるときに、「人は神によって、神を入れる器として造られたのです」と語ります。これが神聖な語りかけです。わたしたちは人々に、「あなたにはイエスが必要であることを知る必要があります。ただキリストだけがあなたを満足させることができるのです」と人に告げます。これは人に属する語りかけではなく、完全に神聖な要素で構成された、神聖な語りかけです。
預言することを通して
神聖な言葉が出て行く経路となる
民数記第十一章は、神の民を治める責任が非常に重く、モーセには担いきれなかったことを記載しています。そこで、神はモーセの上にある霊から取って、七十人の長老の上に置かれました(二五節)。そして長老たちは預言し始めました。その時、二人の者が営所にとどまっていましたが、霊は彼らの上にとどまりました。彼らもまた預言者として語り始めました。モーセの従者であったヨシュアはこれを聞いて、モーセに報告し、彼に懇願して言いました、「わが主、モーセよ、彼らをやめさせてください!」。モーセは答えました、「あなたはわたしのためにねたみを起こしているのか? ああ、エホバの民がみな預言者となり、エホバが彼らの上にご自身の霊を与えてくださるとよいのに!」(二八―二九節)。この言葉はモーセが語った大いなる預言です。それは神の願いはすべての民が預言者となるということを示しています。新約の時代になりパウロは、「なぜなら、あなたがたはみな一人ずつ預言することができるからであり」と言いました(Ⅰコリント十四・三一)。
今日のほとんどのクリスチャンは、「預言」という言葉を、予言するという意味で捉えています。実際、「預言」の主要な意味は、神のために語るということです。モーセは「預言」という言葉を用いたとき、「予言する」という意味で用いてはいませんでした。モーセの五書の中で予言は極めてわずかしかないことをわたしたちは知っています。しかし、モーセの著作は、彼の語りかけであり、完全に神を語り出しています。モーセは神のために語り、神ご自身を語り出していました! 旧約の中のその他の預言者、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルも同様でした。彼らが書いた預言者の書の中に含まれている予言は極めてわずかでしたが、これらの書は神を語り出すこと、神のために語ること、神を直接語ることで満ちています。旧約で預言がこのように定義されていただけでなく、新約のギリシャ語における預言も同じように神についてのある種の語りかけを意味しています。預言とは神を語ること、キリストを語ること、神聖な権益について語ること、キリストと神の事柄を語ること、神を語り、神を語り出し、また神を人の中へと語り込むことです。詩篇第十九篇一節は言います、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」。天でさえ語ります! なぜわたしたちは語らないのでしょうか? 神は、神を語り出す器官としてわたしたちを創造されたことを忘れないでください。わたしたちに声帯があり、一枚の舌があり、唇が上下にあり、多くの歯があるのは語るためです。さらに、わたしたちはただ音声を発するだけでなく、その語りかけには意味があります。キリストは神の言葉です。わたしたちはキリストに満たされたなら、すぐに語ります。わたしたちは自分の母国語を用いてキリストを語ります。意味のない音声ではなく、学んだ言語でキリストを語ります。わたしたちの語りかけは、一人のパースン、キリストに集中しています。わたしたちは造られ、再生され、彼の証し人となりました。ですから、わたしたちはその他のことではなく、キリストについて語らなければなりません。わたしたちは神のために語り、神の言葉を語り、そして常にキリストを語らなければなりません。このようにして、わたしたちは預言者になることができるのです。
神聖な語りかけに満ちている
使徒行伝第五章四二節では、召会生活の初期において信者たちは毎日、宮の中で、また家から家で教え、イエスがキリストであるとの福音を宣べ伝えてやまなかったことが示されています。宣べ伝えたとはどういうことでしょうか? それは語ったということです。教えたとはどういうことでしょうか? それは語ったということです。彼らはみな語りました。それぞれが語りました。新約で、クリスチャンの集会に言及するときは、語りかけに強調があります。パウロは言いました、「それでは兄弟たちよ、どうなのですか? あなたがたがいつも集まるときには、それぞれの人に詩歌があり、教えがあり、啓示があり、異言があり、解釈があります……」(Ⅰコリント十四・二六)。これは、詩歌、教え、啓示、異言、そして解釈がすべて語るためのものであることを明らかに示しています。それだけではなく、聖霊が聖徒たちに与えた、彼のすべての現れは、第一に知恵の言であり、第二に知識の言です(十二・八)。新約において、クリスチャンの集会は語りかけで満ちていることを見ることができます。
コロサイ人への手紙第三章十六節は、「キリストの言をあなたがたの内に豊かに住まわせ」と言っています。エペソ人への手紙第五章十八節から十九節は、「また酒に酔ってはいけません.……むしろ霊の中で満たされ、詩と詩歌と霊の歌とで語り合い」と言っています。これら二つの並行した節は、わたしたちがキリストの言をわたしたちの内に住まわせるなら、霊の中で満たされるということを証明します。言い換えれば、わたしたちが霊の中で満たされるとき、わたしたちの霊はキリストの言葉で満たされるということです。キリストの言葉は神であり、その霊と命です。わたしたちがキリストの言葉で満たされるなら、神で満たされます。わたしたちが神で満たされるなら、その霊で満たされ、命で満たされます。
この種の満たしは、わたしたちが養いを受けるためだけでなく、それはわたしたちが分与するためです。あらゆる人はみな生み出され、繁殖し、全地に満ちるように神によって造られました(創一・二八)。神は語りかけを通して旧創造を造られました。新創造もまた、神の言を通して造られました。今わたしたちは神の新創造として、神の言葉を語る必要があります。わたしたちは日常生活の中で語り、務めの中で語り、集会の中で語る必要があります。わたしたちはみな、自分が受け取ったものを他の人の中へとどのように伝達するのかを学ばなければなりません。わたしたちが語っているとき、わたしたちは注入し、伝達し、分与し、生み出しているのです! わたしたちは、語ることを通して、新しいクリスチャンを生み出しているのです。ですから、語ることは生み出すことであり、語ることは伝達することであり、語ることは分与することなのです。
わたしたちが主の言葉を語るのに形式的であったり、宗教的であったり、また習慣的であったりしてはいけません。たとえ理解できなくても、わたしたちは言うことができます、「父よ、御子の栄光を現してください.また御子があなたの栄光を現してください。わたしたちをあなたの真理によって聖別してください.あなたの言は真理です」(参考、ヨハネ十七・一、十七)。わたしたちがこのように言うならば、養いを受けます。何とすばらしいことでしょう! わたしたちは集会に来て語るなら満たされます。ですから、集会を最も享受している人は、最も多く語る人です。わたしたちは語ることを通して享受する必要があります! わたしたちはみな、キリストの言葉を用いて神聖な語りかけを持つ必要があります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第7巻より引用


