福音の鍵 肯(するつもりである)

福音メッセージ

多くの人は福音を聞いて同じようなことを尋ねます、「わたしはどのようにしたらこの救い主を得ることができるのでしょうか? どのようにしたら彼の救いを得ることができるのでしょうか? わたしはどのようにしたら救われるのでしょうか? 主イエスはどのようにしてわたしの中に入って来て、わたしと結合するのでしょうか? 彼がわたしのために行なったすべては、どのようにしたらわたしの祝福となるのでしょうか?」。人の観念において、この事柄はとても難しいのです。聖書ははっきりと啓示していますが、このことはとても簡単であり、食べることのように、さらには水を飲むことのように簡単です。わたしたちが神のところに行くなら、神の救いは無代価でわたしたちの中に入り、わたしたちの人生を変えてくださいます。

「渇いている者は来たれ.欲しい者は、命の水を値なしに飲むがよい」(啓示録第22章17節後半)。

一般的に、食事を作ることは、食べることより難しいことを知っています。台所で料理したことのある人はみなこのことに同意します。新約において、よく「食べる」こと、「飲む」ことを用いてわたしたちがどのようにして主の救いを受けるかを表現しています(マタイによる福音書第22章4節ヨハネによる福音書第4章14節6章53節―57節7章37節)。マタイによる福音書第22章4節は言います、「わたしの食事を用意しました.わたしの牛も肥えた家畜もほふられて、すべて用意ができています。婚宴においでください」。婚宴に行くことは食べることであり、他に何も行なう必要はなく、ただ食べます。たとえば、あなたが豊かな食事をテーブルいっぱいに用意してわたしを招いたとします。しかし、わたしがやって来るときに自分がどんなおかずを用意するかを考えて悩むなら、これはとてもおかしいことです。またもし、ある人が宴席にわたしたちを招待したとき、わたしたちがそこで何も食べないなら、これは主人にとって失礼なことです。宴席を主催するすべての者が最も喜ぶことは、客が料理を楽しんでいるのを見ることです。もし、主人が用意した豊かな料理に対して、客は見るだけで何も食べないなら、主人は喜ばないでしょう。ですから、ある人は宴席に行くとき、宴席の主人を喜ばせるために、その前に食事をあまり食べないようにして、宴席で多く食べることができるようにします。

聖書の中で、神は人に彼の救いを受け入れさせることのたとえとして宴席を用いました。彼はすでにわたしたちの救いに関するすべてのことを用意されました。彼の御子主イエス、すなわち肥えた子牛はすでにほふられ、わたしたちのために血を流されました。わたしたちの救いに関するすべてのことは、みな整えられており、わたしたちが何かを準備したり、何かを行なったり、さらに待ったりする必要はありません。ただ来て食べ、飲み、享受すれば良いのです。人の状況がどうであっても、どのような罪を犯したとしても、良心がどのようにしっせきしても、主イエスはすでに人のために尊い血を流され、人のすべての罪を担われました。

ある婦人が福音を聞いてとても感動し、イエスを信じることを真に願いました。伝道者は彼女に尋ねました、「あなたは今救われましたか?」。彼女は言いました、「わたしが犯した罪は大きく、わたしの罪のように重い罪を犯した人はいません」。この伝道者は言いました、主イエスは十字架上でわたしたちの小さな罪を担っただけでなく、大きい罪も担われました。それから、再び彼女に尋ねました、「あなたは主イエスが十字架上であなたの罪を担われたことを信じますか?」。彼女は言いました、「信じます」。そして彼は再び尋ねました、「主イエスはあなたの罪を解決したでしょうか?」。彼女は涙を流しながら言いました、「わたしは主イエスがわたしのために死なれ、わたしの罪を担われたことを信じますが、わたしの罪は大きすぎます……」。伝道者はまた彼女に言いました、「どんなに大きい罪でも、主イエスは担われました。あなたが犯した罪が彼が担われた罪より大きいことはありません」。このことから見ることができますが、人が神の救いを受け入れようとするとき、人の観念の中にはあらゆる妨げと理由があり、それは実にやっかいです。

神はわたしたちに彼を受け入れてほしいのだということを覚えておいてください。それは、わたしたちが単純に来て、食べて飲むことです。こういうわけで、わたしたちの態度は単純であればあるほど良いのです。中国北方のことわざに、「唇にただの粉を塗る」という言葉がありますが、意味はただで食べ飲みするということです。わたしたちは代価を払う必要はなく、お金や贈り物を準備する必要もなく、労苦して働く必要もありません。わたしたちが神の宴席に来るとき、両手を空にして単純に来て食べて飲む必要があります。わたしたちの救いに関することは、みな神がわたしたちのために適切に準備してくださり、すべてそろっています。神はすでに人と成り、わたしたちの救い主と成られました。彼はすでに十字架上でわたしたちのために死に、尊い血を流し、わたしたちの罪を洗い清めてくださいました。また、彼はわたしたちの罪の性質を死に渡し、さらに死から復活されました。今や彼はその霊となり、偏在しておられ、わたしたちの中に入り、わたしたちを感動させることができます。また、命をわたしたちに分与し、あらゆる罪に打ち勝つことができるようにわたしたちに力を与えてくださいました。彼は、わたしたちの救いに関するすべてのことを成し遂げました。わたしたちはもがいたり、他の方法を試したりする必要はありません。ただ単純に受け入れるなら、彼の救いを得ることができます。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は信実で義であられるので、わたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネの第1の手紙第1章9節)。

一面で、わたしたちは神の救いを受け入れるために、ただ食べ、飲むように単純に受け入れればよいのであって、自分の罪が軽いか、重いかを気にする必要はなく、また他の人の状況も気にする必要もありません。もう一面で、わたしたちは正しい器官を用いて彼に接触する必要があります。主イエスは霊であると聖書は告げています。神は霊であり、わたしたちは霊と真実をもってこの霊を受け入れる必要があります(参照、ヨハネによる福音書第4章24節)。もし、わたしたちが耳を用いて彼を受け入れるなら、感動を得ることはできません。頭を用いて彼を思っても、感動を得ることはできません。わたしたちの霊を用いなければ、彼に触れ、彼を受け入れることはできません。わたしたちが霊を用いて主イエスに近づくとき、目を強く閉じて何かを祈ろうと必死になるのではなく、ただ彼の御前で静まる必要があります。わたしたちは彼を見ることはできませんが、彼は霊であり、遍在しておられます。わたしたちが彼の御前で静まり、心と霊の深いところに感覚があるなら、それを彼に告げることができます。たとえば、彼はあなたが両親を傷つけたという感覚をあなたに与えるかもしれません。それゆえに、あなたは感覚にしたがって「主イエスよ、わたしは以前に両親を傷つけました」と告げます。告げ終わった後に、以前に妻を傷つけたというもう一つの感覚を持ちます。そして、あなたはすぐに「主よ、わたしは以前に妻をも傷つけました」と告げます。そして、以前に他の人のものを盗んだという感覚をまた得ます。あなたは続けて「主イエスよ、わたしは以前に人のあるものを盗みました」と告げます。わたしたちはこのようにして一つ一つ、感覚に次ぐ感覚にしたがって、彼に告白する必要があります。

わたしたちがこのようにして主に近づくなら、主の霊はわたしたちの中で働き、わたしたちに罪を告白するという感覚を与えてくださいます。多くの人は証しすることができますが、罪を告白すればするほど、わたしたちの内にある重荷はますます軽くなります。罪を告白すればするほど、ますます内側は明るくなり、新鮮になります。罪を告白すればするほど、ますます内側に喜び、平安があります。こうして、主イエスはさらにわたしたちの内側に入ってこられます。このとき、わたしたちの全存在は、最も深いところから主イエスを救い主として受け入れて、わたしたちの内側から感謝と賛美が湧き上がるようになります。一方で、汚いものを内側からはき出すように、わたしたちの罪は彼に告白することを通して、わたしたちから出て行きます。もう一方で、わたしたちの内側は目を覚まし、全存在が明るくなり、心地良くなります。

わたしたちがこのように罪の告白を経験した後、主イエスはわたしたちの中に入り、わたしたちの救い主となり、またわたしたちは彼のものであり、彼もわたしたちのものであって、わたしたちは真にイエスを信じる者であるということを証しすることができます。もしそうでなければ、わたしたちはまだイエスを信じることの浅い段階にいます。わたしたちは彼の御前で静まり、わたしたちを感動させ、清める機会を彼に与える必要があります。わたしたちは地上で三十年、六十年、もしくは七十年生きてきたかもしれませんが、人生に対してなおもこんとんとしており、はっきりとしていません。それは、ある人が三十年、六十年、七十年間も手を洗わず、その手が汚れていて仕方が無いというようなものです。わたしたちは主の御前に行き、彼に照らされ、わたしたちを清め、一掃していただく必要が確かにあります。

主がわたしたちを一掃するとき、そしてわたしたちが自分の罪を感じるようにしてくださったとき、わたしたちは一つ一つ、内側から罪をはき出すようにして告白する必要があります。多くの人は、このように罪を告白するとき、始めのうちはあまり感覚がありませんが、罪を告白すればするほど、ますますつらくなり、悲しくなり、悔いるようになります。しかしながら、このような悔いることは喜びの悔いることです。このような悲しみは甘い悲しみです。とても不思議なことですが、わたしたちは悲しむと同時に喜ぶことができます。なぜなら、わたしたちは罪を告白し終え、罪をはき出して、主イエスが入りやすくなったからです。主イエスを得た者は、内側で主の喜びに満たされます。十字架上でわたしたちのすべての罪を担われたイエスは、わたしたちの中に入るとすぐに、わたしたちが罪の赦しを経験し、またわたしたちの中で腐敗した性質を死に渡すことにおいて彼を経験し、さらに、わたしたちの命と成って、わたしたちに真の平安と無限の喜びを得させることを経験するようにしてくださいます。

救われた人は、主イエスを得た人です。主イエスを得る鍵は、来て食べ、飲み、受け入れ、享受することです。救われることは非常に簡単であることを多くの人は証しすることができます。それは、主のところに来て、食べ、飲むことです。特にへんな場所を探す必要はありません。福音の真理を聞いて、どこででも、単純に受け入れるなら救われます。

ある元裁判官の兄弟は、救われる前、福音を聞いた後に伝道者に尋ねて言いました、「あなたが伝えているこの神は男でしょうか、それとも女でしょうか? あなたは、唯一の神は万物を創造した主であり、人のために十字架上で死に、また死から復活し、人の救い主と命と成ると言いました。しかし、わたしが信じようとするとき、彼はどのようにわたしの中に入ってくるのでしょうか?」。彼は半信半疑になり、伝道者の言葉が外国語のようであると感じ、またでたらめな言葉であると思いました。表面的に彼は信じていないかのようでしたが、家に戻った後、部屋の戸を閉めて主イエスの御前にひざまずいてこのように祈ることができると伝道者は告げました、「主イエスよ、もし、あなたが真実であるなら、わたしが罪人であることを知らせてください。わたしに罪を告白させてください。あなたがわたしの救い主であることを信じさせてください」。彼は、祈ることは損ではないので、試すことにしました。

その日の晩、彼は家に戻ってこのことを妻に告げて、部屋の戸を閉め、冗談半分でひざまずいて主イエスに祈りました。祈りの中で、もし彼が真の神であるなら、自分の罪を知らせるようにと主に告げました。祈った後、彼は自分が多くの罪を犯した罪人であると感じたので、主の赦しを求めました。それから、彼は目を閉じたまま、主イエスが現れるかどうか待ち続けました。しばらくたっても何も起こらず、自分もあまり変わっていないと思ったので就寝しました。二日目の朝、彼はいつものように裁判所へ仕事に行きました。しかしながら、裁判所への途上で、彼の内側から言い表せない喜びが出てきました。そのとき、彼は天地のすべてが変わったと感じました。空が美しくなり、大地も愛らしくなり、道ばたでワンワン鳴く小犬でさえ好ましくなりました。裁判所に着き、案件を審議するとき、以前は憎らしいと思っていた人たちが、その日はどんな人も愛らしく感じました。彼は案件を審議しながら、内側で笑みを浮かべました。彼の内側は喜んでおり、顔もほほ笑みに満ちており、家に帰っても笑顔であり、食事の時でさえも笑顔でした。妻が何が起こったのかと尋ねると、彼は不思議で特別な物語を証しし、全存在が喜びに満ちました。

神の救いがそれぞれの人に現れる状況は異なりますが、みな同じように人生と人生の事柄に対して、正しい展望を持ち、自分が神の御前で主イエスの贖いによってすでに神に受け入れられ、神の臨在を持っていることを知ります。ある人に現れたのは喜びであり、笑顔で満たされています。ある人は、笑顔がないかもしれませんが、内側には甘い感覚があります。いずれにしても、あらゆる状況があって、人によるものでも、人が修行をしてなしたものでもなく、神の命が入って来て自然に出てきた結果です。

何千万ものクリスチャンは証しすることができますが、主イエスを信じることはとてもすばらしいです。こういうわけで、あるクリスチャンがイエスについて語ろうとするとき、狂ったようになります。なぜなら、彼らはみな異なる経験を持ち、何回語っても飽きることはないからです。毎日主を宣べ伝えたとしても、一年三六五日間に語った内容は新しいものです。なぜなら、主イエスを信じる物語はとても多く、非常に栄光で、甘いからです。こういうわけで、わたしたちはただ単純に、学問があってもなくても、疑いがあってもなくても、みなしばらくこれらのことをわきに置いて、主の宴席に行けば良いのです。

親愛なる友人のみなさん、主の言葉は言います、「すべて用意ができています。婚宴においでください」(マタイによる福音書第22章4節)。ですから、あなたはただ来て食べ、飲みすれば良いのです。イエスは、神が人と成った方であり、すでにわたしたちのために十字架上で死に、彼の尊い血を流し、わたしたちの罪を贖い、さらに死から復活し、わたしたちの中に入って命と成ってくださいました。今や彼は霊であり、わたしたちがただ霊と真実を用いて彼を受け入れ、祈りの中で、内側の感覚にしたがって徹底的にわたしたちの罪を彼に告白するなら、主イエスは入って来られます。わたしたちは彼を得るなら、神の救いを得て、人生に対して正しい展望を持ち、わたしたちの内側にある神の命の不思議な物語をすべて経験することができます。
詩歌(源なる神よ)   習志野に在る教会作成

記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第6巻より引用