「気づかぬうちに定められた」

証し

わたしは、高校生のころ、バスケットボールに打ち込んでおり、昼も夜も練習していました。このことは、当時のわたしにとって人生の全てでした。その努力の結果、バスケットボールの選手になるまでに上達し、それにより、アメリカの主要な大学の奨学金を受給できるほどにまでなりました。最初に入学したのは、テキサス州のオースティンのテキサス州立大学です。一年生の頃は、そこに在学しました。その後、カンザス州にあるウィチタ大学に転校しました。しかし、わたしはそこで練習に打ち込めば打ち込むほど、ますます内側に虚しさを感じはじめました。わたしは疑問に思いました「ボールをかごの中に入れるのが人生の意義であろうか?」。それはもちろん違います。わたしは本当に、人が生きている真の意味は何なのかを追い求め始めました。わたしは、内側で人生の意義を追い求めていたとき、西洋社会における、ロシアの非常に有名な作家の一人、ドストエフスキーの書物を読みました。彼は二冊の有名な本を書きました。一つは「罪と罰」です。罪を犯した者が、シベリアに送還されたのち悔い改め、そして、主イエスを信じるストーリーです。わたしは、「こんなストーリーが書ける人は、本当に賢い人に違いない」と思い、さらに彼の傑作を読みました。次に読んだのが「カラマーゾフの兄弟」です。これは彼の最高傑作です。この著書の中で彼は、神と人とサタンについて語っています。「ドストエフスキーのような人が、こんなことを書けるとは!」と深い印象を受けました。その作中に、クリスチャンも出てきました。そのクリスチャンはロシア正教会の牧師で、彼は作中で敬虔な信者として描写されていました。とても賢い人なのに、キリストを信じていました。本を読んでいる時、彼の言っていることによって、わたしはとても感動しました。とても聡明であるのにクリスチャンである、ドストエフスキーからも、大きな影響を受けました。

 

わたしはその後、大学で「イエスの生涯と教え」というクラスをとりました。ここは、聖書の学校ではなくオースティンのテキサス州立大学のような、一般の大学です。そのクラスの教授は非常に賢い方でした。オックスフォード大学の特待生だった方です。名誉教授であり、以前に勤めていた大学の学長だった方で、非常に優秀で聡明な方でした。学友の一人がわたしに言いました。「エド。彼のクラスだけは、とってはいけないよ」。その学友は、全てのクラスで成績がAの人でした。しかし、その「イエスの生涯と教え」のクラスだけはBの成績でした。「エド。このクラスだけは、本当に難しいですよ。みんな簡単に思っているけど、かなり難しいですよ」。とコメントしました。「このクラスは、考古学を学ばなければならないし、聖書も学ばなければならない、また聖書以外の文献も読まなければならないし、その他の多くの事柄も学ばなければならないよ」。それは全部イエスに関する事柄です。イエスに関係する書物を沢山読まなければならないということがわかりました。わたしは学友に言いました。「それでも、わたしはこの授業を受けたいと思います」。最終的にわたしはこのクラスで、Aの成績をとることができました。わたしはその時、クリスチャンと議論することが好きでした。わたしは、タルソのサウロのようでした。多くのクリスチャンは、わたしのことを、恐れていました。「エド・マークスがやって来た!」と言われ、わたしは議論するためにクリスチャンに対して、「聖書の中で、恐竜は、どこに出てくるのですか?」と質問をしたりしました。彼らは、答えることができませんでした。「なんで、カインはアベルを殺したのでしょうか?」わたしは彼らに答えられないような質問をして、いつも挑戦的な態度をとっていました。「あなたがたは、天国に行くと言っているけども、わたしの父はあなた方のように、イエスを信じていません。しかし、あなたがたよりよっぽど良い人です。しかし、あなた方は、わたしの父が天国に行けないと言う、どうしてそんなことがありえるのでしょうか?」そのように彼らと議論していました。彼らには、答えることができませんでした。

 

そしてこのクラスで感じたことですが、教授にとても驚きました。とても聡明な方なのに、「クリスチャン」なのです。わたしはクリスチャンになる人は、愚かな人に違いないと思い込んでいたので、教授を見たとき思いました。「この人は、とても賢いのに、何でクリスチャンなのだろう」。このクラスの最初に、教授は教室の生徒全体に向かって語りました。「わたしはクリスチャンです。わたしは、イエスを信じています。わたしが授業中教えている最中に、わたしの内側の信仰が、抑えられず出てくるかもしれません」。と言いました。これは、わたしにとても衝撃を与えました。「なぜこのような名誉教授である賢い方が、クリスチャンになるのだろうか?」。ある日、クラスの検討会の中で教授は、マタイによる福音書第五章から第七章の内容を語りました。その時わたしは、リンクス教授に一つの質問をしました。「誰もこのようなことを実行できる人はいないと思います。これは不可能です。誰が右の頬を打つ者に、他の頬を向けることができるでしょうか?誰がもう一マイル一緒に行けるでしょうか?スーツを求めた人に、どうして中のシャツまであげることができるでしょうか?もしこんなことをしたら、みんなが、あなたを利用するようになるのではないでしょうか?」このクラスには、多くのクリスチャンがいたので、彼らは非常に腹を立てました。そして、クリスチャンでない友達たちは、「いいこといったなぁ!」と、はやし立てました。しかし、教授がその時何と言ったか分かりますでしょうか?彼は、わたしの挑戦するような質問に対し反論するようなことは、されませんでした。彼は怒っている生徒たちに言いました。「ちょっと待ってください。マークス君は、とても良い点を突いています」。わたしは、「おぉ、わたしは良い点をついたのか!」と嬉しくなりました。彼は、わたしをそのようにはぐくんでくださったのです。彼は、わたしを叱ったりしませんでした、わたしをはぐくんでくれたのです。教授は、そう言った時、わたしを顧みてくださったのです。わたしは、教授が顧みてくださったことで非常に感動しました。その後、そのクラスで本を選び、全体の概要をレポートで提出するという課題が出されました。わたしは課題図書に、「ルカによる福音書」を選びました。また聖書とは別に、ルカの伝記も読みました。わたしはそれを読んでいたとき、とても内側深くに触れるものがありましたので、ルカの伝記のレポートを書きました。レポートの最後にわたしはこう書き記しました。「この本を読んでいて、映画を見ているような、気持ちになりました。午後に、映画を見ているようでした。映画館を出ると、太陽の強い光がわたしを照らして、映画は現実のことではなかったと、気づくようなものでした」。このような文章で、レポートを書き終えました。教授はそれになんと書いて返してきたでしょうか?「非常に、興味深い」。その返信に、非常にはぐくまれました。非常に感動しました。「わぁ!非常に興味深いと書いてくれた!」と感激しました。文章を添削されたりしたのではなく、二つの言葉だけを、記されていました。「とても、興味深い」この言葉に、感動しました。

 

数年の後、わたしは法律の学校に進むことに決めました。そのためにリンクス教授に、推薦状を貰う必要がありました。わたしはその時、数年間リンクス教授と会っていませんでしたので、彼から推薦状を貰うことは、とても難しいことでした。わたしは彼の研究室まで行きました。今振り返ってみると思うのですが、彼の部屋に入るやいなや、わたしは自分の罪を、認識させられていました。なぜなら、主の臨在がそこにあったからです。しかし、再び驚いたことに、リンクス教授は、「おお、マークス君。元気でしたか!」とわたしの心配をよそに、喜んで迎え入れて下さいました。後でわかったことですが、彼はわたしのために祈っていて下さっていたのです。彼は、わたしに椅子に座るようにすすめ、彼の家族のことを、語ってくれました。そして、わたしも今までの経緯を話しました。わたしは内側で、ほんとうに申し訳ないという気持ちで、一杯になりました。「わたしはここに来たのは、リンクス教授から法学校の推薦状を書いてもらうために来たのです」と打ちあけました。わたしはきっと、「ダメ、ダメ、」と言われると思っていましたが、彼は「もちろん書きますよ」とこころよく受け入れてくださいました。深く心に触れるものがありました。そして、会話の最後にわたしは一つの質問をしました。「教授、わたしは探しているものを見つけることができるでしょうか?」リンクス教授は答えました。「マークス君。心配しないで下さい。あなたは必ず見つけるでしょう」。彼が語ったのはこれだけでした。わたしは、彼の研究室から立ち去るとき、目から涙をぬぐわざるをえませんでした。彼はわたしの胸の中に、信仰を強く語りこんでくださったのです。彼が言ったように、「わたしは、人生の意義を必ず見つけることができる」。とその時、確信しました。

 

大学卒業後、わたしはヒューストンに引っ越しました。そして、そこのペンゾールという会社で働き始めました。再び、内側に非常に深い虚しさを感じ始めました。このころ「これは、人生の終わりだ」。と思うほどでした。会社のビルの二十階まで上がり、働いて、降りて、家に帰って、食べて、寝て、また出勤して、上がって、下がって、家に帰る。そのようなことを、繰り返す生活でした。「六十五歳までこれを、続けるのか?これが、人生の意義なのか?」と思いました。この仕事が、良い仕事であることは知っていましたが、虚しさは消えませんでした。そんなある日、わたしは洗濯のためにコインランドリーに行きました。そこに、福音ビラが置いてありました。その福音ビラをわたしは手にとってみました。するとその表紙に「わたしは見つけた」と書かれているのを見ました。瞬間、リンクス教授の言葉がよみがえってきました。「マークス君、心配しないで下さい。必要なものは必ず見つかります」。わたしは、あのときのリンクス教授が言っていたのは、これに違いないと思いました。わたしは、それをおもむろに読んでみました。まず、聖書の御言葉が書かれていました。しかし、もっともわたしの胸の深みに触れたのは、あるクリスチャンの証しでした。わたしは、その証しと、議論することはできませんでした。それは、これが彼らの経験であることが解ったからです。ある人は、「わたしは主を受け入れた後、平安があり、思い煩いが無くなり、夜もとてもよく眠れるようになりました」。とありました。これは、素晴らしいことだと思いました。こう思ったことは、主がこの時のためにわたしの内側を用意してくださっていたからです。そして、トラクトの最後に、祈りが書いてありましたので、わたしはその祈りを祈りました。その時はじめて、内側に主イエスを受け入れたのです。ほんとに素晴らしかったです。主を受け入れた後、わたしは聖書に触れ、聖書のすべての言葉が、金のように感じられるようになりました。そして、その数週間内に、主が本当にわたしに現れたと言えます。非常にミステリアスな方法で現れたのではなくて、主はわたしにとって非常に現実的に現われました。彼の臨在は非常に強いものであったのです。わたしは家に帰ると、バスルームに行って音が出るように水をバスタブに出して、膝をつきわたしの今までの全ての罪を告白しました。そして、主がわたしのために、十字架につけられ、死んでくださったことを見ました。主は、わたしの身代わりとなって死んで下さったのです。そしてわたしはこみ上げてくる強い心の思いを抑えきれず、外に飛び出して神に向かって心を開き、「主よ!わたしの全生涯を、あなたに捧げます!」と告げました。神の愛に感動し、わたしは自分自身を主に捧げるに至ったのでした。