レビ人―― 祭司職を得る

真理

イスラエル人の長子の権は地の二倍の分け前、王職、祭司職を含みます。
ルベンは情欲の汚れのゆえに地の二倍の分け前の権利を失い、
ヨセフは彼の純潔さのゆえに、長子の権を得ました(創世記三九章七節―十二節)。
ユダは兄たちがヨセフを陥れようと陰謀を企てた時に
彼を顧みました(三七章二六節)。またベニヤミンが苦難にあった時に
彼を顧みました(四三章八節―九節、四四章十四節―三四節)。
ですから、彼は長子の権の王職を得ることができました。
しかし、なぜその性情が残虐であったレビが、
祭司職を得ることができたのでしょうか?

ヤコブの預言
レビ、それはヤコブの第三子でした。ヤコブは妻と子を連れてカナンの地に戻る途中で、シケムに着きました。そこで娘のデナが、シケムの族長のハモルの子―シケム―に汚されました。ヤコブの二人の息子、デナの兄のシメオンとレビは、剣を取って、不意に町を襲い、すべての男子を殺しました。ハモルとその子シケムも殺し、デナをシケムの家から連れ出しました(創世記三四章二五節―二六節)。シメオンとレビが行なったことに、ヤコブは大変驚きました。彼が年老いて、十二人の息子たちを祝福した時にも、彼はこのシメオンとレビが行なったことを忘れてはいませんでした。創世記の第四九章でヤコブは、「シメオンとレビは兄弟.彼らの剣は暴虐の武器である。わが魂よ、彼らの会議に加わるな.わが栄光よ、彼らの集いに連なるな.彼らは怒りに任せて人を殺し、欲しいままに雄牛の足の筋を切ったからだ。のろわれよ、彼らの怒りは、激しいゆえに.のろわれよ、彼らの憤りは、残虐なゆえに.わたしは彼らをヤコブの中で分け、彼らをイスラエルの中に散らそう」(五節―七節)と言っています。ヤコブはレビを祝福しておらず、裁くような預言をしました。レビ人をイスラエルの子たちの間に散らして、彼らはその性情にしたがって残虐に振る舞うことができなくなりました(ヨシュア記十九章一節、九節、二一章一節―三節)。

レビ人が祭司職を得る
神はイスラエル人を選び祭司の王国とした
神の約束によれば、アブラハムの子孫は大いなる国となり、良き地において神に仕えるはずでした。しかしヤコブがエジプトに下った後に、イスラエル人はエジプトでパロの奴隷となり、パロに仕え、パロに虐待されていました。四百年後に、神はやっと、モーセの導きを通してイスラエル人をエジプトから連れ出されました。

イスラエル人がエジプトから出てシナイ山に来た時に、神はモーセに、イスラエル人に向かって「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、あなたがイスラエルの子たちに語るべき言葉である」(出エジプト記十九章六節)と言わせました。神はイスラエル人が祭司の王国となり、全国民が祭司となるようにされます。この国と世界は、他の国とは異なっています。この国の中のすべての人が、神に仕えるという一つの職業を持っています。

イスラエルは偶像に仕えた
神がイスラエル人に、彼らを神へと戻し、祭司の王国とすると告げられた後に、神はモーセを山の上へと召して、律法の石の板を彼に与えました(二四章十二節)。モーセと神は山の上で四十日四十夜、共にいました(十七節―十八節)。民は山のふもとでモーセの帰りを待っていましたが、待ちきれなくなりました。彼らのある者たちは、「わたしたちが尊び、わたしたちをエジプトから連れ出し、この地まで導いた人は、もうこんなに長く山の上にいます。わたしたちは、彼に何が起こっているのかわかりません。わたしたちはこれ以上待つことはできません」と言ったことでしょう。モーセの帰りが遅いのを見て、彼らはアロンに、彼らを先立って行く神を造るように要求しました(三二章一節)。アロンは彼らに、「あなたがたの妻、息子、娘の耳にある金の輪をはずして、わたしの所に持って来なさい」(二節)と言いました。アロンは民の耳にあった金の輪を集めて、彫る工具で型を造り、鋳造の子牛にしました。彼らは言いました、「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ!」(四節)。

この子牛を持つことで、イスラエル人は大いに喜びました。イスラエル人は、神がどこに住んでおられるか、また、どこに行けば彼に会えるのか、わかりませんでした。この神を礼拝していたモーセでさえ、どこにいるのか、わかりませんでした。今、そこには目に見える、彼らが礼拝することのできる金の子牛がいます。彼らは歌い、踊り、喜んで偶像を礼拝しました。彼らは座って食べ飲みし、立って戯れました(三二章六節)。彼らは大いなる祭りにふけりました。

神はイスラエル人を祭司として設けましたが、彼らが神の祭司となる前に、金の子牛の祭司となってしまいました。神は、イスラエル人を祭司の王国としたかったのですが、彼らは神の祭司の王国となる前に、偶像に仕え、金の子牛を礼拝してしまいました(三二章八節)。彼らは神以外の別の神を持ち、神以外の別のものを礼拝しました。

神は祭司職をレビの部族に与えた
民が山のふもとで金の子牛を拝み、モーセがまだ山の上にいた時、神はモーセに語られ、「さあ、下って行きなさい.あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は堕落してしまった」(七節)と言われました。モーセは向き直り、二枚の証しの板(十戒)を手にして山から下りました。モーセは営所に近づくと、子牛を見て、怒りが燃え上がり、二枚の板を打ち砕きました。モーセは営所の門の所に立って、「だれでもエホバにつく者は、わたしの所に来なさい」(二六節)と言いました。そしてレビの子孫たちがみな、彼の所に集まったので、モーセは彼らに言いました、「エホバ・イスラエルの神はこう言われる、『それぞれ腰に剣を帯びて、門から門へ営所全体を行き巡り、それぞれ自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ』」(二七節)。

モーセはレビ人に、次のように言ったかのようです、「だれでも、あなたがたが出会った者はみな殺せ。彼らは偶像を礼拝し、金の子牛を拝んだからだ。彼らとあなたがたがどんな関係にあったとしても、剣を抜き、殺せ」。二八節は言っています、「レビの子たちはモーセの言葉のとおりに行なったので、その日、民の間でおよそ三千人が倒れた」。

多くの人々は、この命令は、あまりにも残酷であると考えます。だれが、自分の兄弟を殺すことができるでしょうか? 誰が、自分の友を殺す心を持っているでしょうか? 十二部族のうち、十一の部族は動きませんでした。彼らは、払う代価があまりにも高すぎると感じました。結果として、ただレビの部族だけが、その剣を抜いて、宿営の入り口から入り口へ行き巡り、その日、およそ三千人を殺しました。これらの殺された人々は、レビ人たちの兄弟であり、親族であり、友人たちでした。

申命記第三三章八節と九節は言います、「また、レビについて、彼は言った、『あなたのトンミムとウリムが、あなたの忠信な人と共にありますように.あなたはマッサで彼を試み、メリバの水のほとりで彼と争われました.彼は自分の父と母について、「わたしは彼を顧みない」と言った.彼はまた自分の兄弟を認めず、自分の子供を顧みなかった.彼らがあなたの語りかけを守り、あなたの契約を保護したからです』」。言い換えれば、レビ人は、金の子牛を拝んだ者たちとの最も近い関係さえ否みました。レビ人は神に忠信であって金の子牛を拝んだ者たちを殺したので、彼らはトンミムとウリムを伴う祭司職を持つ権利を受けました。

祭司職は、本来はイスラエルの国に与えられるものでした。イスラエル人が金の子牛を拝んだので、祭司職はレビの部族だけに与えられました。わたしたちの内側には、金の子牛を拝む者である多くの「近親者」がいます。これらの近親者はわたしたちの自己を表徴します。わたしたちはこれらの近親者を「殺さ」なければなりません。そうでないと、わたしたちは祭司職を失うでしょう。

絶対的に献身し、更新され、造り変えられる
出エジプト記第十九章によれば、神はイスラエルの全国民が祭司の王国となることを意図されました。イスラエル人が金の子牛を拝んだゆえに、モーセは、その偶像を礼拝する、いいかげんな者たちを殺すために、主に忠信で、主の側に立って、剣を取る人たちを召しました。レビ人たちがその勝利者たちでした。彼らは絶対的に主の証しのためにモーセと共に立ち、偶像を礼拝する者たちとは一緒にならないことを表明する者たちです。彼らは民の中から分離され出てきて、主が最高の権威者であり、唯一の神であり、聖であり、義であることを証しします。彼らは、偶像を礼拝するいいかげんな者を許しておくことができませんでした。彼らは自らを清くしたので、祭司職を得ました。

レビとシメオンは、暴虐な性情を持っていました。最終的に、レビ族は機会をとらえて彼らの天然的な性情を変えました。そしてイスラエルの子たちが山のふもとで金の子牛を礼拝した時には、レビの殺す性情が神に用いられました。これが示しているのは、わたしたちはとても醜い性情を持っていても、わたしたちの性情がなおも神の定められた御旨に役立ち得るということです。しかしながら、応じなければならない一定の条件があります。第一に、わたしたちは自分をささげなければなりません。第二に、わたしたちは自分の天然の好き嫌いに逆らって、自分の性情を行使しなければなりません。第三に、わたしたちは更新され、造り変えられた方法で、自分の性情を用いなければなりません。シケムの町の住民がレビの敵であったので、彼が彼らを殺すことは容易でした。しかし親、兄弟、息子、親族を殺すことは全く別の事柄でした。

シメオンは進んで代価を払おうとしなかったので、モーセの戒めを遂行することで、レビに加わりませんでした。レビは神のために、神と共に、新しい方法で彼の天然の性情を用いましたが、シメオンはそうしませんでした。レビは造り変えの方法で彼の性情を用いました。ですから、レビの天然の性情、彼の暴虐な性情は、造り変えられたのです。

神に忠信であり、偶像を対処する必要がある
神の目的は、すべての神の民が祭司となることでした。神の民と神の祭司は同じグループでした。神の民であれば、神の祭司でした。神の民であって、神の祭司でないものはいませんでした。しかし、多くの人々は、この世を愛して、人間的な愛情に負けてしまい、忠実でなくなり、偶像を拝んでしまいました。その結果、神の民と神の祭司たちは、二つの別々のグループになったのです。ですから、もし人が自分の父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、またあらゆるものよりも主を愛するのでなければ、彼は主の弟子となるにはふさわしくなかったのです。多くの人々は、この要求に応えられず、この代価を払うことができませんでした。その日からイスラエルの国は、神の民と彼の祭司たちという二つのグループに分けられたのです。

今日、何億ものクリスチャンがいます。これらのクリスチャンがみな神の祭司でしょうか? 不純な礼拝は大部分の信者たちに彼らの祭司職を失わせました。しかし、主に感謝します。旧約で祭司職を保った一つの部族があったように、今日、主に忠信であって、不純な礼拝を殺し、こうして祭司職を保つ少数の者がいます。

わたしたちがイスラエルの歴史を読む時に、その中の原則を今日のわたしたちの状況に適用する必要があります。わたしたちは金の子牛を拝むことと、そのような礼拝に参与するわたしたちの中にある諸部分を殺す必要があります。レビは神への絶対さ、切実さ、忠信さのゆえに、祭司職の祝福を受けました。わたしたちもそうすることで、自分自身を神の祭司職の立場に保護するでしょう。わたしたちがこれを行なうなら、神は彼の定められた御旨を率先して成就する、少数の信者たちを持ち続けることができるでしょう。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第2巻より引用

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