キリストに結び付く

真理

「エポデ」はヘブル語の音訳で、祭司の衣服の一部分です。
神が祭司の体系を設けられる以前に、これは人の文化の中にはありませんでした。
神が祭司の衣服をモーセに啓示した時、
エポデは全く新しいものであり、それに相当するものはありませんでした。
旧約の中のこのエポデの絵図に、新約での言葉が加えられることで、
わたしたちはどのようにキリストに結び付けられるのかを見ることができます。

聖書原文の辞書によれば、エポデという言葉は縛る、締める、束ねる、あるいは結び付けるを意味します。ですから、エポデは祭司の衣の一部分であって、しっかりと締め、束ね、縛り、結び付けるのに用いられました。エポデはり糸のひもから作られました。それは胸当てと両肩の肩当てとを結び付けるためのものでした。胸当ては十二の宝石が金の網細工にはめ込まれ作られたものです。両肩の肩当てには二つのしまめのうがはめ込まれていました。エポデは胸当ての下にありました。二つの肩当てと胸当てはエポデに結び付けられていました。撚り糸のひもはエポデを強くし、つなげる力があり、また縞めのう、胸当て、その他の金の網細工の重量を支えました。

出エジプト記第二八章六節は、「そして、金色と青色と紫色といろの撚り糸、また撚り合わせた細糸の亜麻布でエポデを、巧みな職人のわざで作らなければならない」と言います。ここでわたしたちは、エポデが、金色と青色と紫色と緋色の撚り糸、また撚り合わせた細糸の亜麻布で織り込まれたことを見ます。エポデの材料は金と亜麻布でした。金は鉱物であり、亜麻布は植物の命から来た物質です。これは、キリストの神性と人性をはっきりとわたしたちに見せています。

手順を経た神性
金は鉱物ですが、どのようにして衣服となることができるのでしょうか? 金は衣服へと織り込まれるための糸とならなければなりません。それにはまず、金を打ち伸ばして薄くし、切断し糸状にしてから、織物の中へと織り込むことができます。十三節と十四節は言います、「また、金の網細工を作り、また、二つの純金の鎖を作らなければならない.それらをねじって、ひも状に細工し、そのひもの鎖を網細工に付けなければならない」。「金の網細工」と訳されたヘブル語は、折りたたまれる、糸を撚り合わせる細工をも意味します。金の鎖は金の糸を撚り合わせることで作られます。ですから、金の網細工となるには、折りたたまれることを経過し、金の鎖とするのに、撚り合わされることを経過する必要があります。金が打ち延ばされ、切られ、折りたたまれ、あるいは撚られることは、ある苦しみの過程を暗示しています。

この絵図は、キリストが突然天から地上へと下って来られて、彼の救い主としての身分を公開し、人に彼を信じさせるというものではないことを示しています。キリストの神聖な性質は手順を経なければなりません。それはちょうど、エポデを作るときの金が、打たれ、切られ、折られ、あるいは撚られたようにです。彼は神ですが、やはり人の方法にしたがって、処女マリアの胎の中に入りました。九か月の間、彼はその処女の胎の中で育ちました。そして彼はベツレヘムのかいおけの中で卑しい誕生をされました。ヘロデ王は彼の誕生を知ったとき、彼を殺そうとしました。

ですから、主の導きの下で、マリアの夫のヨセフは幼子を主の導きの下、エジプトに連れて行きました。ヘロデが死んだ後、ヨセフは彼と共にイスラエルに戻りましたが、あえてユダヤに留まりませんでした。ですから、彼は北へ、ガリラヤとして知られている軽べつされた地方に行かれました。その結果、主イエスは貧しい、ナザレの小さい村の貧しい家庭で育てられました。地上にて多くの人の生活の苦難を経験されました。

わたしたちの主は神ですが、彼は手順を経て人と成られました。神が人と一つと成りました。これら撚られ、細工された金の網細工、金の鎖は、主の神性が手順を経て、多くの苦難を経験し、彼の形を、麗しい金の糸、金の網細工、金の鎖としたことを表徴します。キリストの神聖な性質は、保持する力となり、麗しさと、栄光という方法でわたしたちという宝石を保持し、結び付け、結び合わせています。

苦難を受けたが、しかし麗しい人性
エポデは二つの肩当てとつながっています。肩当ては、八節で「エポデをしっかりと締めるための巧みに織った帯は、エポデの作りのように、金色と青色と紫色と緋色の撚り糸、また撚り合わせた細糸の亜麻布でなければならない」と言っています。これは肩当てとつながっているエポデは、金の糸と細糸の亜麻布で織られたことを示し、黄金色、純白、青色、紫色、緋色の五つの色を含んでいました。この金と亜麻布で作られた織物は、キリストが神性と人性で織られたものから成ることを描写しています。金と亜麻布の持つ五つの美しい色は、キリストの神性、人性、天的であること、王的であること、贖いをそれぞれ言っています。

旧約の絵図から、わたしたちは主イエスがどのようなお方であったか、また新約の中での明確な言葉の中には見いだせない、彼の尊い詳細を見ることができます。エポデはこれらの要素を含んでいます。キリストはその大いなる力でわたしたちを保持します。また力をもって彼ご自身へわたしたちを結び付けておられます。わたしたちは、その麗しさと栄光によって縛り付けられています。

柔らかく、そして堅固である
細糸の亜麻布は主の人の生活を表徴し、「撚る」は彼の苦難を示します。亜麻布の質は、綿花よりも強じんで、撚り合わされた細糸の亜麻布は、強いものでした。それは二本以上の糸が撚り合わされたものでした。ですから、強く、二重で、強められています。主イエスは非常に細やかでまた、堅固です。彼には粗野や、弱さの成分というものは全くありませんでした。彼の人性は、柔和で、細やかで、温和なものでした。彼には、喜んでいる時も(ヨハネによる福音書第十一章十五節)、また悲しんでいる時もありました(三五節)。彼はある時は、勇敢に悪人をしっせきしますが、粗野ではありませんでした(マタイによる福音書第二一章十二節―十三節二三節―三二節)。彼はやはり柔和で、細やかで、堅固で、人の地位に立って神の地上での権益を守られました。

天的である
エポデの紫色の線はキリストの天的であることを表徴しています。バプテスマのヨハネは、その霊が、はとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見たと証ししました。主ご自身も、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.天が開け、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」と言われました。(ヨハネによる福音書第一章五一節)。彼はニコデモに、彼が地上にいる時、彼は天にもいると言われました(三章十三節)。

キリストにあるものはどれも、青色で、天的です。茶色は泥またはちりの色です。キリストは地上におられましたが、彼には、いかなる茶色のものはありませんでした。彼は天を地上にもたらし、天をわたしたちに供給します。彼と接触する人は、地において、共に天にいるようです。

王的である
紫色は、キリストの王的であることを表徴します。主イエスは行なったすべてにおいて王的でした。彼は大工の家庭で成長した子供としてさえ、王的に振る舞いました。あなたは彼が十二歳の時、両親に語られた方法についての記事を読むとき、彼が王的な方法で語られたことを認識するでしょう。十二歳の小さな少年としてさえ、彼は王的に行動し語ることができました(ルカによる福音書第章二章四六節―五二節)。

あなたは四福音書の中で、主が言われたあらゆることで主が王であったことを見るでしょう。彼は彼の王職を装ったのではありません。それは自然に現されました。主イエスは宮にいる人たちに対して怒り、縄のむちを作って彼らを追い出したとき、王的な方法で怒ったのです(ヨハネによる福音書第章二章十五節―十六節)。さらに、彼はラザロの墓で泣いたとき、王的に泣かれました(ヨハネによる福音書第十一章三五節)。主の泣くことにおいてさえ、主の王職が現されました。

贖い
緋色は、キリストが血を流されることを通してご自身をささげ物としてささげることによって完成された贖いを表徴します。地上における生涯を通して、主イエスは贖いの方法で行動されました。例えば、彼は群衆について「あなたがたが彼らに何か食べる物を与えなさい」と弟子たちに言った時、赤色、贖いの色を現されました(マタイによる福音書第十四章十六節)。主は人々が飢えたままで行くのを見たくなかったのです。五つのパンと二匹の魚を祝福して裂かれ、すべての人が食べ、満足しました。これは彼が、わたしたちのために体を捨て、裂き、わたしたちを贖われるということを暗示しています。

また、主イエスは、十八年間、病の霊にとりつかれ、サタンに縛られている女を、贖いの力によって解放し、サタンの束縛から解放し、彼女の腰を真っ直ぐに起き上がらせました。主が安息日に病をいやされたことに怒った者もいましたが、この批判した者たちに対して、彼はこの女がこれ以上サタンに縛られていることを願わないと言われました(ルカによる福音書第十三章十一節―十六節)。このことは、主の贖いが、神の子どもたちのためにサタンを攻撃し、悪鬼を追い出し、罪の勢力を消し去ることを表明しています。

神性と人性が共に織られる
過去あなたは、キリストの二つの性質に関してどのように理解していたでしょうか? あなたは、神性と人性が一緒にされていることについて、考えたことがありましたか? キリストの二つの性質がどのように一緒にされていたかについて、かつて考えたことがあるでしょうか? この二つの性質は彼の内側で相並んでいたのでしょうか? それともキリストの神聖な性質が、ある方法で彼の人の性質を囲んでいたのでしょうか? 多くのクリスチャンは、金が亜麻布で包まれているように、キリストの神聖な性質が彼の人の性質に加えられたという観念を持っています。亜麻布の材料は単に、共に重ねられ、共につながれ、あるいは共に結合されたのではありません。わたしたちの主の二つの性質、すなわち神性と人性は共に織られました。

主イエスはエポデの金と亜麻布で描写されています。彼の神性は手順を経て、彼の人性もまた異なった手順を経ました。主の神性と人性は共に織られ、一つの織物となりました。これは主イエスのパースンを描写しています。なんと不思議ですばらしいことでしょう!

キリストに結び付く
出エジプト記第二八章九節と十節は言います、「あなたは二つの縞めのうを取って、その上にイスラエルの子たちの名を彫らなければならない.すなわち、その六つの名を一つの石に、残りの六つの名をもう一つの石に、彼らの生まれた順に彫らなければならない」。イスラエルの子たちの名が彫られた二つの縞めのうは、神に贖われたすべての民を表徴しています。十二節は続けて言います、「そして、その二つの石をエポデの肩当てに付けて、イスラエルの子たちの記念の石としなければならない。アロンはエホバの御前で彼らの名を両肩に担い、記念としなければならない」。この二つの肩当ては、前面と背面とをつなぎ合わせていました。ですから、肩当てには結合する能力、つなげる力があります。このことは、神の贖われた民がキリストの肩の上にあることを表徴しています。エポデは神聖な栄光と人性の麗しさがつなぎ合わされたものです。わたしたちは、このエポデの上の宝石であり、またキリストによって保持されています。それはちょうど金の金網細工の中にはめ込まれた宝石と同じです。

あなたは、救われた日から、キリストによって保持されてきました。しかしながら、あなたは何があなたを絶えず保持してきたかを知っているでしょうか? ヨハネによる福音書第十章二八節から二九節は言います、「わたしは彼らに永遠の命を与える.彼らは決して永遠に滅びることはない.まただれもわたしの手から、彼らを奪い去りはしない。彼らをわたしに与えられたわたしの父は、すべてのものより偉大である.だれも、わたしの父の手から、彼らを奪い去ることはできない」。ここに信者を保持する二つの手、すなわち御子キリストの手と御父の手があります。これらの手は力また愛を表徴しますが、神聖な栄光と人性の麗しさを示していません。肩当てと胸当てが、エポデに結び付けられた絵によれば、わたしたちは、羊が彼の両肩に担がれたようにではなく、二つの縞めのうのように、彼の両肩の上に、神聖な栄光と人性の麗しさによって保持されています。

わたしたちはキリストにつながっている必要があります。また神の御前で永遠の記念としてキリストに保持されている必要があります。わたしたちがキリストの神聖な栄光と人性の麗しさを知る時に、自然と彼につながります。わたしたちは、彼を信じようと試みる必要はありません。つながる力というのは、わたしたちの信じることから出てくるのではなく、それは彼ご自身の存在、また彼が持っておられるものから出てくるものです。主は神聖な栄光と人性の麗しさを持っておられます。彼は栄光であり、また麗しさでもあります。わたしたちが、彼のことを思い、また彼に注意するたびに、経験の中で実際に彼とつながります。わたしたちは、何か努力して彼を信じようとしたり、彼に頼ろうとしたりする必要はありません。なぜなら、わたしたちはすでに、彼において束ねられているからです。今日、わたしたちは、このことを経験し享受することができます。聖霊がわたしたちに語られ、わたしたちが励ましを受け、キリストが召会―神の贖われた民を保持しますように。この記念は継続し永遠へと至ります。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第1期第2巻より引用