良き地――すべてを含むキリスト

真理

エゼキエル書にある四十八の章のその結論というのは、神が聖なる地において、宮と都を得るということです。宮と都が存在するには、聖なる地がなければなりません。地というのは人が生活し、住み、享受し、また建造する基礎となるものです。わたしたち新約の信者から言えば、この地はキリストを指しています。神はこのキリストという方をわたしたちに与えてくださり、わたしたちの享受とし、わたしたちを彼の中で生きさせ、彼の中に住まわせ、彼の中で行動させ、建造し神の住まいとされます。わたしたちはどのようにこの地を適用し、経験すべきでしょうか?

聖書創世記第一章の神の回復の創造の中で、第三日目になる前、全地はまだ水で深く覆われていて、生き物が生息できる場所がありませんでした。深く覆っていた水は死を象徴しています。神は地に生き物を生み出させ、死の水を引かせて、死の水の中から地が現れるようにされました。これらの事が起こったのは第三日目でした。主イエスが三日目に死から復活されたので、聖書では、地は復活のキリストを象徴しています。キリストは死から復活され、霊的な地となられ、各種の命を生み出されました。このことは、すべての霊的な命が、死から復活したキリストから出ていることを表徴しています。

神が回復したこの地は、人が罪を犯し続けた結果、悪くなったので、洪水によって滅ぼされました。洪水が去った後に、ノアの一家、八人は箱船から出て、再び新しい地で生活することができました。しかし、新しい地の人はバベルの塔を築き、完全に神に背きました。ですから神はアブラハムを召して、彼をカナンの地へともたらし、そこに住むようにさせることを約束されました。これが聖なる地の始まりです。聖書の中で、この地は何回も「良き地」と呼ばれています。またその中で一度だけ「全くすばらしい良い地」と呼ばれています(民数記第十四章七節)。そこには多くの面の良さがあり、広く、高く、測り知れない豊富がありました。この地の水は豊かでした。また豊かな食物があり、鉱物がありました。すべての豊富は、キリストがすべてを含むことの予表です。

「そこは水の流れ、泉、源泉があり、谷間と山々に流れている地であり」(申命記第八章七節)
申命記での水を説明する用語にはそれぞれ違いがあります。水の流れ(川)と泉、源泉の違いは何でしょうか? 例えば、わたしたちが一つの井戸を持っているとします。井戸の底には必ず「源泉」があります。水は水源から出てきて井戸を満たします。そしてその井戸が「泉」となります。そして流れ出てきた水が「水の流れ(川)」となります。これらの水というのは、キリストの命の各種類の違った供給を予表しています。主は言われました、「わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである」(ヨハネによる福音書第四章十四節)。これは、主が与える水がわたしたちの内側(源泉)で、井戸、泉となることを言っています。主はまた言われました、「わたしの中へと信じる者は……その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」(第七章三八節)。キリストの命がわたしたちの供給となるのは、この各種の異なる水と同じようなものです。

あなたの経験から考えてみてください。多くの時にあなたは渇きました(身体的な渇きではなく、霊的な渇き)。あなたが渇いて、主の前に来て、主に触れたとき、とてもさわやかで、潤いある感覚を内側に持ったことでしょう。あなたに与えられたこの水は、どのような物質の飲み物もこの水よりさわやかです。あなたが主に多く触れれば触れるほど、時々刻々と主に触れるようになり、あなたは潤いを感じるだけでなく、あなたの中から一筋の水の流れが出てくるのを感じるでしょう。この時にあなたがある兄弟に会うなら、あなたは「ハレルヤ!」と言うでしょう。これが水の流れがあなたの中から出てきたということです。そしてあなたが集会に来るときには、歌いながら、さわやかに来て、すぐに賛美と祈りをささげます。それは生ける水が流れているようです。すべての兄弟姉妹があなたの祈りによって潤されます。そしてあなたは彼らに言います、「わたしの中に泉があるだけでなく、深い源泉があります! 水で満たされていて、その水を流し出すことができます!」。

「小麦と大麦とぶどうといちじくの木とざくろのある地、油のオリブの木と蜜のある地」(申命記第八章八節)
申命記第八章ではこのような順序があります。まず、各種の水があります。そして各種の食べ物があります。主はヨハネによる福音書の中で、わたしたちに生ける水を与えると言われました。同じ福音書の中で、彼はまた、彼が天から来た命の糧であると言われました(第六章三三節三五節)。食物と飲み物はいつも一緒にされています。あなたは今、この順序の意義がはっきりと理解できたと思います。このすべての食べ物はキリストを予表しています。しかしこれらはキリストのどの面を予表しているのでしょうか? わたしたちは続けて詳細に見ていく必要があります。

小麦と大麦
ヨハネによる福音書第十二章二四節はわたしたちに言っています。主は一粒の麦として地に落ちて死なれ、埋葬されました。小麦はこの肉体となられたキリスト、死なれたキリスト、また埋葬されたキリストを予表しています。大麦は復活のキリストを予表しています。わたしたちはどのようにこのことを証明できますか? カナンの地においては大麦が先に成熟します。レビ記第二三章十節で主は言われました、「イスラエルの子たちに語って言いなさい、『あなたがたは、わたしがあなたがたに与えようとしている地に入り、その収穫物を刈り取るとき、収穫物の初穂の束を、祭司の所に持って来なければならない』」。初穂の収穫物が表しているのは大麦のことです。またコリント人への第一の手紙第十五章二〇節はわたしたちに告げています、「ところが今や、キリストは死人の中から復活させられて、眠りについた人たちの初穂となられました」。初穂の収穫物は復活の初穂としてのキリストを予表しています。主イエスが五千人を養われた時に、彼は五つの大麦で作られたパンを彼らに与え食べさせました。これらのパンは小麦で作られたものではなく、大麦で作られたものでした。それは五千人を満腹させ、さらにそのかけらの残ったものは十二の手かごいっぱいになりました。これが復活です。

肉体と成られたキリスト、キリストは小麦であり、小さなナザレ人で、貧しい大工でしたが、彼が復活の中へと入られた時、彼は大麦であり、彼は無限であり、時間も空間も物質もすべて、彼を制限することはできませんでした。たった五つのパンでしたが、事実上は無数のパンでした。それは五千人が満腹し、その残りのかけらは十二の手かごを満たすものであり、もとの五つのパンよりも多いものでした。

ぶどうの木
士師記第九章十三節でぶどうの木は言いました、「わたしは、神と人を活気づけるわたしの新しいぶどう酒を捨て置き」。これは自分のすべてをささげられたキリストを、また彼ご自身をささげられたことが、新しいぶどう酒を生み出し、神と人を喜ばせることを描写しています。そして、ぶどうが神と人を活気づけるぶどう酒となるには、圧搾され、砕かれることを経過しなければなりません。あるときは、主の主権により、わたしたちはある環境の中へと置かれ、他の人を喜ばせ、また神を喜ばせるために、わたしたち自身を犠牲とすることを必要とされます。しかしただキリストの命だけが、犠牲の命です。わたしたちが、このぶどうの木としてのキリストに触れ、彼を犠牲の命として経験することで、彼はわたしたちに力を与えられ、わたしたちが神のために、また人のために犠牲となることができるようにされます。この経験によって、わたしたちはぶどうの木となり、人と神を喜ばせるものを生み出す者となることができるのです。わたしたちと接触するすべての人が、わたしたちのゆえに喜びを感じ、そうしてわたしたちはまた、神にも喜びをもたらすことができるのです。

いちじくの木
士師記第九章十一節では、いちじくの木は甘さと良い実を表しています。いちじくは、キリストの甘さとわたしたちを満たす供給としてのキリストを言っています。経験からわたしたちは、わたしたちがキリストを小麦、大麦、ぶどう酒として享受すればするほど、キリストの甘さと満たしを経験します。

何年か前に、ある若い女性が病の中で恵みを受け、主を信じました。しかしながらその時に、彼女の夫が亡くなりました。彼女の家は彼女に非常に敵対し、彼女が集会に参加すればするほど、彼女のしゅうとめは彼女を打ち、迫害しました。彼女は一つの酒ぶねから出てくると、また別の酒ぶねの中へと入れられるようでした。そのような重圧の下で、彼女の霊的な命の成長はとても速いものでした。ある日、彼女が集会後に詩歌を歌いながら家に戻ったとき、彼女のしゅうとめの怒りを買い、また彼女は打たれました。この姉妹は自分の部屋へと入り、鍵をかけて、詩歌を歌い主を賛美し、大きな声で祈りました、「おお主よ、あなたを賛美します。わたしは真に喜んでいます。わたしのしゅうとめを赦してください! 彼女を救ってください。主よ、彼女を救ってください。彼女に光を与えてください。わたしが得た喜びを彼女にも与えてください! 主よ、彼女を祝福してください!」。このような純粋な言葉で祈った祈りは、彼女のしゅうとめを驚かせました。そして彼女に聞きました、「娘よ、あなたはどうしたのですか? あなたを打ちたたいたのに、なぜわたしのために祈り、あなたの神にわたしを祝福し、喜びを与えるように祈るのですか? これはいったいどういうことなのですか?」。その姉妹は答えて言いました、「母よ、キリストはわたしを満足させてくださいました。わたしの心の中は甘さで満ちています。母よ、あなたはご存知ですか? あなたが打てば打つほど、わたしはさらに甘さと満足を感じているのです」。これはキリストをいちじくの木として経験したことです。わたしたちは圧迫されればされるほど、それはわたしたちに主の甘さと彼の満足を経験させるのです。

ざくろの木
ざくろの木はキリストの命の豊かさと美しさを予表しています。あなたが、キリストを小麦、大麦、ぶどうの木、いちじくの木として経験するときに、キリストの美しさがあなたにあり、キリストの命の豊かさが、あなたから表し出されます。これがキリストをいちじくの木として経験することです。もしあなたがキリストを復活した方として経験するなら、彼の復活の力によってイエスの地上での生活を生かし出し、各種の圧迫、迫害、困難や衝突を忍耐し、キリストの甘さと満足があなたの中にあることを経験します。そしてまた命の美しさと豊かさを他の人に現し出します。

オリブの木
オリブの木はオリブ油を産出する木です。ゼカリヤ書第四章は、二本のオリブの木と二人の油の子について言っています。それはその時の大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルが神の宮の再建のために、エホバの霊で満たされたことを表徴しています(十一節、十四節)。キリストがそのオリブの木です(ローマ人への手紙第十一章十七節)。彼は神の聖霊で油塗られた方です。士師記第九章九節はわたしたちに言っています。オリブの木が生み出す油は、神と人を尊ぶためです。これはその霊によって歩む者は神を尊ぶことを表徴し(ガラテヤ人への手紙第五章十六節二五節)、それらのその霊を供給する者は人を重んじます(コリント人への第二の手紙第三章六節)。わたしたちが主に仕え、人を助けたいなら、必ず聖霊によって行なわなければなりません。わたしたちは聖霊で満たされた人でなければなりません。一本のオリブの木であり、油の子でなければなりません。そうでなければ、主に仕え、人を助けることはできません。わたしたちがもし、キリストを小麦、大麦、ぶどうの木、いちじくの木、またざくろの木として享受するなら、油を持つようになり、わたしたちは必ず聖霊で満たされ、真の神と人を尊ぶことができるようになります。これがキリストをオリブの木として経験することです。

「その地はまことに乳と蜜が流れています」(民数記第十三章二七節)
霊的な命の第一段階は、わたしたちがキリストを生ける水として経験することです。生ける水の流れに伴って、命のパンがあり、命の食物があるようになります。これらの食物は、わたしたちをある種類の円熟へ、キリストに対する経験が、乳と蜜のように、そんなにも豊富で甘い経験へもたらします。この二つのものはどのような特別なものなのでしょうか? 蜜はすべての植物の命のエッセンスです。乳はすべての動物の命のエッセンスです。植物の命は主イエス・キリストの生み出すことと繁殖することを表しています。人が罪を犯し堕落する前に、神が人に定められた食物は植物界のものであって、動物界のものではありませんでした。人が罪を犯し堕落した後に、彼の食物の中に、血を流す命のものがなければならなくなりました。ですから、動物の命はキリストの贖う命、犠牲の命を予表します。これが主の命の両面です。

申命記第八章八節において、蜜は植物と一緒に置かれています。また第三二章十四節では、乳は動物の命と一緒に記載されています。なぜなら、蜜の多くは花と樹木から出てくるので、植物の命と関連づけられているからです。もちろん一部分の動物の命、蜜蜂とも関連があります。わたしたちには花も必要であり、また蜜蜂も必要です。この二つのものがお互いに協力し合い、二つの命が混ぜ合わされて、蜜が生み出されます。乳の大部分も動物の命からのものです。しかし実際には動物と植物の二種類の命の産物です。もし草がなければ、わたしたちに牛や羊がいたとしても、乳を得ることはできません。乳と蜜によって、わたしたちは二つの命の混ざり合いを享受します。乳と蜜はすべての食物の供給のエッセンスです。主のすばらしさ、甘さ、豊かさ、滋養、それらはまさに乳と蜜のようです。特に、あなたが霊の中で弱いとき、あなたは主の御前に来て、彼を経験し、適用するなら、あなたは彼が乳と蜜であるということを感じます。

「その地の石は鉄であって、その山々からは銅を掘り出すことができる」(申命記第八章九節)
都と宮は良き地の上に建造されました。また良き地は都と宮の材料である石や、鉄、銅を産出しました。これらの鉱物は、キリストの命の中の要素であり、あるものは神の建造の材料であり、またあるものは霊的戦いの武器であることを表しています。これらはすべてキリストの命の豊かさです。その地の豊かさは第一には水におけるものであり、第二は各種の植物と樹木におけるものであり、第三には牛と羊におけるものであり、第四には鉱物におけるものです。このすべての豊富はわたしたちの霊的な命の各段階と符合します。

神の建造には石、鉄、銅が必要です。なぜなら、石、鉄あるいは銅、これらの鉱物だけが戦うための武器を作り出すことができるからです。エペソ人への手紙第六章で、銅と鉄を用いて霊的な武具、かぶと、胸当て、盾、剣などを作る必要があることを見ます。鉄と銅はキリストのどのような要素を表しているのでしょうか? 聖書は、キリストは鉄の杖で、すべての諸国民を牧養すると言っています(啓示録第十二章五節)。ですから、鉄はキリストの権威を表しています。銅はキリストの裁きを表します。彼が地上におられたときに、各種のテストを通過され、あらゆる試練を経過され、彼の足は、炉で精錬された輝く青銅のようでした(啓示録第一章十五節)。わたしたちはキリストの豊かな享受を持ち、このような経験へともたらされ、神の建造のために霊的な戦いを戦うことができるようになる必要があります。

わたしたちがキリストの中で赤子のままで、生ける水に渇いているなら、神の建造はわたしたちの間にはありません。わたしたちは成長する必要があります。キリストを経験して円熟する必要があります。わたしたちは石であるべきです。主が生ける石であったように、わたしたちもまた生ける石であるべきです。そうであってこそ、彼の住まいを建造する材料となることができます。多くの兄弟姉妹の思いはまだ新しくされず、造り変えられていません。まだ天然のままです。まだ土くれのような頭です。思いが新しくされることによって、わたしたちは土くれから石へと造り変えられます。石へと造り変えられた後に、わたしたちは続けて焼かれ、圧力がかけられ、さらに造り変えられ、普通の石から宝石へと造り変えられる必要があります。これはわたしたちの良き地に対しての享受が、最も完全に満ちた結果です。新エルサレムの中で、土を見ることはなく、また普通の石も見ることはなく、どれもが宝石です。この中に神の宮と神の王国があります。この中で宮が建造され、神の王国が建て上げられます。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第2巻より引用

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