神は人が神のために語ることを願われる

真理

モーセは民数記第十一章二九節で言っています、「エホバの民がみな預言者とな……るとよいのに!」。パウロはコリント人への第一の手紙第十四章三一節で言っています、「あなたがたはみな一人ずつ預言することができるからで……す」。この二箇所の聖書から見ることができることは、旧新聖書には一貫した概念があり、それは神が彼の民に神のために語ることを願っておられるということです。

神は言である
ヨハネによる福音書第一章一節は言っています、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。ここの「初めに」は、初めのない過去の永遠を示していて、時間が始まる前のことです。初めに言があったとは、過去の始まりのない永遠において、「言」があり、この「言」は永遠であり、かつ時間を超越しています。しかも、この「言」は初めに神と共にあり、この言は神と分離しておらず、言はいつも神と共にありました。神もまたいつも言の中におられて、言はいまだ神と分離したことがなく、この言は絶えず神と共にありました。言が来る時、神も来られました。言があるところに、神もおられました。一節の後半は、「言は神であった」と言っています。ギリシャ語原文では、「神は言であった」です。「言は神であった」であれ、あるいは「神は言であった」であれ、実はみな一つです。わたしたちが、陳さんは陳兄弟ですと言っても、陳兄弟は陳さんですと言っても、何の違いもありません。なぜなら両方とも一人の人を指しているからです。「言は神であった」は、この「言」があまりにも大きいことを表明します。この「言」は神であったとは、この言と神が一であることを説明します。この一章の前後の文章から、この「言」はキリストを指していることを見ることができます。彼は過去の永遠から神と共にあり、しかも彼は神ご自身でもありました(十四節)。

宇宙において、神は奥義的です。なぜなら人は神を見ることができないし、神に触れることもできないからです。キリストはこの「言」として来て、神の定義、説明、表現として、この奥義的な神を人に了解させ、認識させて親しむようにされました。もし人が奥義的に現れたいなら、最上の方法は黙っていることです。しかしながら、人が語るなら、その人の内側深くにあるすべてのものが、その言葉によって表されます。これが言の意義です。神は奥義ですが、神の言としてのキリストは、神を定義し、説明し、表現します。ですから、この言は神の定義、説明、表現です。最終的に、この言は神ご自身であり、覆われ、隠された、奥義的な神ではなく、定義され、説明され、表現された神です。この言はもはや見えない神ではなく、見ることができる神です。

神は語られる
神は言であるだけでなく、神はまた語られます。神がもし語られないなら、神は言ではありません。ですから、神は言であり、その結果、神は語られるのです。それは言葉の務めを行なっている人の働きが、言葉の働きであるのと同じです。というのは、彼は年月を重ねて、絶えず人々に語ってきたからです。主イエスは、かつてピリポに言われました、「わたしが父の中におり、父がわたしの中におられ……わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない。わたしの中に住んでいる父が、ご自分のわざを行なっておられるのである」(十四・十)。これがわたしたちに見せているのは、主イエスが語られたのは、神がそこでわざをなさっていることです。言い換えると、主が語られたことは、神が語られたことです。主と神の両者は一でした。

ヘブル人への手紙も、神は語られる神であると告げています。神は、昔語られただけでなく、今に至ってもなお語っておられます。昔は預言者たちを通して、わたしたちの父祖たちに語られましたが、今日、神は彼の御子キリストの中で、すなわち神ご自身の中で、またわたしたちの中で、わたしたちに対して語られます(一・一―二)。

語ることは物事を、大きな事柄をさえ起こすことができます。この世の人が商売をする時、成功するか否かは、かなり彼らが語ることができるかどうかによります。今日販売員は出て行く前に、語ることで教えられ訓練されなければなりません。語ることができるなら商売は成り立ちますが、語ることが不適切であったり不十分であったりすると、商売になりません。時には語り過ぎても失敗するでしょう。ですから、成功する販売員は、みなとても語ることができて、しかもどのように語るかをよく知っている人です。実は、人の社会におけるやりとりは、すべて語ることにかかっており、その語りかけは妥当で適切でなければなりません。したがって、語ることは確かに何事かを起こし、その上事柄の成功失敗に大きな影響を及ぼすでしょう。

今日、主のための働きも語ることによります。適切に語るなら、人は救われます。語ることが貧弱なら、人は福音を理解しません。語ることが適切なら、人は成就されます。語ることが貧弱なら、わたしたちの働きは無駄になります。「言葉は国を興すことができるし、言葉は国を倒すこともできる」という中国のことわざがあります。国家の盛衰は、みな人の語ることによるという意味です。わたしたちはみな、神による天地創造は偉大なみわざであったことを認めます。しかし、この大きなみわざは、語ることによって生み出され、成し遂げられたのです。創世記第一章三節は、「神は言われた、『光あれ』。すると光があった」と言っています。神が「あれ」と語られると、そのものがありました。それゆえ、詩篇の作者は詩篇の中で神を賛美して言いました、「まことに、彼が語られると、それはあった。彼が命じられると、それは立った」(三三・九)。もし神が今まで何も語られなかったなら、万物は存在することができませんでした。わたしたちの存在でさえ、大いに神の語りかけによるのです。主イエスはかつて言われました、「わたしの言を聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠の命を持っており」(ヨハネ五・二四)。ですから、人が救われること、永遠の命を持つことは、全く主の言葉によるのです。

神は人が神のために語ることを願われる
神は語る神です。語ることによって、神は天地を創造され、すべての事を行なわれます。ですから、救われて神の命を持っている人はだれでも、神のために語り、神の言葉を語ることを学ぶべきです。

人は神のかたちに造られた
神は聖書の中で、わたしたちにはっきり見せていますが、神が人を創造された目的は、人が神のために語ることです。創世記第一章二六節で、「神は言われた、『われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって人を造ろう……』」と言っています。内なる命を重んじる人たちによれば、この節の「かたち」は、外側の形状ではなく、神が何であるかという特質を指しています。わたしたちがもし神が賜わった律法(出二〇・三―十七)を注意深く学ぶなら、これらの律法の重要な内容は、愛、光、聖、義の四つの項目であり、これらが神は何であるかの重要な属性であることを発見するでしょう。神はまた神が何であるかのこれらの属性にしたがって人を創造されました。ですから、創造された人の性質の中にも、これらの美徳があります。わたしたちは腐敗し堕落した人であり、多くの邪悪を表現する者ですが、わたしたちの性質の深いところには、愛の心、明るさ、高尚さ、義、人に敬われ、聖別された人になりたいという願いがあります。これはわたしたちに見せていますが、わたしたち創造された人の中には、確かに神が何であるかの特性があります。

神が人を造られた時のもう一つの特別な事柄は、神は語る神であるので、神が人をご自身のかたちに造られた時、神は人をご自身のように語る能力のあるものに造られたことです。語るというこの事の上でも、わたしたちは神を代表し、神のかたちを持ちます。創世記第一章二六節によれば、神はわたしたちをご自身のかたちに造られただけでなく、わたしたちが神のために権威を持ち、すべての被造物を支配するように造られたのです。わたしたちは神を代表し、支配しなければなりませんが、そのために最も重要なことは語ることです。もし人がだれかをわたしたちの所に遣わしても、この代行が口がきけなくて話すことができないなら、この代行は無用です。今日わたしたちが神を代表することができるのは、語ることができるからです。わたしたちか語ることができるのは、神のようであるからです。

神が人を造られた最も特別な二つの点がありますが、一つは神が人に霊を造られたことです。もう一つは神が語る器官を備えた人を造られたことです。この語る器官は単純ではありません。語るためには、声帯、舌、歯、口、唇などのすべてが必要です。ある人は、それらはみなおもに御飯を食べるため、水を飲むためであると言うでしょう。しかしどうか考えてみてください。人は一日に何回食べたり飲んだりするでしょう? 実は、人が一日の内で最も多く繰り返すのは呼吸です。人は絶え間なく呼吸しています。聖書の中で、語ることと呼吸することは結びついています。テモテへの第二の手紙第三章十六節は言っています、「聖書はすべて、神の息吹かれたものであり」。これは神の語りかけが神の息吹くことと結びついていることを意味しています。呼吸することと語ることは一つになっているので、語る時、人は自然に呼吸しています。神の創造において、語り呼吸することができる被造物は他にありません。人類だけが、語り呼吸することができます。テモテへの第二の手紙第三章十六節によれば、わたしたち人は神が語るように語ります。わたしたちの語る器官全体はとても奥義的で、全面的に神が造られたのです。わたしたちが語ることができるように、神はこのような器官を備えたものとして人を造られました。

神は、昔は多くの部分において、多くの方法で、預言者たちを通して、父祖たちに語られました(ヘブル一・一)。これらの日々の終わりには、御子の中でわたしたちに語られました(二節前半)。わたしたちはみな御子のからだのすべての肢体ですから、わたしたちが人に語ることは、御子の中で語ることです。わたしたちが出て行って福音を宣べ伝える時、御子の中で語るのです。

再生され、救われた人は、
神のために預言することができる
神は、ご自身のように語ることができるように、人を創造されました。しかし、神が語る能力を持った人を造られた時、人にどのようなことを語って欲しかったのかをわたしたちは知らなければなりません。ただ単に人の言葉を語って欲しかったのでしょうか? だれかを代行するなら、その人の言葉を語るべきです。神の代行として、わたしたちは神を代行します。したがって、当然神の言葉を語るべきです。わたしたちは神のために語らなければなりませんし、神を語り出さなければなりません。この神は言葉です。わたしたち救われた人は、霊の中で再生された後は神の子供ですから、口を開けば神の言葉を語るべきです。神が何を語りたいのか、わたしたちもそれを語るのです。人が中国人から生まれたら、中国語を語るのと同じように、わたしたちは、わたしたちを生んだ人の言葉を語ります。アジアの人たちは見かけは大差ないので、どうやって彼らを区別するのでしょう? それは彼らの言語を聞くことによります。ひとたび彼らが語り始めると、その人が中国人か韓国人かがわかります。わたしたちは神から生まれたのですから、自然に神の言葉を語ります。神の言葉は神ご自身ですから、わたしたちが神の言葉を語る時、神を語ります。

新約聖書は、神はわたしたち救われた者たちがみな預言者として語ることを願っておられるということを見せています(Ⅰコリント十四・三一)。預言者として語ることは、神の言葉を語ることであり、神の言葉は神ご自身です。このことに関して、新約のパウロと旧約のモーセは一致しています(民十一・二九)。パウロはコリント人への第一の手紙第十四章三一節で言いました、「あなたがたはみな一人ずつ預言することができる」。ここの「できる」という言葉には、聖書の翻訳に二つの解釈があります。中国語聖書では「預言してよい」と翻訳しており、それはだれでも預言する権利があって預言してよいが、必ずしもその能力を持っているとは限らないという意味です。ギリシャ語原文の意味には、「してよい」と「できる」の両方があります。今日わたしたち救われた人は、預言者として語ってよいだけでなく、神のために預言して語ることができます。

わたしたちはみな堕落していた者たちですが、いったん再生されて霊が生かされると、神のために語る「能力」は何倍にもなり、アダムよりもずっとできるようになります。アダムは創造されただけで、再生されませんでした。わたしたちは造られて堕落はしましたが、再生されて救われました。ヨハネによる福音書第一章は言っています、「しかし、すべて彼を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者に、彼は神の子供たちとなる権威を与えられた.これらの人は……神から生まれたのである」(十二―十三節)。わたしたちは神から生まれたので、自然に神の言葉を語ることができます。もし子供が人から生まれて口がきけるのであれば、人の言葉を語らないのは不可能です。ですから、わたしたちは再生された後に、励まされて神の言葉を語る必要があります。人はみな神の言葉を語ることができます。

モーセが二百万人のイスラエル人を導いて、荒野を通過しカナンの地に入ろうとしていた時、これらの人たちは絶え間なくつぶやいて、問題を起こしていたので、モーセは実に自分では担い切れないと感じました。神はモーセに、民の長老たちのうちから、七十人を集めさせて、彼らを天幕の周りに立たせられました。七十人のうち六十八人は天幕に来て、その六十八人はモーセの上にあった霊を受けて、みな預言し始めました。一緒に来ないで営所にとどまっていた残りの二人も、彼ら自身の営所の中で預言しました。ある人がモーセにこのことを告げると、これを聞いたモーセの従者ヨシュアはうれしく思わないで、彼らをやめさせるようモーセに求めました(民十一・一―二八)。しかしモーセはすぐにヨシュアに言いました、「あなたはわたしのためにねたみを起こしているのか? ああ、エホバの民がみな預言者となり、エホバが彼らの上にご自身の霊を与えてくださるとよいのに!」(二九節)。これはわたしたちに、パウロがコリント人への第一の手紙第十四章三一節で、そのように見ていたことを見せています。この観念は、恐らくモーセから来たのでしょう。なぜなら、パウロは民数記第十一章二九節でモーセが語った言葉を熟知していたに違いないからです。これから見るように、旧新約聖書には、一貫した概念があり、それは、神は彼の民が神のために語ることを願っておられるということです。

神はご自身の表現のために
人が神の言葉を語ることを願われる
今日あるクリスチャンたちは、人は語ることによってではなく、振る舞いによって神を表現できるとしています。言い換えるなら、良い証し、良い生活、良い振る舞いがあれば、人の前で神を表現することができるとしています。これは間違っていませんし、確かなものでしょう。しかし、わたしたちは神のために語ることを避けることができません。語ることは置き換えられません。語ることこそ、真に表現することです。もし説教者が清潔な衣服を着て、髪をきちんと整えて、講壇に立ち、親切で礼儀正しく、人々に立派に振る舞っているという感じを与えるとします。しかし、彼が二時間立ったままで、何も語らないなら、会衆は満足しないでしょうし、彼も何ら表現することができません。ですから、わたしたちが神を表現しようとするなら、良好な生活を必要とするだけでなく、さらに神のためにはっきりと語ることができなければなりません。

神は人に彼を表現して欲しいのですが、それはおもに語ることを通してです。しかしながら、わたしたちはどのように神のために語るべきでしょうか?まず、神の言葉を学び、理解してはじめて神のために語ることができます(Ⅰテモテ二・四)。次に、わたしたちはキリストの言をわたしたちの内に豊かに住まわせて(コロサイ三・十六)、内側に神の生ける即時的な言葉があるようにします。しかも、わたしたちは神の義の言に熟練して経験しなければなりません(ヘブル五・十三―十四)。必要となった時、神のために語るべき言葉があるのです。このほかに、パウロは言っていますが、時が良くても悪くても、福音を宣べ伝え、神のために語りなさい(Ⅱテモテ四・二)。
今日全世界はみな霊的に乾いた状況にあり、地はあまねく神の言葉に欠けており、神の真理に欠けています。もし、伝道者が来てメッセージして供給することだけに頼るなら、とても限界があり、また制限を受けます。わたしたちが今日必要としているのは、すべての聖徒がみな神の言葉を語ることです。もし、すべての人がみな神のために語るなら、神の言は必ず大いに成長して、増し加わり、かつ勝利を得ます(使徒六・七十二・二四十九・二〇)。神もまた必ずこのことによって栄光なる表現を得られます。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第2巻より引用