律法と恵み

真理

申命記第二一章二二節と二三節は、キリストが木にかけられ、のろわれた者になると予言しています。のろいは神の律法、つまり人に対する神の義の要求と関係しています。パウロは言います、「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ三・十三)。それゆえ、わたしたち信者は、「律法の下にではなく、恵みの下にいるからです」(ローマ六・十四)。

律法と恵みは、聖書における二つの大きな事柄です。もしわたしたちが神を知り、神がどのようにして人を取り扱われるかを知りたいなら、律法と恵みを知らなければなりません。わたしたちは、この二つの性質、源、手段、目的、および原則を簡単に調べ、比較していきます。

律法

律法とは何か――律法の性質
ローマ人への手紙第七章十二節は言います、「律法は聖であり、また戒めも聖であり、義であり、善です」。律法は神によって与えられました。それは神からのものであり、神の聖なる性質に一致しています。ですから、それは聖です。また、神の義と善にも一致しています。ですから、「律法は良いもの」です(Ⅰテモテ一・八)。またローマ人への手紙第七章十四節は言います、「律法は霊なるものである」。神は霊であり、律法は神から出ているので、霊なるものでもあります。

律法はいつから与えられたのか――律法の源
律法は、モーセがイスラエル人をシナイ山にもたらしたときに、モーセを通して与えられました。モーセ以前には律法はありませんでした。神はアダムの時代からモーセの時代まで、約二五〇〇年もの間、律法を用いて人を取り扱いませんでした(ローマ五・十三―十四)。アダムの時代の後、人は何度も堕落を繰り返し、最終的に神に対し反逆したにもかかわらず、神は反逆的な人からアブラハムを召し、恵みにしたがって彼を取り扱うことによって、彼を祝福することを約束されました(創十二・一―五)。このことからもわかるように、人に対する神の当初の願いは、約束を通して人に恵みを与えることでした。

ローマ人への手紙第五章二〇節は、「律法が入り込んできた」と、わたしたちに告げています。この節によれば、律法は神の当初の願いにしたがったものではなく、後から入り込んできたのです、すなわち、途中から付け加えられたのです。律法は神がアブラハムに約束された、「四三〇年後に来た」(ガラテヤ三・十七)のです。これは神が途中で、一時的な手段として律法を付け加えられ、一時的に律法にしたがって人を取り扱うことを示しています。

律法はどのようにして与えられたのか
――律法を与える手段
「律法はモーセを通して与えられた」(ヨハネ一・十七)。また、「御使いたちを通して、一人の仲介者の手によって定められたのです」(ガラテヤ三・十九)。このことが示しているのは、神は、人に律法を与えるということが、親しく、甘い事柄であるとは感じておられなかったということです。もしこのことが親しく、甘い事柄であると神が感じておられたなら、神が自らこのことを行なわれたでしょう。神はシナイ山で律法を与えられた時、火の中で下って来られました。この状況は真に恐ろしいものでした。「民はみな、雷といなずまのきらめきと角笛の音と山が煙っているのを見た.それを見て、民は震え、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、『あなたがわたしたちに語ってください.わたしたちは聞き従います.しかし、神がわたしたちに語られないようにしてください.そうすれば、わたしたちは死ぬことはありません』」(出二〇・十八―十九)。このことは、律法が人を神から遠ざけることを示しています。それは、人を神に近づけることができません。

律法は何のためにあるのか――律法の機能
神はイスラエル人をエジプトから救い出して、彼らをシナイ山にもたらした時、モーセを通して彼らに言われました、「あなたがたをわしの翼に載せて、わたし自身のもとに連れて来た……」(十九・四)。これは、神がイスラエル人に行なわれたことを、恵みの言葉をもって、イスラエル人に向かって知らせたということです。もしイスラエル人が自分の罪深い状態を知っていたなら、神の恵みを受け入れ、神が恵みにしたがって彼らを取り扱い、彼らのすべての責任を担い続けるように求めたでしょう。しかし、当時、彼らは神の恵みを重んじることなく、神の恵みに依存しようともしませんでした。反対に、彼らは自分自身だけで、神の命じられたことをすべて成し遂げることができると神に言いました(八節)。彼らは何と自分自身を知らないことでしょう! 彼らは自分自身だけで、神のすべての戒めを守ることができると思っていました。それゆえ、神の態度は変わり、彼らを、律法を用いて取り扱いました。それでは、律法はなぜあるのでしょうか? それは違反のゆえに付け加えられたのです(ガラテヤ三・十九)。もっと詳しく述べるなら、神が彼らに律法を与えられたのは、彼らに守らせるためではなく、彼らに違反させるためであって、人の違犯を増し加わせるためでした(ローマ五・二〇)。

神がシナイ山でモーセに律法を与えていた時、イスラエルの子たちは山のふもとにいて、金の子牛を作り、偶像を拝んでいました。このことは、律法の十の戒めの最初の三つの戒めを全部破りました。その後、モーセは神から律法を受け取り、律法の書かれた二枚の石板を携えて、シナイ山を下って戻ってきた時、彼らが偶像礼拝をしているのを見て、その二枚の石板を砕きました。このことは、律法がまだ与えられない時に、彼らはそれに違反し、それを破ったということを証明しています。

それゆえ、神が人に律法を与えられた意図は、律法を用いて人の違反を暴露するためでした。律法はまるで鏡のようです。それは、人の真の状態をそのまま映し出し、自分自身を知ることができます。しかし、律法が人を悪く映し出しているのではなく、律法は人がもともと持っている悪さを映し出しているのです。それゆえ、パウロは言います、「律法によっては、罪の明確な自覚があるだけです。……律法によらなければ、わたしは罪を知りませんでした」(ローマ三・二〇七・七)。律法の機能は、人に罪の自覚を与えることです。律法がなければ、人は罪が何であるかを知ることがなかったでしょう。しかし律法があれば、人は罪が何であるかを知るだけでなく、自分が犯した罪が何であるかを知ることができます。律法は人に罪を知らせ、自分が罪人であることを知らせます。また、人を罪定めします、「それはすべての口がふさがれて、世の人全体が神の裁きに服するためです」(ローマ三・十九)。

鏡のようである律法は、人に自分が汚れていることを見せ、人を「水」に導き、洗い清めさせます。「そこで律法は、キリストに至らせるわたしたちの養育係となりました.それはわたしたちが、信仰に基づいて義とされるためです」(ガラテヤ三・二四)。これは、律法のもう一面の機能です。それはわたしたちをキリストへと導き近づかせ、キリストの中で神の恵みに依り頼ませ、神の救いを受けさせます。

律法の宣言――律法の原則
神はモーセを通してイスラエル人に告げました、「あなたがたはわたしのおきてとわたしの規定を守らなければならない.人がそれを行なうなら、それによって生きる.わたしはエホバである」(レビ十八・五)。それゆえ、律法の原則は、「それらを行なう者は、それらのゆえに生きる」であり、「律法の書に、行なうようにと記されているすべての事を常に守らない者はみな、のろわれる」(ガラテヤ三・十二)です。「律法全体を守ったとしても、一点につまずくなら、すべてを犯したことになる」(ヤコブ二・十)。それゆえ、律法が要求する「行ない」とは、完全でなければなりません。わずかな欠落があってもいけません。これはまるで鉄の鎖のようです。鎖の輪のある箇所が切れるなら、鎖全体が切れてしまいます。これは律法の明確な原則であり、律法の明らかな宣言です。

恵み

恵みとは何か――恵みの性質
テトスへの手紙第三章四節と七節は言います、「わたしたちの救い主・神の慈しみと、人に対する彼の愛が現れた時……その方の恵みによって義とされたわたしたちが」。慈しみとは、あわれみと愛から出てくる一種の情け深い優しさです。このような慈しみの中で、神の恵みはわたしたちに与えられました。恵みもまた神の愛にしたがっています。そして、神の愛の現れが恵みです。この愛はわたしたちに対する神の心であり、恵みはわたしたちに対する神の行動です。神はわたしたちを愛しておられるので、わたしたちのために行動します。それは、彼のひとり子をわたしたちに与えて、わたしたちのために贖いを達成しました。神の愛のゆえに、神はわたしたちに慈しみを与えてくださいます。神がわたしたちにしてくださるすべてのことは、彼の恵みです。

「さて働く者に対する賃銀は、恵みとしてではなく、当然支払われるべきものとして勘定されます。しかし、働きがなくても、不敬虔な者を義とする方を信じる者は、彼の信仰が義と勘定されるのです」(ローマ四・四―五)。恵みとは、神の愛が、神によって無代価でわたしたちに与えられるものであり、わたしたちは何も行なう必要がないものです。もしわたしたちが何かを行なう必要があったなら、わたしたちが受けたものは賃金であって、恵みではありません。恵みは信仰を通して無代価で得られます。わたしたちは働く必要も、どのような努力もする必要がありません。努力を通して獲得されるものは何であれ、恵みではありません。「それが恵みによるとしたら、もはや行ないに基づくのではありません。そうでなければ、恵みはもはや恵みではありません」(ローマ十一・六)。神の恵みは人の行ないと何の関係もありません。恵みによるものは何であれ、行ないに基づくのではありません。行ないを恵みの中へと混ぜ合わせることはできません。いったん行ないに基づき、行ないが混ぜ合わされるなら、それはもはや恵みではありません。

使徒パウロは言います、「神の恵みによって、今のわたしがあるのです。……しかし、それはわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです」(Ⅰコリント十五・十)。ガラテヤ人への手紙第二章二〇節は言います、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。この二つの節を照らし合わせると、「神の恵み」が「キリスト」であることがわかります。パウロの言葉は、神の恵みが命のないものでなく、生きているキリストご自身であることをわたしたちに示しています。キリストご自身を人に得させること、これが、神が人に与える最高の恵みです。

恵みはいつからあったのか――恵みの源
「キリスト・イエスの中で、もろもろの時代の前にわたしたちに与えられていたこの恵みは」(Ⅱテモテ一・九)。この世の基が置かれる前に、神はわたしたちに恵みを与えることを決定されました。これは、神が永遠の中で、彼の当初の意図にしたがったもので、律法のように付け加えられたものではありません。恵みが時間の中へと入って来ました、「今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現を通して、明らかにされています」(Ⅱテモテ一・十)。主イエスを通して贖いが達成され、神の恵みが明らかにされ、人はこの恵みを実際的に得、享受することができるようになりました。

恵みはどのようにして与えられたのか
――恵みを与える手続き
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと実際はイエス・キリストを通して来たからである」(ヨハネ一・十七)。主イエスは人と成られた神です。ですから恵みとは、人と成られた神ご自身からわたしたちに与えられたものです。神は彼が計画した恵みを人にもたらすために多大な労力を費やされました。神は肉体と成り、人として生まれ、十字架に行って人のために死に、死人の中から復活して、その霊と成り、人の中へと入られました。それは恵みが人の間へともたらされ、人の中へともたらされ、人によって得られ、享受されるためです。

神の恵みがわたしたちに与えられたのは、容易なことではありません。「この恵みを、神はすべての知恵と思慮の中で、わたしたちにあふれるばかりに及ぼし」(エペソ一・八)。神が永遠の中でわたしたちに恵みを与えてくださったのか、それとも時間の中でわたしたちに彼の恵みを得させてくださったのかに関わらず、それはすべてキリストの中で行なわれたことでした。これが、彼がイエス・キリストに成ることの唯一の目的でした。神の恵みはすべて、このイエス・キリストご自身によってわたしたちに与えられたものです。

恵みはなぜ与えられたのか
――恵みを与える機能
「わたしたちを愛してくださった彼の大きな愛のゆえに、わたしたちが違犯の中で死んでいた時、わたしたちをキリストと共に生かし(あなたがたが救われたのは、恵みによるのです)」(エペソ二・四―五)。神はわたしたちに恵みを与えてくださいました。そしてまた、「みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださいました」(エペソ一・九)。

それゆえ、神がわたしたちに恵みを与えられたのは、神がわたしたちを愛しておられるという彼の心の願いを満たすためです。それは、彼がわたしたちを愛しておられるという彼の目標を達成し、彼のみこころの奥義の計画を達成するためでもあります。そして、宇宙にあるすべてのものがキリストの中でかしらにつり上げられる時、キリストが中心、またかしらとなって、神の多種多様な知恵を表現して、サタンとその使いたちを辱めることができます。

恵みの宣言――恵みの原則
律法は行ないによるのであり、行ないの原則の下にあります。恵みは信仰によるのであり、信仰の原則の下にあります(ローマ四・四―五十一・六)。律法は完全に行ないの事柄です。恵みは完全に行ないとは関係がありません。いったんわたしたちが行ないに注意を払うと、恵みの下にいるのでなく、律法の下にいます。わたしたちは行ないや行動を必要としません。わたしたちは信じる必要があるだけです。これが恵みの原則であり、恵みの宣言です。

律法の弱さと恵みの力
律法は霊的で、聖であり、義であり、善であったのですが、律法は肉のゆえに弱くて、なし得ることができませんでした(ローマ八・三)。律法は肉に対して要求することができるだけで、人を神の御前で義とすることはできません。人はすべてが肉であり、腐敗し弱いので、だれも律法を守る力がなく、律法の行ないによって神の御前に義とされることができません。肉は、律法の最も小さい要求さえ満たすことができないので、律法を弱くして、無力にしました。

律法は消極的な面において、人に罪を明確に自覚させ、それによって、自己を認識させることができるだけで、それは積極的な面において、人に罪を放棄させて、さらには神を喜ばせ、神によって人を義とさせることはできません。ですから、ヘブル人への手紙第七章十八節と十九節は言います、「先の戒めが、弱さと無益のゆえに廃棄されましたが(律法は何も完成しなかったのです)」。

律法は弱くて無力です。それは何も達成することができません。しかし、恵みは力強く、力に満ちています。それはわたしたちのためにあらゆることを達成します。最初に、恵みは、わたしたちを救いました。エペソ人への手紙第二章八節は言います、「あなたがたが救われたのは、恵みにより」。恵みは、わたしたちを贖い、わたしたちの罪が赦されるようにします。そしてまた、恵みを通してわたしたちを義とし、わたしたちは永遠の命を相続する神の相続人となることができます(エペソ一・七テトス三・七)。わたしたちが救われた後、罪はわたしたちを主人として支配することができません。なぜなら、わたしたちは恵みの下にいるからです(ローマ六・十四)。また、神の恵みの言葉は、わたしたちを建造します。それは、わたしたちが聖別されたすべての人たちと共に神の栄光の嗣業を得ることができるためです(使徒二〇・三二)。「ですから、わたしたちがあわれみを受け、また時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、大胆に、恵みの御座に進み出ようではありませんか」(ヘブル四・十六)。

使徒パウロは、主の恵みはわたしたちに対して十分であることを証ししています(Ⅱコリント十二・九)。この十分な恵みは、わたしたちのすべての責任を担い、わたしたちにあらゆる環境を切り抜けさせることができるようにします。わたしたちの内側の恵みは、キリストご自身です。ですから、キリストは力強いので、神の恵みもキリストと同じように力強いです。神と神の命には力があるので、神の恵みにも同じように力があるのです。このあふれるばかりの恵みは、わたしたちの内側で力強くなってある程度にまで到達し、王としてすべてを治めます。そして、わたしたちに豊かに永遠の命を得させ、わたしたちに神の命の中で王として支配させます(ローマ五・十七二一)。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第5巻より引用