キリストのからだの建造のために、聖くされ、子たる身分を得る

真理

神がわたしたちを聖くされるのは、子たる身分のためです。そして子たる身分はキリストのからだのためです。神の唯一の願いは、キリストのからだを得ることです。わたしたちが、もし神聖な定められた御旨を見るなら、からだが神の唯一の願いであることを理解し、またわたしたちがからだの中にいて、そしてからだを顧みる必要があることを見るでしょう。わたしたちの行なうすべてのことが、からだへの配慮に基づくものでなければなりません。もしわたしたちが、からだから離れ、あるいはからだから隔離されるなら、それは全く意味のないものになってしまいます。神の定められた御旨は、キリストのからだを得ることです。キリストのからだのために、わたしたちは子たる身分を必要とします。子たる身分のために、わたしたちは聖くされる必要があります。

選ばれ聖くされる
エペソ人への手紙第一章四節は言います、「この方は、愛の中で、御前に聖く傷のない者になるようにと、世の基が置かれる前から、キリストの中でわたしたちを選び」。神は過去の永遠において、この世の基が置かれる前から、すなわち時間の開始の前から、わたしたちを聖く傷のない者になるようにと選ばれました。この節の「聖く傷のない」という言葉は、誤用され、誤解されてきました。結果として、それらの意義は、ないがしろにされてきました。大部分のクリスチャンは、聖いとは罪がない完全さであると考えています。あるクリスチャンの団体は自らをホーリネス教会とさえ呼んでいます。しかしながら、聖いとは、罪がないことや完全であることではありません。聖いという意味はとても深く、わたしたちの観念をはるかに越えています。

聖く傷のない者になるようにと選ばれた
この宇宙において神だけが聖いのです。すべての聖書学者は、聖が神の性質、義が神の行ないを指していることを知っています。神が行なわれることはすべて義であり、神の存在そのものは聖です。ですから、聖は神の存在を指しているのであって、神が行なわれることを指しているのではありません。それは神の性質です。ですから、聖くされることは、性質において神と同じにされることです。

人は神聖な性質をもって神によって創造されたのではありません。そうではなく、人は土のちりから造られました(創二・七)。神の性質は聖ですが、人の性質は土です。神は聖いのですが、人は土に属するものです。土であることは、汚れていることとは違います。堕落する前、アダムは罪がありませんでしたが、彼は土でした。アダムは聖くありませんでした。なぜなら神の性質が何も彼の中へと造り込まれていなかったからです。わたしたちがどれほど完全で罪がないとしても、それはただ良いだけであって、聖くはありません。わたしたちは完全であるかもしれませんが、聖ではありません。わたしたちは神の聖なる性質を持たない限り、聖くなることはできません。わたしたちがすでに指摘したように、聖は神の性質です。わたしたちは清く、完全で、罪がないかもしれませんが、なおも土であり、聖くありません。

エペソ人への手紙第一章四節は、人が堕落する前、すなわち罪が入り込む前にあった神の意図を啓示しています。神は、人が罪深くなることをあらかじめ知っておられたので、わたしたちを罪深さから救い出し、わたしたちを完全にすることを決定されたのではありませんでした。そうではありません。神の神聖な定められた御旨によれば、神は過去の永遠において、わたしたちを選び、わたしたちを聖くすることを決定されました。神はわたしたちを聖くするために選ばれました。言い換えれば、神はわたしたちが神聖な性質にあずかることを通して聖くされるためにわたしたちを選ばれたのです。神は土のちりである人を神聖なものにしたいのです。すなわち聖くしたいのです。その唯一の道は、神が彼ご自身を人の性質の中へと造り込まれることです。

神の意図は、わたしたちを全く聖くするだけでなく、わたしたちの内側に何の混合もないようにすることです。「傷」という言葉は、ある時は宝石の中に見いだされる異物に対して用いられます。わたしたちがダイヤモンドを持っていたとして、そのダイヤモンドの中にある種の異物があるとします。傷とは、その異物の存在による混合を指しています。その異物は汚れたものではなく、罪深くないかもしれません。それどころか、それは完全で罪がないかもしれません。しかしながら、それは性質においてダイヤとは異なったものです。

神の意図は、わたしたちを性質において彼であるのと徹底的に同じにすることです。もしわたしたちの内側に異物がなおもあるなら、わたしたちにはなおも傷があります。すなわち、わたしたちの存在には混合があります。しかし、神の意図はわたしたちを何の混合もなく、徹底的に聖く、また神聖にすることです。これは何と高い水準でしょう! わたしたちの個性のあらゆる部分が「傷」であるのは、それがただ神の性質ではないからです。神の性質以外のどのようなものも傷です。ある人は愛らしく、優しく、へりくだった個性を持っているとします。このような愛らしい個性でさえ神の聖の中で傷です。神の聖の中には神の存在以外に何もありません。わたしたちの存在のどのようなものも、それがどれほど良く愛らしくても、混合であり、このゆえに傷です。神の永遠の定められた御旨の第一の項目は、わたしたちを何の混合もなく、性質において神であるのと同じにすることです。これが聖く傷のない者になることです。

子たる身分へとあらかじめ定められる
エペソ人への手紙第一章四節は神が人を選び、聖くすることを啓示しています。そして五節は続けて言います、「みこころの大いなる喜びにしたがい、イエス・キリストを通して、わたしたちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました」。神はわたしたちを選ばれただけでなく、あらかじめわたしたちを印づけられました。この世の基が置かれる前、過去の永遠において、わたしたちは子たる身分を得るために、印づけられました。

わたしたちが聖くなる唯一の道は、神がわたしたちの存在の中へと入って来られることです。このことは子たる身分と関係があります。あらゆる子は父から生まれました。父であるすべては子の中へともたらされました。このゆえに、子は父の命が流れ出た結果です。ある訳は、五節の「子たる身分」(sonship)というギリシャ語を「養子縁組」(adoption)と訳しています。この訳は間違ってはいないのですが、容易に誤解されます。わたしたちは神によって養子とされたのではありません。わたしたちは神から生まれたのです。わたしたちは養子ではなく、生まれた子、すなわち御父の命の結果である子です。

第一に、わたしたちは神によって創造されました。しかし、わたしたちは主イエスを信じた時、神から生まれました。こういうわけで、わたしたちはそれぞれ、二つの物語、すなわち、創造の物語と再び生まれることの物語を持っています。創造によって、わたしたちは神の子たちであるのではありません。そうではなく、わたしたちはただ神の被造物です。しかし、再び生まれることによって、再生によって、わたしたちは神の子たちとなりました。

子たる身分の意味
わたしたちは聖となるために神から生まれ、それによって神の命を持ちます。神の命がわたしたちの中へと入り、わたしたちの命となるとき、わたしたちは神の子たちとなります。子には子の命と子の地位があります。この地位は相続と関係があります。わたしたちは神の子たちとして、御父であるすべてを受け継ぎます。わたしたちはすでに神から生まれました。今やわたしたちは、神であるすべてを受け継ぐ地位を持っています。これが子たる身分の意味です。

すべてのクリスチャンは、再生の意義についてのビジョンを見る必要があります。再生は、わたしたちが神の命と、神であるすべてを受け継ぐ地位を持っていることを意味します。新しい天と新しい地において、わたしたちは神であるものは何であれ、わたしたちのぎょうとなったことを認識します。これが子たる身分です。ある人は、わたしたちは人が神となり、そして神格を持つと教えていると罪に定めます。そうではありません。わたしたちは神格を持つのではありませんが、神聖なものになりつつあります。わたしたちは神の命を持っており、神であるものは何であれ、受け継ぐ地位を持っており、また神聖なものになりつつあります。

わたしたちは子たる身分のために、すでに印づけられました。すなわち、神の命を持ち、神を表現し、神であるものは何であれ受け継ぐ地位を持ち、御父が神聖な方であるように神聖なものになのです。神の御子は言われました、「わたしを見た者は父を見たのである」(ヨハネ十四・九)。その日は近づいています。その時わたしたちも次のように言うことができます、「わたしたちを見た者は神を見たのです。なぜなら、わたしたちは神の子たちであるからです」。新約聖書において「子」という用語はいつも、父の表現を示しています。わたしたちは救われる前、邪悪な父であるサタンを表現する不従順の子たちでした。今日、わたしたちは自分の行為や振る舞いによってではなく、わたしたちの内側に神の命と性質を持つことによって、神を表現する神の子たちです。日ごとに、神は彼ご自身をわたしたちの存在の中へと造り込んでおられます。それは、わたしたちが神の表現となるためです。最終的に、わたしたちは神であるすべてを受け継ぎます。

子たる身分の完成
今日、わたしたちは子たる身分の完成の過程にあります。わたしたちは子たる身分を持ってはいますが、わたしたちの存在の中へと完全に造り込まれていません。例えば、ピリピ人への手紙第三章は、わたしたちの体が卑しい体であると言います(二一節)。あなたは自分の体が美しいと思うでしょうか? 多くのとき、わたしは自分を鏡で見たとき、わたしの体を憎みました。なぜなら、それはとてもひどいからです。子たる身分はわたしたちの体の中へとまだ造り込まれていないのです。しかし、それはわたしたちの霊の中へと、さらにはわたしたちの行動、態度の中へと造り込まれ、わたしたちに御父を表現させる行動、態度をとらせます。このことは、子たる身分がわたしたちの霊の中へと造り込まれただけでなく、また少なくとも、ある程度わたしたちの魂の中へと造り込まれたことを示しています。しかしながら、それはまだわたしたちの体の存在の中へと造り込まれていません。

子たる身分はまだわたしたちの体の存在の中へは造り込まれていないので、ローマ人への手紙第八章十九節は言います、「被造物は切なる期待をもって、神の子たちの出現を熱心に待ち望んでいます」。この出現とは、わたしたちの体の贖いであり、それはまた子たる身分の完成です。その時、子たる身分はわたしたちの体の存在の中へと造り込まれます。主イエスが戻って来られる時、わたしたちの体は瞬く間に、栄光の体へと変貌させられます。わたしたちの体は神聖な子たる身分において栄光あるものとなります。今日、神の子の命と性質はわたしたちの卑しい体の中に隠されています。しかし、わたしたちの体でさえ神聖な命によって浸透され、その命の現れとなる日が来ます。この内なる命の現れは、わたしたちの体の贖いです。これが神の子たちの出現、現れです。

「息子化」される過程
子たる身分の完成は、「息子化」です。「息子化」されるのは、容易で速いものではなく、キノコが増殖していくようなものではありません。子たる身分を得させる霊がわたしたちの中へと入ってくるならそれは難しくはありません。わたしたちは、「主イエスよ、わたしは悔い改めます。わたしは罪人です。主よ、わたしのために十字架上で死んでくださったことのゆえに、あなたに感謝します。わたしはあなたをわたしの救い主とします」と言う必要があるだけです。もしわたしたちがこのように祈るなら、子たる身分の霊は直ちにあなたの中へと入ります。しかし、わたしたちの全存在を「息子化する」ことは、はるかに難しい事柄です。

ローマ人への手紙第八章二八節は言っています、「また神を愛する者、すなわち、彼の目的にしたがって召されている者たちには、すべてが共に働いて益となることを、わたしたちは知っています」。わたしたちは自分の霊の中に子たる身分を持っていますが、わたしたちはまだ魂の中に、すなわち、わたしたちの思い、感情、意志の中に子たる身分をあまり持っていません。子たる身分がわたしたちの魂の中へと造り込まれるために、わたしたちは「すべて」を必要とします。そしてわたしたちは「息子化」されます。

例をあげて言うなら、「すべて」とは、さまざまな種類の兄弟たちを含みます。荒っぽい兄弟も温和な兄弟も含みます。雄弁な兄弟も、たどたどしく語る兄弟も含みます。雄弁でなく、たどたどしく兄弟が語るとき、わたしたちは暴露されます。霊的な事柄において、わたしたちはなおも多く自分自身の中にいますが、それらのたどたどしく語る兄弟は、わたしたちがどこにいるかを暴露します。二八節において述べられた「すべて」はこのように語る人さえも含んでいます。このようなたどたどしく語る人がいなければ、わたしたちはどのように「息子化」されることができるのでしょうか?

わたしたちは救われた後、「息子化」される過程の中へと入りました。しかし、わたしたちはなおも自分自身が完全に「息子化」されていないことを知っています。わたしたちの妻や夫、多くの兄弟姉妹は、わたしたちを「息子化」するのを助けています。それらの日々わたしたちと接触する人たちが、事実上、最もわたしたちを助けています。これらの多くの「息子化」のための手先となっている人たちがいることを幸いに思わなければなりません。来る日も来る日も、わたしたちは自分の妻や夫、兄弟姉妹たちという「息子化」する手先となっている人たちと共にいます。彼らがわたしたちをどれほど愛していたとしても、彼らは無意識のうちにわたしたちを「息子化」する働きを行なっています。

わたしたちの「息子化」を助けているすべての人のゆえに、わたしたちは主に感謝すべきです。この「息子化」の過程のために、わたしたちは神の案配されることや、わたしたちに起こるあらゆる事柄、またわたしたちに接触するすべての人たちを必要とします。わたしたちは「息子化」されればされるほど、子たる身分をさらに得ることができます。

からだの生活のために「息子化される」
子たる身分はからだのためです。子たる身分がなければ、からだはあり得ません。わたしたちは神聖な命、すなわち神の命の中で生きないとき、召会についてはおしまいです。からだの生活を持つことは、わたしたちがどれほど「息子化」の過程を経過したかにかかっています。もしわたしたちが子たる身分をほとんど持っていないなら、あまりからだの生活を持つことができません。なぜなら、からだの生活は子たる身分から出て来るからです。

わたしたちが神の御子の命を持つとき、キリストのからだの正しい肢体となり、ローマ人への手紙第十二章のからだの生活を実行することができます。からだの生活のために、わたしたちは第八章の十分な経験を必要とします。それはわたしたちに「息子化」される過程を経験させます。第八章と第十二章の間にある、第九章、第十章、第十一章は挿入の言葉です。このことは、第十二章が第八章の直接の継続であることを意味します。この意味は、からだの実行が子たる身分を得ることの結果であるということです。十分に多く「息子化」された後に、わたしたちは神のみこころが何であるかを識別するように資格づけられます。そして神のみこころは、からだを持つことであることをわたしたちは知ります。神はからだを必要とされています。それは神の御子がこのからだを通して彼ご自身を表現することができるためです。このことが神の心の願いです。わたしたちが第八章の子たる身分を経験した後、わたしたちは神の永遠のみこころの大いなる喜びがからだの生活を持つことであるのを知ることができます。

主のあわれみによって、また主の恵みを通して、わたしたちのうちの多くの人が自分の天然の命、すなわち人の子の命によって生活するのではなく、神聖な命、すなわち神の御子の命によって生活しています。わたしたちはとても複雑ですが、御父はすべてが共に働いてわたしたちの益となるように案配しておられます。それはわたしたちが徹底的に「息子化」されて、過去の永遠においてわたしたちに割り当てられた子たる身分が、わたしたちの全存在の中へと造り込まれるためです。

この子たる身分はわたしたちの霊の存在の中へと造り込まれるだけでなく、わたしたちの魂の中へと、また究極的には体の中へと造り込まれます。わたしたちが御子の命を生き、神を表現することができるなら、からだの正しい肢体とされます。からだは肢体から構成されています。これらの肢体は、神の命によって生き、神を表現する子たちです。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第4期第6巻より引用