だれが語った言葉なのか?

真理

「聖書はすべて、神の息吹かれたものであり」(Ⅱテモテ三・十六前半)、「人々が聖霊に動かされて、神によって語り出した」(Ⅱペテロ一・二一)ものです。聖書の六十六冊すべては、神の息吹かれたものであり、神の霊の霊感を通して書かれました。しかしながら、聖書のあらゆる言葉が神の直接語られた言葉ではありません。聖書の多くの部分は、幾人かの人たち(サタンをさえ含めて)によって語られた言葉です。それらは神が語られた言葉ではありませんが、聖書の中に記載されているのには、その目的があり、聖書を読む人はそれを識別しなければなりません。

旧約において、神は人と共に、人の間で行動されました。これはキリストと召会のために神の永遠のエコノミーを遂行する直接的な行動ではなく、彼の旧創造における間接的な行動でした。旧約の聖徒たちが神聖なエコノミーの啓示を受け取る能力に欠けていたため、神は漸進的に少しずつ語り、人の天然的な語りかけを遮らなければなりませんでした。そして、人を誤った領域、すなわち旧創造の領域から新創造の領域へもたらされました。新約の時代になってはじめて、神は人の中で直接行動することができ、神の心の願いを成就し、神の御前での人の必要を満たします。この神聖な啓示の漸進は、使徒たちの書簡によって完成されました。わたしたちはこの完成した啓示の光の中で聖書を読む必要があります。そうすれば完全な程度にまで神を認識することができ、神のエコノミーを完成するための今日の行動に分があるでしょう。

聖書の中の神が語られた言葉でない例
モーセによって記載された

古い蛇、サタンの言葉
創世記第三章で、蛇は女に言いました、「『あなたがたは園のどの木からも食べてはならない』と、神は本当に言われたのですか? ……あなたがたは必ずしも死ぬことはありません! それは、あなたがたがそれから食べる日に、あなたがたの目が開かれ、あなたがたが神のようになり、善と悪を知るようになることを、神は知っておられるからです」(一、四―五節)。これはサタンの言葉ですが、モーセによって聖書の一部分として記載されています。これは、聖書に記載されているあらゆる言葉が神の言葉であるとは限らないことを見せています。古い蛇、サタンによって語られた言葉は、モーセによって神の霊の霊感を通して記載されました。それは、神の目的が、彼の敵サタンのこうかつな欺きと悪魔的な誘惑を暴露し、サタンは真に欺く者であり悪魔的な誘惑する者であることを、人が知るようになるためです。しかし、これらの言葉の記載はその霊の感動によって書かれたものです。

ヨブ、彼の三人の友人とエリフの語りかけ
聖書の中の多くの箇所は、神が直接語られた言葉です。ある箇所は神の直接の語りかけではありませんが、それも聖書の中に記載されています。なぜなら、神は語ることのできる神であるだけでなく、聞くことのできる神でもあるからです。多くの時、人が語り、神はそこで聞いておられます。旧約の中で人の語りかけを最も多く記載した書があります。それはヨブ記です。この書は四十二章と長いですが、第三章から第三七章まではすべて、人、すなわちヨブ、彼の三人の友人とエリフの語りかけであり、彼らは一人一人ひっきりなしに語りました。ヨブ記から見ることができるのは、神は忍耐をもって聞いておられ、第三八章になって神は語り始めました。人に対する神のみこころに逆らっている、彼らのそれらの言葉は、ヨブが神の霊の感動の下で書いたものであり、それは神に御自身の目的を達成させるものでした。すなわちヨブと、彼の三人の友人とエリフの、神を知ることでの間違いを暴露しました。そして人が照らされ、神の心の願いの大いなる喜びにしたがって、人が自分の完全さ、正しさ、高潔さの表現よりも、ただ神の表現となるべきであることを認識させました。

詩篇の作者の天然の情緒
詩篇は多くの作者によって書かれ、全部で百五十篇あります。その中のいくつかの詩は、作者が彼らの敵を憎むこと(十八・三七―四二、四〇・十四―十五)、彼らのために神に復讐してくださるように求めること(三・七、四三・一、五四・一―三)、彼らが他の人をのろうこと(三五・四―六、七〇・二―三、一〇九・一―十五)です。これらの言葉は、確かに神の言葉ではなく、詩篇の作者が神を賛美している時に、彼らの天然の情緒から、彼らの口から出てきた言葉です。しかし、それらは神の霊によって聖書に記載され、詩篇の作者の霊性の程度を暴露するのに役立ちます。すなわち、一方で、彼らは神を愛し、神を尋ね求めていますが、もう一方で、彼らの情緒においては、まだ非常に天然的でした。詩篇の作者は神を賛美している時、自分たちのために神が彼らの敵に復讐してくださるようにと求めています。これが聖書に記載されているのは、わたしたちがどれほど神を賛美してもまだ天然的であり得ることを、わたしたちに知らせるためです。

マタイによる福音書第十六章二二節の
ペテロの言葉
マタイによる福音書第十六章は、ペテロが御父からキリストのパースンに関する啓示と、キリストが召会を建造することに関する教えを受けた後、主は十字架につけられ三日目に復活しなければならないことを聞いたことを記載しています(十三―二一節)。この時ペテロは、主を阻止しなければならないと思い、彼をいさめて言いました、「主よ、神があなたをあわれんでくださいますように! そのようなことは、決してあなたに起こってはなりません!」(二二節)。ペテロの天然の良い心はサタンのために用いられ、主が死と復活を達成し、神の永遠の贖いとダイナミックな救いを成就しようとしておられるのを阻止しようとしました。ですから、これは明らかに神が語られた言葉ではなく、ペテロがサタンに占有され、横領され、サタンとさえなって語った言葉です。ですから主は彼を叱責して言われました、「サタンよ、わたしから退け! あなたはわたしをつまずかせるものだ.あなたは神のことを思わないで、人のことを思っているからだ」(二三節)。これは、わたしたちが神から真の啓示を受けた後でも、サタンの言葉を語ることがあり得ることを見せています。これが聖書に記載されているのは、わたしたちが目を覚まして、サタンに欺かれないように祈っていなければならないことを教えるためです。

マタイによる福音書第十七章四節の
ペテロの言葉
主は第十六章でキリストと召会を啓示された後(十三―十九節)、第十七章にくると、主はペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、ひそかに高い山へと導いて行かれました。そしてイエスは彼らの前でかたちが変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。同時に、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていました(一―三節)。ペテロはそれらを見て言いました、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです.お望みでしたら、わたしはここに天幕を三つ造りましょう.一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」(四節)。ペテロは、自分の言葉が神を怒らせ、神のエコノミーと矛盾することを認識していませんでした。天からの声によってペテロはとどめられました、「これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ。彼に聞け!」(五節)。

神が語られたこのとどめる言葉は、ペテロがキリストをモーセとエリヤと同列にすべきではなかったことを示しています。彼らはそのパースンと務めにおいて、はるかに、はるかに劣ります。モーセの務めは律法の務めでした。エリヤの務めは預言者の務めでした。ところが神の御子キリストは、ご自身のからだとしての召会を確立するという神の永遠のエコノミーを達成するために、恵みの務めを持っておられます。神が語られたこのとどめる言葉はまた、キリストが神の旧創造においても神の新創造においても第一位であることを示しています(コロサイ一・十五―十八)。ですから、ペテロと他のすべての者は、神の御子、愛する方、神が喜ばれる方としてのキリストだけに聞くべきでした。

ペテロは、神の新約エコノミーのためにキリストが御父から受けた委託が、モーセの律法の務めやエリヤの預言者としての務めよりもはるかに高いことを識別することができませんでした。ですから、ペテロがマタイによる福音書第十七章四節で語った言葉は、明らかに神が語られた言葉ではありません。ペテロの言葉は彼のあいまいなビジョンの下で語られ、キリストの最も高いパースンと彼の最高の神聖な委託を、モーセとエリヤの低い水準にまで引き下ろしました。それは、神の霊の霊感の下で、彼の福音書の中に書かれました。それはペテロと彼の二人の同伴者ヨハネとヤコブ、そしてさらに恵みの時代全体にいるキリストにあるすべての信者を教え、啓発するという神の目的のためです。それは、彼らがキリストのパースンと彼の委託について明確なビジョンを持つためです。

使徒行伝第十章十四節のペテロの言葉
ペテロは、主に三年半従った使徒であり、ペンテコステの聖霊の注ぎを経験し、非常に明確な言葉を語り、キリストの死と復活を証しし、エルサレムに最初の召会を産み出しました。しかし、福音の拡大について、ユダヤ人から異邦人へのキリストの増し加わりの神聖な啓示においては、依然としてあいまいでした。ペテロは異邦人に対して偏見を持っていました。ですから、神はビジョンの中で大きなシーツのような入れ物を天から降ろしました。その中には地上の四つ足の動物、地の這うもの、空の鳥が入っていました。そしてペテロに向かって声がしました、「ペテロよ、立ち上がりなさい.殺して食べなさい!」(使徒十・十一―十三)。主はビジョンを与えて、その大きなシーツの中の物はみな清いものであることを示しました。それでもペテロは言いました、「主よ、それはできません.わたしは俗な物や汚れた物を、一度も食べたことがないからです」(十四節)。これは明らかに神が語られた言葉ではなく、ペテロが汚れた動物を食べる(汚れた異邦人と接触し、受け入れる)ことに関する彼の宗教観念にしたがって語った言葉です。その後、二度目にまた声がありました、「神が清めた物を、俗なものとしてはならない」。こういうことが三度起こってから、直ちにその入れ物は天に引き上げられました(十五―十六節)。

ペテロの言葉は、神の旧約エコノミーに対する彼の啓示にしたがって語られました。その啓示は、神の新約エコノミーに関する神の啓示の標準よりもはるかに低いものでした。ですから、ペテロの言葉は天からの声によって阻止されました。それは福音をユダヤ人から異邦人へと広めるために、ローマの百人隊長コルネリオを訪問するためにペテロを遣わすということについて、神がペテロに確証を与えるものでした。この記載はルカによって使徒行伝で、神の霊の霊感の下で書かれ、ペテロと恵みの時代のすべての信者に、神の福音は単にユダヤ人のためだけではなく、異邦人のために、地の果てまでも至ることを明らかにしました。

ヤコブの手紙の言葉
ヤコブによって語られたヤコブの手紙の言葉は、モーセの律法を高く上げ、新約の信者たちにそれを守るよう命じ、神の時代の経綸を混乱させ、キリスト、彼の死、彼の復活、その霊に欠けています。これらは確かに神の言葉ではなく、ヤコブによって、モーセの律法(神の新約エコノミーにおける恵みと対照的である)に関する彼の旧約の観念にしたがって、神の旧約の経綸と彼の新約の経綸との違いがあいまいなビジョンにしたがって語られた言葉です。しかし、これらの言葉がヤコブによって、彼の手紙の中で、神の霊感の下で神聖な目的のために書かれたのは、彼が律法に関して間違った観念にあり、神の時代の経綸に関してあいまいなビジョンにあることを暴露し、キリストにあるすべての信者を教え、啓発するためです。それは、彼らがヤコブの不完全な言葉によって次のことから逸らされるべきではなく、追い求めるべきであることを、彼らが知るためです。それは、すべてを含むキリスト、究極的に完成された霊、旧創造を終わらせるキリストの死、すべての新創造を発芽させるキリストの復活を、神の永遠のエコノミーの成就のために追い求めるということです。

神はなぜ語らないのか

人の無知のゆえ
ヨブは神聖な啓示の原始の段階にいました。神が、肉体と成ることに始まって、彼の行動の中で行なおうとされた多くの事について、ヨブは何も知りませんでした。ですから神はヨブにこれらの事について、語ることはできませんでした。主イエスが、ニコデモに再生に関して語られた言葉は、ヨブの状況にも適用することができます。「わたしがあなたがたに、地上の事柄を告げても信じないとしたら、天の事柄を告げたところで、どうして信じるだろうか?」(ヨハネ三・十二)。主イエスは彼の弟子たちに語ることにおいて、制限さえされていました。「わたしには、あなたがたに言うべき事がまだ多くあるが、あなたがたは今、それに耐えることができない。しかし彼、すなわち実際の霊が来る時、あなたがたをすべての実際へと導く.なぜなら、彼は自分から語るのではなく、彼が聞くことを語り、来たるべき事をあなたがたに明らかにするからである」(十六・十二―十三)。

徐々に行なわなければならない
今日、多くの人は神のエコノミーについて、あるいは神のエコノミーにしたがった神聖な分与について、何の理解も持っていません。彼らは、クリスチャンになるとは、神の御子であるイエス・キリストが、人の罪のために尊い血を流し、彼の死を通してわたしたちを救ってくださったことを信じることだと思っています。そして、聖霊が今わたしたちと共にいて、わたしたちが良く振る舞えるように、また善を行なえるように助けてくださり、そして神の栄光が現れ、最後には人が死んだ後に天国に行くことができると信じています。クリスチャン生活についてこの観念を保持している人たちは、以下の事柄を見ていないのではないかと思います。それは、クリスチャンであることは聖別されること、造り変えられ、同形化され、神聖なエコノミーの神聖な分与、手順を経て究極的に完成された三一の神の拡大としての新エルサレムに関連しているということです。これらの事柄について彼らに教えるには、徐々にそれを行ない、最も基本的な事から始めなければなりません。

わたしたちは
神が完成された言葉を持っている
神に感謝します! わたしたちは今、神聖な啓示が完成された時代に生きています。時間によれば、わたしたちはヨブよりもはるかにまさっています。もしわたしたちがノアと共にいたなら、おそらくヨブよりも認識していなかったでしょう。しかし大洪水の後、神は前進し続けました。彼はノアからアブラハムまで前進されました。わたしたちは、ヨブがアブラハムの時代にいたと信じます。ですからヨブの祝福は、アブラハムの祝福と似た水準でした。しかし、今日わたしたちは天上にある霊のものであるあらゆる祝福を受けました(エペソ一・三)。神聖な啓示の前進は、パウロによって彼の文書、特にガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ人への手紙を通して完全にされ、完成されました。パウロは、神から委託を受けて神の啓示の言葉、特に神のエコノミーに関する奥義を完成したとはっきり言っています。この奥義はキリストと彼のからだに関してであり、キリストは彼のからだの中で栄光の望みとしておられるということです(コロサイ一・二五―二七)。この啓示はすでに完成されており、さらに発展するものは何もありません。今日わたしたちはすでにすべてを持っています。

わたしたちは使徒たちの書簡を尊ぶ必要があります。わたしたちは使徒行伝で、造り変えられた聖徒たちの中の、究極的に完成された方としての神の行動を見ることができます。しかしながら、それはパウロの十四書簡ほどにはっきりと定義され、説明され、発展させられていません。そして最後に、完成された部分、ヨハネの三つの書簡と啓示録があります。この二人の使徒によって、神聖な啓示が完全に完成されたのです。完成された言葉をわたしたちは手に持っています! 何という祝福でしょう!

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第5期第5巻より引用