新約は、わたしたちに神聖な三一の経験が、「父と子と聖霊の名の中へと」バプテスマすることから始まることを啓示しています(マタイ二八・十九)。また、父なる神の愛、子なる神であるキリストの恵み、霊なる神の交わりに入り、あずかることによって、日ごとに三一の神を享受することができることを啓示しています(Ⅱコリント十三・十四)。そして最終的には、永遠において、神と小羊の御座から流れ出る命の水の川を享受します。三一の神、すなわち神、小羊、その霊(命の水で表徴される)が、永遠にわたって、神ご自身を彼が贖われた民の中へと分与されます。これから、わたしたちは啓示録の中における神聖な三一の啓示を探っていきます。
エコノミー上の三一
啓示録第一章四節と五節は言います、「恵みと平安が……今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方から、また彼の御座の前の七つの霊から、また忠信な証人、死人の中から最初に生まれた方、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストからあるように」。これは三一の神です。彼は永遠の父なる神として、昔おられ、今おられ、やがて来ようとしておられる方です。彼は霊なる神として、神の活動のために七倍に強化された霊です。彼は子なる神として、(一)「証人」、神の証し、表現であり、(二)召会のために「死人の中から最初に生まれた方」、新創造であり、(三)この世のために「地上の諸王の支配者」です。
啓示録における中心は神の御座です。なぜなら、この書は神の行政に関する書だからです。啓示録の中では、神の永遠の定められた御旨を執行するための神の御座を見ます。神の御座は神のパースンと関係があるのではなく、神の行政と関係があります。行政は完全に神のエコノミーの事柄です。啓示録においてわたしたちは三一の行政、活動、動作、動き、行動、働きを見ます。ですから、啓示録の中では、神聖な三一は本質上の三一ではなく、エコノミー上の三一です。
それとは対照的に、マタイによる福音書第二八章における三一は神の存在における三一、本質上の三一です。わたしたちはマタイによる福音書の終わりで、三一が父、子、聖霊として単純な方法で述べられているのを見ます。父、子、霊は本質上、その存在のために、一です。わたしたちは神聖な三一の神聖な本質の中へとバプテスマされる必要があるのであって、神のエコノミー、彼の行政、彼の行動、あるいは彼の行ないの中へとバプテスマされる必要はありません。わたしたちは「父と子と聖霊の名の中へと」バプテスマされました(十九節)。名は人の活動を言っているのではなく、その人の存在を言っています。わたしたちがある人の名前を呼ぶとき、これはわたしたちがその人を探していることを示します。「父と子と聖霊の名」の中へとバプテスマされることは、父と子と聖霊のパースンの中へとバプテスマされることです。これは、三一の神格の存在と本質の事柄です。
本質上の三一は神の存在のことを言っています。神の存在において、父、子、霊は永遠から永遠まで同時同存し、相互内在します。本質上の三一は、形容詞によって修飾し説明する必要はありません。しかし、永遠の父なる神は、啓示録第一章四節の中で、「今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる」という句によって修飾されています。この御父に対する描写は、エコノミーを示しています。また、神の存在において神の霊は一つですが、神のエコノミーから言えば、神の霊は機能において七つの霊です。本質的に神の霊は存在において一つですが、エコノミー的に神の霊は強化され、彼の機能を果たして神のエコノミーを遂行する必要があります。本質上、子なる神は御子であるだけですが、神のエコノミー上、彼はイエス、キリスト、忠信な証人、死人の中から最初に生まれた方、地上の諸王の支配者、わたしたちを愛して、彼の血によってわたしたちを罪から解放してくださった方、わたしたちを王国とし、彼の神また父の祭司としてくださった方、神の最後の行政を執行するために来られる方です。ですから、五節から七節における御子についてのすべての修飾する語は、神の行動と神のエコノミーとに関係があります。啓示録は三一の神聖な本質について触れているのではなく、三一の神聖なエコノミーに触れているのです。啓示録における三一は神のエコノミーにおける三一、すなわちエコノミー上の三一です。
啓示録では、三一の神の順序が、マタイによる福音書にあるのと違っています。マタイによる福音書第二八章十九節では、三一の神の順序は父、子、聖霊です。この節では、子であるキリストが神聖な三一の第二として提示されています。しかし啓示録第一章四節と五節では、その順序が変わっています。神の七つの霊が第三ではなく、第二に挙げられています。神の本質において三一は単純に父、子、霊ですが、神のエコノミーにおいて三一は複雑です。また神の本質において、御父は第一であり、御子は第二であり、その霊は第三です。しかしながら神のエコノミーにおいて、その霊は子なる神の前に来ています。その霊は神の行政を遂行し、また諸召会に注入し、諸召会を探ります。四福音書において御子はその霊よりも多く出てきましたが、啓示録においてその霊は御子よりも多く出てきます。このゆえに、その霊は啓示録第一章におけるエコノミー上の三一の順序において御子の前に来るのです。これは、神の七倍に強化された霊の機能の重要性を啓示します。
四節から五節の、「今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる」のは永遠の父なる神であり、第一に挙げられています。その次に、神の「御座の前にある七つの霊」、すなわち活動する神の霊、神の唯一の霊、聖霊であり、マタイによる福音書第二八章十九節の神聖な三一の中の第三に位置づけられています。しかし、聖書の最後の書である啓示録においては、神の唯一の霊は七倍に強化されて神の七つの霊となり、神聖な三一の第二として示されています。そして、キリスト、神の御子が第三に挙げられています。
神のエコノミーの遂行のため、一つ霊が七つの霊と成る
それでは、なぜ啓示録でその霊が神聖な三一の順序の第二の地位を占めるのでしょうか? それは、この書では時代が御子からその霊に変わったからです。啓示録は、その霊の時代です。そしてこの時代では、その霊が強化されています。第一章四節で、その霊は強化された神の霊ですから、彼は七つの霊と呼ばれています。七つの霊は、疑いもなく神の霊です。なぜなら、彼らは四節と五節で、三一の神の間に置かれているからです。その他に、わたしたちは「七つの霊」は、霊が七つあると考えてはいけません。それは聖書の意味することではありません。ここの七という数は、七つの異なる霊ではなく、七倍に強化された一つの霊のことです。「七」は神の、時代における行動の中の完全な数であり、「十二」は神の永遠の行政の中の完全な数です。例えば、神は地を六日と安息日の合計七日で創造されました。さらに、聖書には七つの時代があります。神の今日の動きのために、召会の数も七です。啓示録での七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢は、すべて神の時代の行動のためです。ですから、七倍の霊は、神の今日の動きにおける強化された霊です。
これは、明るさを調節する機能のある電灯に例えることができます。あまり明るさを必要としない時は、それを調節して少し暗くします。そして明るさが必要になった時に、明るさが増すように段階を上げて調節します。同じように、燭台の七つのともし火は七倍に強化された光です。四福音書では、神の霊は最初の段階の一倍の明るさでした。なぜなら、その当時はそれほど多くの光を必要としなかったからです。しかし召会が堕落し、時代がはなはだしく暗くなってからは、七倍に強化された聖霊が必要でした。こうして神の一つの霊は七倍の霊となりました。存在において、聖霊はゼカリヤ書における燭台のように一つですが、機能において、聖霊は燭台の七つのともし火のように七倍です。
小羊の七つの目
神の七つの霊は小羊の七つの目です(五・六、ゼカリヤ三・九、四・十)。目は、行動のためです。もしわたしたちが盲目であるなら、行動することはとても困難です。神の今日の行動において、神の小羊としてのキリストは、七つの目を持っておられます。小羊の七つの目はまた、見張りと観察と注入のためです。わたしがだれかを見つめる時、わたしの何かが彼の内に注入されます。わたしたちはしばしば、互いに愛していることを語り合います。しかし、あなたはどのようにして、ある人があなたを愛しているのを認識することができるでしょうか? 愛は目を通して注入されます。あなたがわたしを愛して見つめるなら、あなたの目はあなたの愛をわたしに注入します。キリストが彼の七つの目でわたしたちを見つめられる時、最初わたしたちは恐れおののくかもしれません。しかし、これらの七つの目は、キリストの要素をわたしたちの中に注入するでしょう。
聖書は、聖霊は今日、キリストの七つの目であると言っています。しかし、多くのクリスチャンは、神の聖霊はキリストと分離していると思っています。そのような言い方はおかしなことです。ある人の目は本人と分離しているのでしょうか? わたしがあなたの目を見るなら、それはあなたを見つめているということです。またあなたが、あなたの目を用いてわたしを見ているなら、あなたはわたしを見ているということです。人の目はその人を表現します。聖霊がキリストと分離していると言うのは、聖書の純粋な啓示と一致しません。
今日、神の霊はキリストの目です。ですから、その霊、すなわちキリストの目は、キリストと分離していません。その霊はキリストの目であり、わたしを見つめています。わたしたちの経験がこれを証明します。日ごとに、わたしたちは、わたしたちを見ておられる方がおられるのを感じます。そのお方はその霊です。そして、それはキリストご自身です。その霊がキリストでなかったとしたなら、わたしたちはその霊とキリストの二人の方がわたしたちを見ておられると感じるでしょう。その霊はキリストと分離していると言うのは、キリストの目を抜き去って彼から目を引き離すことと等しいです。わたしたちとわたしたちの目が一つであるのと同じように、キリストとその霊は一つです。キリストは盲目ではなく、彼は七つの目を持っておられ、常にスポットライトのように、わたしたちを観察し、彼ご自身の要素をわたしたちの中へと注入されます。
時には、彼はわたしたちを照らして、「何をしているのですか? 夫と争っているのですか? やめなさい!」と言われます。あなたはこのような経験をしたことがないでしょうか? 多くの人は証しすることができます。日ごとに、わたしたちはこの見張っている、観察している、注入しているキリストを経験します。この見張っていること、観察していること、注入していることは、彼の目を通して行なわれます。彼の目はその霊です。そして、その霊はほかでもない彼ご自身です。
神の御座の前の七つのともし火
七つの目はまた、神の御座の前の七つのともし火です(四・五、ゼカリヤ四・二)。キリストは七つのともし火の輝きによって、神の行政を執行されます。これは今日、諸召会においても当てはまります。キリストがわたしたちを見て、見通される時、わたしたちを照らして神の行政を執行されます。しばしば長老たちは、召会で互いに問題を論議し合っている時、七つのともし火が自分たちの上を照らしているという感覚を持ちます。これは七つのともし火の輝きによって、キリストが神の行政を執行しておられることです。
全地に遣わされた
神の七つの霊は全地に遣わされました(五・六)。わたしたちがどこへ行こうと、七つの目はわたしたちについて来られます。事実上、彼はわたしたちの先にいて、先に目的地でわたしたちを待っておられます。多くの愛する聖徒たちが、その地方で幸いでないので、別の場所でならもっと良いだろうと考えて、移住してきました。しかし、彼らが新しい地方に着いてみると、その霊がそこで彼らを待っておられることがわかります。わたしたちのうちの何人かが、行くべきでない地方に行きました。するとそこに着くとすぐにその霊のあいさつを受けました。彼は、「戻りなさい。ここにとどまっていてはいけません」と言われました。今日その霊は全地に遣わされています。彼は今や、地の果てにまで行き渡っておられます。これは三一の神のすばらしい霊です。
神聖な第三としてのキリストは、神聖な三一の究極的完成である
啓示録第一章五節において、イエス・キリストは「忠信な証人、死人の中から最初に生まれた方、地上の諸王の支配者」として描写されています。「イエス」という名は肉体と成ることを暗示しており、「キリスト」という称号は、主イエスが神の油塗られた方であることを示しています。彼は人の生活において忠信な証人でした。また彼は復活において死人の中から最初に生まれた方です。彼は昇天と御座に着くことにおいて地上の諸王の支配者です。なぜなら、彼は今やすべての者の主、またかしらであるからです。さらに、彼は来て彼の王国において王として支配するとき、すべての諸国民を支配します。こうして、「地上の諸王の支配者」という称号は、彼の昇天、彼の現在の状態、また彼の再来を言っています。ですから、この節におけるキリストの描写は、キリストの肉体と成ることから彼の永遠の王国までのすべてを含んでいます。キリストのパースンと働きの描写に基づいてわたしたちは言うことができますが、神の最終の行政の執行において、神聖な三一の第三であるキリストは、神聖な三一の究極的完成です。
忠信な証人
啓示録第一章二節は、イエス・キリストの証しについて語っています。「証人」はその人のことを言っていますが、「証し」はその人が担うもの、彼の働きと行ないを言っています。例えば証人とは、法廷において証言をする人であり、証言は彼の行なったことを示すことです。主イエスは神の忠信な証人であり、神を証しして召会を生み出されました。召会を生み出すことは彼の証しです。言い換えれば、証人はキリストご自身のことを言っており、彼の証しは召会のことを言っています。イエスは証人であり、彼から出て来たものは証しとしての召会でした。啓示録はイエスの証しを提示しており、それはキリストの団体の表現としての召会です。
人の創造における神の目的は、彼ご自身の団体的な表現、証しを持つことであり、この目標にしたがって、人は神の証しとなるために神のかたちに造られました(創一・二六)。イエスの生けるパースンは神のかたち、表現、証しです。イエスは彼の人の生活において神を完全に表現しました。彼は神の真の「写真」でした。今やこの一枚の写真は信者たちにおいて複製されています。イエスは神の証しであり、神の表現です。神は彼の証し、すなわち召会を拡大する必要があります。最初の神・人、すばらしいすべてを含むキリストは、今や命を与える霊としてわたしたちの中に生きておられます。彼はわたしたちの命であり、わたしたちは彼を経験し、享受し、彼で構成され、彼の表現のために彼を生きます。団体の神・人の生活、すなわち多くの神・人(第一の神・人の複製として)の生活は真の召会生活(イエスの証し)です。
啓示録によれば、わたしたちが主イエス・キリストを経験し、享受し、認識することは何であれ、それはまた、三一の神を経験し、享受し、認識することであることを、わたしたちは知る必要があります。今日、神は団体的な表現、召会を持っておられます。それは神の表現としてのイエスの証しです。信者であるわたしたちの運命は、わたしたちがイエスの証しとして団体的な方法で三一の神を表現することです。
死人の中から最初に生まれた方
第一章五節において、御子は「死人の中から最初に生まれた方」として啓示されています。宇宙において、神は二つの創造を持っておられます。それは、彼の第一の働きによる創造と、彼の第二の働きによる創造です。わたしたちはみな最初の創造を知っています。しかし、神の第二の創造になじみの深い人は多くいません。神の第二の創造とは復活です。わたしたちの肉体は、神の第一の創造の中にとどまっていますが、わたしたちの霊は再生されました。それは再創造されたことを意味します。ですから、霊は神の第二の創造に属します。神の二度の創造においてキリストが最初です。コロサイ人への手紙第一章十五節は、キリストは全被造物の中で最初に生まれた方であると言い、啓示録第一章五節は、彼は死人の中から最初に生まれた方であると言っています。彼は死人の中から最初に復活した方であり、復活において最初に生まれた方です。わたしたちは彼の復活に続く必要があります。
地上の諸王の支配者
御子は地上の諸王の支配者です。多くの国家がキリストに敵対していますが、彼らは無意識のうちに、キリストの暦を使っています。歴史によれば、わたしたちがだれかの暦を使うことは、その者に従属しているということです。宇宙にはひとりの唯一の支配者がおられます。全人類は今日、キリストの暦を使い、彼の支配の下にあります。地上のすべての民族は彼の民です。そして彼は諸国民の支配者です。彼は地上における唯一の支配者です。全世界はキリストの王国です。
聖書が彼を諸王の支配者と呼ぶことは、彼が地上の支配者よりもはるか高くにおられると言うことです。地上には多くの王、大統領たちがいますが、これらすべての支配者はキリストです。この世の支配者たちは真の支配者たちではありません。キリストがこの世を支配しておられる方です。実際的な意味で、諸王の支配者であるキリストは、すべての諸王を退位させました。彼だけが真の支配者です。
さらに啓示録第十九章十六節によれば、キリストは王の王、また主の主です。キリストは支配者でもあり王でもあります。支配者として、彼は全地を支配しておられます。表面的には、諸王と大統領たちが地上を支配しており、主イエスは御座におられないかのように見えるかもしれません。しかし、この方は御座におられないかのように見えますが、それにもかかわらず、王位に就いているすべての者たちの支配者です。今日、全世界は主の支配の下にあります。あらゆる王、大統領、国家元首は彼の支配の下にあります。世界情勢全体は、どの国家の統制の下にあるのでもなく、彼の支配の下にあります。イエス・キリストは今日の宇宙の行政の管理者です。神はキリストを支配者とし、彼を支配者として高く上げました。彼は地上のすべての諸王の支配者であり、人に対する神のご計画を執行されます。彼は神の永遠のご計画を成就するために全宇宙を管理しておられます。
神聖な三一が全地において神のエコノミーを執行する
キリストは地上の諸王の支配者として、神の御座の前で燃えている神の七つの霊によって彼の使命を遂行されます(一・四、四・五、五・六)。この世の指導者はすべて、七つの霊の燃える火の下にあります。七つの霊は神の行政を遂行するために、今日この地上で燃えています。世界情勢全体は、七つの霊の燃える火の下にあります。七つの霊は地上で神の行政を執行しておられます。世界情勢と国際情勢はすべて、この火の方向づけの下にあります。
神の御座の前で燃えている七つの霊の火は、主権をもって世界情勢を統制してきました。天にある神の御座は世界情勢を決定する要因です。わたしたちは認識しなければなりませんが、今日、神の七つの霊が御座の前で燃えているのは召会に関してだけでなく、諸召会のための世界情勢に関してでもあり、神のエコノミーを完成するためです。諸召会が新エルサレムにおいて究極的に完成されるとき、わたしたちの神聖な三一に対する経験と享受は豊かさに満ちあふれたものとなります。
記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第4巻より引用