ダビデの子孫は 人であり神である

真理

サムエル記下第七章はこう言っています、「わたし[エホバ・神]はあなた[ダビデ]の身から出るあなたの子孫をあなたの後に起こし、彼の王国を堅く立てる。……わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(十二節後半、十四節前半)。ここの「あなたの子孫」は、文字どおり、ダビデの子であるソロモンを指しています。ヘブル人への手紙第一章五節後半によれば、ダビデの子孫は実際、神の長子であるキリストであって、キリストは神性と人性を持っておられます。肉体と成ること、十字架につけられること、復活の過程を通して、神の御子であるキリストは神の長子となりました。神の多くの子たち、すなわち、キリストの兄弟たちは、長子であるキリストのかたちへと同形化されます(ローマ八・二九)。この事は以下の事を示しています。すなわち、神がご自身のエコノミーの目的において人となったのは、キリストの中で、わたしたちキリストの中にある信者、神の子供たちを、命、性質、構成において(神格においてではない)、神とならせるためであるということです。ここで示されていることの意義は極めて重大であり、サムエル記下第七章の予言は新約において完成します。

 

イエス・キリストの本質
イエス・キリストは、今日この地上で有名です。あらゆる所で、ほとんどすべての人が、イエス・キリストについて何らかのことを知っています。しかし、だれがイエス・キリストの本質を知っているでしょうか? ある人は、イエス・キリストは人となられた神である、だから彼は神・人である、と言いました。これは良いのですが、わたしたちはこの神・人の本質を知っているでしょうか?

わたしたちはまず「本質」とは何であるのかを理解する必要があります。例えば、ある金属には外観がありますが、その外観の内側には内なる要素があり、その要素の内側には本質があります。オレンジの本質を知るためには、皮をむいてその内容を見なければなりません。まず、あなたはその要素を、次に要素の内側に、本質があるのを見ることができます。わたしたちを養うのは、オレンジのその本質です。ですから、わたしたちはイエス・キリストの本質、特にそのパースンの本質を認識する必要があります。

イエス・キリスト――
神のひとり子であり神の長子である
ヨハネによる福音書第一章は、イエス・キリストがもともと神のひとり子であったと、とてもはっきりと述べています(十四節)。しかし、書簡に来るとき、ローマ人への手紙は、キリストが多くの兄弟たちの間で長子であると言っています(八・二九)。ヘブル人への手紙は、キリストが再び来るとき、長子として神によって遣わされると言っています(一・六)。キリストが神のひとり子から長子となるまでの過程は、単純なものではなく、肉体と成ることから開始しました。ヨハネによる福音書第一章は、言であった神が肉体と成り、この神がまた父からのひとり子であったと言っています(一・十四)。御父は源であり、御子は表現です。御子は肉体と成る前はひとり子でしたが、肉体と成り、その中へと入ると、最後のアダムであるイエスとなりました(Ⅰコリント十五・四五)。最後のアダム、すなわちイエスは、神でもあり人でもあります。この事はよく聞く言葉であるかもしれませんが、その意味を説明するのは容易ではありません。

過去の永遠において、神は人性も人の体も持っておられませんでした。神は人となった時、血と肉体と人性を持ちました。ですから、ヘブル人への手紙第二章は言っています、「子供たちが血と肉にあずかっているので、同様に彼ご自身も同じものにあずかられたのです」(十四節)。ですから、イエスは神でもあり人でもあります。イエスの中には神である部分があり、それは神のひとり子である部分です。しかし、彼は肉体と成った時、物質の肉体を着られたのですが、その肉体は彼の人性、人の部分であり、神性とは何の関係もありませんでした。主イエスは彼の人性を伴う、肉体をもって地上で三十三年半の生活をしました。彼は人の肉体を着ていたのに、どうして神の御子であることができたのでしょうか? ローマ人への手紙第一章四節はわたしたちにこう告げています、「死人の復活から、力の中で神の御子と明示された」。

使徒行伝第十三章三三節は言っています、「神は彼を復活させて……それは詩篇第二篇にも、『あなたはわたしの子である.この日わたしはあなたを生んだ』と書き記されているとおりです」。ここの「子」は、長子でしょうか? それともひとり子でしょうか? もし彼がひとり子であるなら、彼はすでに永遠においてそうであられるので、再び生まれる必要はなかったでしょう。しかし、主イエスの復活の日に、彼の人性の部分は再び生まれました。彼の人性の部分はまず、母の胎から生まれたものであり、人に属しています。ですから、彼は神の子ではなく、人の子と見なされました。こういうわけで、彼は人の子とも呼ばれています(マタイ八・二〇九・六)。復活によって、彼の人性の部分は再び生まれ、神の御子と明示されました。

今や、わたしたちは尋ねる必要があります、「神であるキリストの本質は何ですか? 人であるキリストの本質は何ですか?」。ローマ人への手紙第一章三節から四節を読みましょう、「彼の御子に関するものです.この方は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示されたわたしたちの主イエス・キリストです」。この二つの節は、キリストのパースンの本質に触れます。わたしたちは少しずつこの事を学んでいき、この事に注意を払う必要があります。

神・人イエス・キリストのパースン
キリストのパースンには二つの面があります。一つの面は、彼が神の御子であるというものであり、もう一つの面は、彼がダビデの子孫、すなわち人であるというものです。神・人としてのキリストは、神性と人性の両方です。なぜなら、彼は神と人の両方であるからです。神は神性であり人は人性ですから、この一つのパースンの中に、神性と人性があります。神の御子(神性)とダビデの子孫(人性)は混ざり合って一つのパースンとなります。

ダビデの子孫
彼の人性において
イスラエルの王ダビデは、キリストの父祖、先祖の一人でした。キリストは人として、彼の人性において、ダビデの子孫です。マタイによる福音書第一章にキリストの系図があります。それはアブラハムの子とダビデの子としてのキリストについて語っています(一節)。子とは子孫を意味し、子孫は子ですから、ダビデの子孫とはキリストの人性のことを言っています(二二・四二―四五)。

もしキリストが新創造、新しい人に属すると言うなら、わたしたちは絶対に同意するでしょう。しかし、わたしたちがここで見る必要のあることは、キリストがダビデの子孫として、神の旧創造(古い人――ローマ六・六)に属する人の子孫であるということです。コロサイ人への手紙第一章十五節はこう言っています、「御子[キリスト]は……全被造物の中で最初に生まれた方です」。ですから、人性におけるキリストのパースンの本質において、あなたが覚えていなければならない最初の事柄は、人性におけるキリストが旧創造、古い人に属するということです。

キリストが旧創造に属する人の子孫であることは、キリストの肉体と成ることを意味します(ヨハネ一・十四)。キリストの肉体と成ることは彼を引き下げました。彼は栄光の神でした。ところが彼の肉体と成ることは、彼を彼の栄光から人になることへ引き下げました。彼は底にまで下って行き、古い人に属されました。彼は肉体と成ることの中でやって来て、新創造の一部となったのではなく、神の旧創造の一部となられました。これらはキリストのパースンの本質の項目です。

また、キリストは人性において、「肉によれば」、その様において「罪の肉」ですが、罪はありませんでした(ローマ八・三)。キリストは肉体の中にありましたが(Ⅰヨハネ四・二)、彼の肉体は罪の肉の様にあるだけで、罪はありませんでした。「キリストの肉の体」は、神・人イエス・キリストの外枠です(コロサイ一・二二)。ここまでに、わたしたちは人性におけるキリストのパースンの本質について、三つの項目を見てきました。キリストは旧創造に属していたので、肉体におけるキリストは「古い人」(ローマ六・六)であり、キリストは罪のない肉体を持っておられましたが、彼はなおも罪の肉の様の中にありました。ですから、キリストは外側の枠であり、彼の肉の体において、そんなにすばらしくはありませんでした。

サタンと罪(わたしたちの性質における内なる罪)の両方が、この肉の中に含まれています(ヘブル二・十四ヨハネ三・十四ローマ八・三後半)。サタンは罪を犯すよう人をそそのかします。それによって、彼は人に自分の罪深い性質を注入しました。ローマ人への手紙第七章は、罪がわたしたちの肉に内住していると言っています(十七―十八節)。わたしたちの肉には神によって罪定めされるもの、すなわち罪があります。罪はサタンから来ます。それはサタンの性質です。罪は今やわたしたちの肉にありますから、サタンは罪に結び付いており、サタンと罪は肉と、間接的にキリストの肉体とさえかかわりがあります。

この世の支配者であるサタンを通しての、この肉におけるこの世とのかかわりもあります(ヨハネ十二・三一)。このダビデの子孫の肉は、サタン、罪、この世とかかわりのある旧創造の古い人です。この子孫は旧創造に属します。この子孫は旧創造です。この子孫は肉を持っており、この肉にはサタン、罪、この世がすべてかかわっています。あなたは、旧創造にあり、サタン、罪、この世とかかわっているそのような人になりたいでしょうか? ともかく、イエスは肉体にあるそのような人、ダビデの子孫になられました。

ダビデの子孫は彼の人性において息子化される
イエス・キリストの人性の部分はまだ神の御子ではありませんでした。ですから、このダビデの子孫は人性において、息子化されて(明示されて)、神の御子となる必要がありました。イエスの人性は旧創造、古い人に属しており、サタン、罪、この世とかかわりのある肉体を持っておられました。ですからこの部分は、神聖にされ、「息子化」され、御子と「明示」されなければなりませんでした。それは、それが神の御子の一部となるためでした。

ローマ人への手紙第一章四節の「明示された」という言葉が何を意味するのかを言うのは、とても難しいです。「息子化される」とは、子とされることを意味しますが、「明示される」とは何でしょうか? キリストはすばらしいパースンです。彼には二つの部分があります。それは人の部分と神の部分です。人の部分は人に属するものです。神の部分は神聖なものです。人に属する部分は肉体の中にあり、否定的な事柄とかかわりがあります。そして、神聖な部分はすばらしいものです。そのような肉体にある人の部分が、どのようにして神の御子の一部分となり得るのでしょうか? キリストは彼の復活の中で、彼の人性を神聖なものとされました。。彼の復活は、イエスの人性を神性の水準にまで引き上げました。ここにキリストのパースンの本質があります。これはとてもとても深いです。イエスの神性は、、神聖な力と神聖な要素を持つ聖別の霊が、イエスの人性を変化させ、それを神聖なものとしたものです。これが、明示されることの意味するものであり、これが息子化することです。

明示することは、引き上げるという意味もあります。わたしたちは、品物に目印をつける(明示する)とき、それを引き上げます。例えば、ここにたくさんの木材があったとして、そのうちの一つだけを選ぶなら、その一つの木材は自分にとって引き上げられたものであり、それに目印をつけたことになります。市場に行って魚を買うとき、たくさんの魚の中から一匹だけ選ぶなら、それを引き上げて目印をつけたことになります。同じように、キリストの神性である聖別の霊は、復活によって、キリストの人性を明示しました。すなわち、キリストの人性を引き上げました。それは、キリストの人性を神性の中へと引き上げることです。それはまた、キリストの人性を再び生まれさせることです。

サムエル記下第七章十二節から十四節の成就
神は預言者ナタンを通してダビデに語りました、「あなたの日が満ちて、あなたが父祖たちと共に眠るとき、わたしはあなたの身から出るあなたの子孫をあなたの後に起こし、彼の王国を堅く立てる。彼がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の座を永遠に堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」(サムエル下七・十二―十四前半)。この予言の成就において、わたしたちは、人性におけるダビデの子孫としての、キリストのパースンの本質を見てきました。

神の御子
神の御子はキリストの神聖な部分です。彼は彼の人性において神の御子と明示されました。彼は肉体における人の子でした。どのようにして彼は神の御子、そのように神聖になり得たのでしょうか? それは復活において明示されることによりました。この明示されることは、聖別の霊にしたがい、力の中ででした。聖別の霊は、ダビデの子孫、すなわち人性の人(ローマ五・十五十七後半十九)における神性です。ローマ人への手紙第九章五節は言います、「キリストは……万物の上にいまし、永遠にほめたたえられる神です」。キリストは神として、ダビデの子孫、人性の人としてのご自身の中に、神性を持っておられました。

肉体にある人としてのイエス・キリストは、聖別の霊によれば、死人の復活により、力の中で神の御子と明示されました。復活は、手順を経た三一の神の究極的完成です。復活はパースンです。主イエスは「わたしは復活であり」と言われました(ヨハネ十一・二五前半)。過去の永遠における三一の神はただ三一の神であり、神性だけでした。しかし彼は肉体と成ること、人の生活、死、復活を経過されました。そして彼は完成されて、神性だけでなく、人性も持たれました。今や彼は肉体と成ること、人の生活、死のすべての手順を経過されました。復活において、彼は完成された三一の神(復活そのもの)となられました。

そのような復活、すなわち手順を経た三一の神の完成から、肉体における人としてのイエス・キリストは神の長子とされました(ローマ八・二九)。彼は神の御子ですが、今や神の御子は以前の神の御子と違います。神の御子は神のひとり子にすぎず、神性を持つだけでした。しかし今や彼は人性を持たれ、彼の人性は神聖なものとされて、神の御子としての彼の一部になりました。今やこの神の御子は異なっています。この神の御子は今や、神の長子となりました。

ひとり子は決して長子にはなり得ません。キリストが長子であるとは、多くの子たちが続くことを示しています。これらの多くの子たちは神の選ばれた民です。何百万人もの多くの子たちはみな、同じ復活の中で再生されました(Ⅰペテロ一・三)。この復活において、キリストは彼の人性において、神の御子となりました。その大きな復活、すなわち手順を経て完成された三一の神の中で、キリストの人の部分は神聖になり、息子化されました。同時に、すべての彼の信者たちは再生されました。もちろん、これらの信者たちも人でした。ですから彼の復活の中で、これらすべての信者たちは、再生を通して神聖にされ、神の多くの子たちとなりました。こうして、キリストは多くの兄弟たちを伴う神の長子となられました。

キリストは彼の肉体と成る前、神のひとり子であって(ヨハネ一・十八)、神性を持つだけで、人性はありませんでした。イエス・キリストは復活において神の長子となり、神が創造された彼の人性は引き上げられ、神性と人性の両方を持つようになりました。再生された信者たちは人性と神性の両方を持ち、この神の長子のかたちに同形化されます。

福音における神の目的
神が唯一の神として人となることを欲しておられるのは、彼によって贖われた堕落した人が彼の多くの子たちとなり、彼の神格においてではなく、命と性質において神と同じになるためです。この神・人イエス・キリストのパースンは、福音における神の目的を示します。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第6巻より引用