サムエル記下第七章で、神の心にかなった人であるダビデは言いました、「見よ、わたしは香柏の家に住んでいるが、神の箱は幕の中にとどまっている」(二節)。これは、ダビデが神のために家を建てるべきであると感じていたことを示しています。それから神は預言者ナタンを通してダビデに応答し、予表を用いて予言し、神の目的はダビデが神のために宮を建てることではなく、神がご自身をダビデの中へと建造し込むことであったことをダビデに啓示しました(十二―十四節前半)。ここで神がダビデに建造に関して啓示した事は、神がこれまで人に啓示したことのないものでした。
新約において、神聖な啓示は最高水準に到達しました。この啓示は、サムエル記下第七章で神がダビデに啓示した建造の目標を含んでいます。聖書の中の神の建造の観点によると、神のみこころにしたがったエコノミーと目標は、神ご自身を人の中へと建造し込み、人を神の中へと建造し込むことです。これは、わたしたちが今日神のみこころを完成するために、見なければならない建造についての内在的な啓示です。
聖書の神聖な啓示は漸進的である
創造された人と堕落した人
創世記で、初めに神は良い性質を持った人(アダム)を創造されました。彼の中には罪深いものや邪悪なものはありませんでした。神が創造したものを見たとき、人を含めて、どれも「非常に良かった」のです(創一・三一)。神は人を楽しみの園の中へと、命の木と善悪知識の木の前に置き、アダムに善悪知識の木から食べないように命じ、それから食べる日に必ず死ぬと告げられました(二・十七)。これは、人が命の木にあずかることを、神が願われたことを示しています。しかしながら、アダムは堕落し、良心は活動し始め、善を行ない悪を捨てるべきであることを認識したので、神を畏れ、礼拝しました。その後、さらに多くの神聖な啓示がエノクとノアに与えられました。
ヨブの例証
アダムからヨブまでの期間、神聖な啓示はいくらか不明瞭でした。しかしながら、神はヨブの上で一歩進んだ働きをされました。ヨブは神を畏れ、神を礼拝し、力を尽くして高潔さ、正しさ、完全さにおいて自分自身を建て上げた人でした。しかしながら、神はすべてのものをヨブからはぎ取り、彼の唯一の必要は神ご自身であることを彼に示されました。神はこう言っておられたかのようです、「ヨブよ、わたしはあなたに自分の高潔さや完全さを建て上げてもらいたくない。わたしは、あなたがわたしをもって自分自身を建て上げることを願う。あなたは高潔で完全な人であるべきではない。あなたは神・人であるべきである。あなたはわたしに欠けていることを認識する必要がある」。ヨブの時代、神聖な啓示はそれほど進展していませんでした。その中で啓示されていたのはおもに、人は神によって神のために創造されていること、人は神を必要とし、神を命として受け入れる必要があることでした。人は完全に、絶対的に神に属しているべきです。もしわたしたちがヨブ記で止まるなら、神を持てば十分であると思うかもしれません。なぜなら、この時には、神の建造に関して何も啓示されていなかったからです。しかしながら、神を受け入れることだけでは十分ではありません。なぜなら、これから見るように、神は建造を願っておられるからです。
アブラハムに与えられた啓示
神はヨブからアブラハムに進んだ後、アブラハムに良き地の約束と、その地を享受する子孫に関する約束を与えられました。良き地を享受した人であるイサクは、キリストの予表でした。良き地そのものもキリストの予表でした。良き地の豊かな産物は(申八・七―十)、わたしたちの命の供給としてのキリストを表徴します。この命の供給は最終的に命を与える霊と成り、この霊はキリストの実際です。神がアブラハムに約束された福音の祝福は、実は実際におけるキリスト、すなわちその霊でした(ガラテヤ三・十四)。
ダビデに与えられた啓示
ダビデに到達した時、啓示はさらに進み、人は神を必要とするだけでなく、神が人の中へと建造し込まれる必要があることを見せています。ダビデは神のために家を建てることを願いましたが、神は彼を阻止し、神がダビデのために家を建て、彼に子孫を与えると告げられました。ここでわたしたちが見るのは、神がご自身を人の中へと建造し込んで、一つの家を生み出し、この建造の結果は子孫、すなわちキリストであるということです。神が欲しているのは、わたしたちの命また命の供給となることだけでなく、それ以上に彼ご自身をわたしたちの中へと建造し込むことです。神の願いは彼ご自身をわたしたちの中へと建造し込み、わたしたちを彼の中へと建造し込むことです。これこそが、神がサムエル記下第七章で予表を用いてダビデに予言したことの内在的な意義です。
ダビデは神の心にかなう人でしたが、神はこれだけでは不十分であることを知っていました。そこで神はダビデに、ダビデのために家を建てるために彼の子であるキリスト(後にダビデの子孫となる)を用いることを啓示しました。一面で、この子孫は良き地であり、もう一面で、この子孫は良き地を享受する人です。実は、この良き地(キリスト)を享受するのは、わたしたちの内におられるキリストです。神はキリストにあってわたしたちとなり、良き地を享受する者となりました。今生きているのはもはやわたしたちではなく、キリストがわたしたちの中に生きておられるのです(ガラテヤ二・二〇)。キリストはわたしたちの中に生きており、良き地としてのご自身を享受しています。
新約において神聖な啓示は最高水準に到達する
キリストは神の建造のために、種としてのご自身を土壌としてのわたしたちの
中へとまく
マタイによる福音書第十三章は、キリストが種としてのご自身を、土壌としてのわたしたちの中へとまかれたことを啓示しています。キリストは種であり、わたしたちは種の成長のための栄養分のある土壌です。復活におけるキリスト、命を与える霊としてのキリストが、ご自身をわたしたちの中へとまいたのは、ただわたしたちの中にとどまるためだけではなく、わたしたちの中で成長するためです。キリストがわたしたちの中で成長することは、建造と等しいのです。
ご自身をわたしたちの中へとまいたキリストは、今わたしたちの中で特別な働き、すなわち、わたしたちの心の中に、ご自身のホームを造る働きをしておられます(エペソ三・十七)。これが建造であり、それは神性と人性のミングリングを通して遂行されます。主イエスは、ヨハネによる福音書第十四章二三節でこのような建造について述べられています、「だれでもわたしを愛する者……わたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る」。住まいを造ることは、家を建造することです。この家(住まい)は三一の神のためであるだけでなく、わたしたちのためでもあります。ですから、これは相互の住まいです。
三一の神の具体化としてのキリストはわたしたちの中へと建造し込まれる
ですから、わたしたちは、神をわたしたちの命また命の供給として受け入れるだけでは十分でないことを認識する必要があります。わたしたちは今日、キリストがわたしたちのすべて、すなわち、わたしたちの命、息、食物、飲み物、衣服、住まいであると言うかもしれません。しかし、これらすべての面でキリストを持つとしても、まだ十分ではありません。なぜなら、わたしたちが必要とするのは、三一の神の具体化であるキリストがわたしたちの中へと建造し込まれ、わたしたちの中へと構成し込まれることであるからです。もしわたしたちが神の建造を見るなら、人を助けてさらにへりくだらせようとしたり、柔和にならせようとしたりしないでしょう。これは人の美徳であるにすぎず、神が求めておられるものではありません。
ピリピ人への手紙第三章十二節から十六節は、キリストを追い求めてキリストを獲得することについて語っています。キリストを追い求めてキリストを獲得することは非常に良いのですが、十分ではありません。ヨハネによる福音書第十四章とエペソ人への手紙第三章がいずれも啓示しているのは、キリストがわたしたちの中へと入って来て、ただわたしたちの中に住むだけでなく、特にわたしたちの内なる人の中でご自身のためにホームを造られるということです。これが建造です。わたしたちは、わたしたちの霊の中に住んでおられるキリストが、ご自身をわたしたちの心の中へと建造し込み、わたしたちの心を、わたしたちの人性と共に、彼のホームとしてくださることを必要とします。これが今日キリストが行なっておられることです。
新エルサレム――神性と人性のミングリング
聖書における神聖な啓示の結論は建造、すなわち新エルサレムです。この建造は、神性と人性のミングリングです。これは啓示録第二一章における新エルサレムの記述によって証明されます。三節は新エルサレムが「神の幕屋」であると言っています。二二節はまた、「わたしはその中に宮を見なかった.主なる神、全能者と小羊が、その宮だからである」と言っています。神の幕屋としての新エルサレムは、神が住まわれるためであり、宮としての神と小羊は、贖われた聖徒たちが住むためです。これは、新エルサレムが、神と人の相互の住まいであることを示しています。さらに、この建造は人の構成です。門は真珠であり、イスラエルの子たちの十二の部族の名が刻まれており(十二節)、十二の土台の上には小羊の十二使徒の十二の名があります(十四節)。これが明確に示しているのは、新エルサレムが、本質、中心性、普遍性である三一の神と、神の贖われた人との構成であるということです。
新エルサレムは、神性と人性が共にミングリングされて、一つの実体となっている構成です。すべての構成要素は同じ命、性質、構成を持っており、こうして一つの団体の人です。これは、神が人と成ったのは、人が神格においてではなく命と性質において神となるという事柄です。この両者、神と人、人と神は、共にミングリングされることによって、共に建造されます。これが神の建造の完成と結論です。このミングリングの中で、神と人、人と神は共にブレンディングされて一つの実体となります。この実体は神の建造であり、それは神と人の相互の住まいです。この実体は、神の性質と人の性質の両方を所有し、贖うキリストの妻でもあります。この実体、すなわち新エルサレムは永遠に存在し、新天新地の中心性と普遍性となります。これが聖書の完全で全体的な啓示です。
建造する神と建造された神を供給する
マタイによる福音書第十六章十八節で主イエスは、「わたしは……わたしの召会を建てる」と宣言されました。キリストはどのようにして彼の召会を建てられるのでしょうか? 彼が召会を建てられるのは、単に罪人を救い、彼らを信者とし、ご自身の肢体とすることによってだけでなく、ご自身を彼らの中へと建造し込むことによってです。わたしたちがキリストを信じたとき、彼はわたしたちの中へと入って来て、徐々にご自身をわたしたちの中へと建造し込む働きを始められました。
コリント人への第一の手紙第三章十節でパウロは言います、「わたしに与えられた神の恵みにしたがって、わたしは賢い建築家のように土台を据えました.そして他の人がその上に建てます。しかし、どのようにその上に建てるか、各自は注意しなさい」。この建造の土台(キリスト)は、唯一ですが、働き人が異なれば、用いる材料も異なるので、その建築も異なります。ですから彼は続けて、「その土台の上に、……金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって」建てることについて語られました(十二節)。
手順を経た三一の神は、キリストの中に具体化され、究極的に完成された霊として実際化されています。これが、わたしたちが礼拝し、人に宣べ伝え、供給する神です。今日、彼はご自身を、彼の贖われた人の中へと建造し込んで、要素としてのご自身をもって、また贖われ引き上げられた人性からのものをもって、家を生み出しておられます。この家は召会、キリストのからだです。この家は、三一の神の具体化であり、その霊として実際化されたキリストの拡大、拡張です。わたしたちが神の定められた道の四つの段階(生み、養い、成就し、建造すること)を実行するとき、わたしたちの働きは、手順を経た三一の神の具体化であるキリストの土台の上になければなりません。
今日、主の回復において、神はご自身を彼の選ばれた人の中へと建造し込んでおり、わたしたちの働きは、神を人に供給することです。そうです、わたしたちは罪人を救い、聖徒たちを養い成就する必要があります。しかしながら、最も重要な事は、わたしたちが神を人に供給することです。わたしたちが供給する神は、建造する神であるだけでなく、建造された神でもあります。もしわたしたちがこのように神を供給しないなら、わたしたちの働きは木、草、刈り株となるでしょう。
わたしたちは、神が心の中へと造り込まれることを必要とする
ダビデは神の心にかなった人でしたが、肉の情欲にふける事の上で大きな失敗をしました(サムエル下十一・一―二七、列王上十五・五)。これは、単に神の心にかなった人であるだけでは何の意味もないことを示します。なぜなら、ある人は神の心にかなっていても、依然として空虚で、神が彼の心の中へと造り込まれていないかもしれないからです。サムエル記下第七章で、神はこう言っておられたかのようです、「ダビデよ、あなたはわたしの心にかなった人であるが、わたしがあなたの心の中へと造り込まれることを必要とする。わたしがあなたの存在の中へと建造し込まれて、あなたを命と性質においてわたしとならせる必要がある。あなたがわたしの心にかなっているだけでは十分でない。あなたは、『わたしにとって生きることは神です』と言うことができなければならない」。もしダビデがこのような人であったなら、堕落しなかったでしょう。
人は神の心にかなっていても、神がなく、神が彼の中へと造り込まれていないかもしれません。ダビデの堕落は、たとえわたしたちが神にかなった人であっても、もし神がわたしたちの中へと造り込まれていなければ、わたしたちは他の人と同じであるという事実を例証しています。もし神がわたしたちの心の中へと造り込まれていないなら、神の心にかなっているということに、何の価値があるのでしょうか? わたしたちが、神がご自身を彼の選ばれた人の中へと造り込むのを願われることを認識し、またこれがわたしたちすべてが必要としていることであると認識するなら、わたしたちの働きの目標は、キリストを人に供給して、三一の神がご自身を彼らの存在の中へと建造し込み、彼らも三一の神の中へと建造し込まれて、新エルサレムの一部となるということになります。
建造の目標――新エルサレム
聖書は命の木、流れる川、金、ブドラク、縞めのうのような尊い材料、建造された妻で始まっています。キリストはその霊と成ってわたしたちの中へと入り、わたしたちの命となって、一面でわたしたちの中で働き、わたしたちを造り変えて宝石とならせています。もう一面で、彼ご自身(神性)とわたしたち(人性)を用いて建造して、一つの家、住まいを生み出しています。この住まいは、相互の住まいであり、新エルサレムにおいて究極的に完成します。聖書の初めで神の目標を見せており、聖書の終わりで再び見るのは、命の木と生ける水の流れ、三種類の材料(金、真珠、宝石)、建造された妻である新エルサレムです。これは神が達成しようとしている目標であり、神とわたしたちはいずれもそれに向かっています。わたしたちの「地図」としてのこの啓示をもって、わたしたちはどこにいるのか、また永遠においてどこにいるのかを知ることができます。神の建造が速やかに完成するために、わたしたちがこの路線に沿って前進しますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第6巻より引用


