花嫁戦士

真理

サムエル記上第二五章以降、アビガイルは常に、戦士であるダビデのそばにいて、彼の戦いにおいて彼に従いました(四〇―四二節)。アビガイルの予表が描写しているのは、召会が主イエスと共に霊的戦いに加わるということです。

召会はキリストの配偶者、花嫁として、エペソ人への手紙第五章二五節から二七節において啓示されています。この配偶者は、第六章十節から十三節においては戦士、戦う者となっています。啓示録第十九章において、わたしたちは召会のこれら二つの面を見ます(七―八十一―二一節)。

召会として、わたしたちはキリストのからだ、神の住まい、神の王国、神の家、新しい人であるだけでなく、花嫁と戦士でもあります。花嫁として、わたしたちは美しくなければならず、しみやしわがなく、細糸の亜麻布の衣を着ていなければなりません。戦士として、わたしたちは装備して、神の敵と戦わなければなりません。

花嫁の用意
啓示録第十九章七節は言います、「わたしたちは喜び歓喜し、彼に栄光を帰そう。小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからである」。「彼の妻」は花嫁のことであり、召会(エペソ五・二四―二五三一―三二)、キリストの花嫁(ヨハネ三・二九)を指しています。しかし、啓示録第十九章八節から九節によれば、ここの妻(キリストの花嫁)は、千年王国の中の勝利者たちだけを含んでいます。ところが第二一章二節の花嫁(妻)は、千年王国の後から永遠に至るまでの、すべての救われた聖徒たちから成っています。花嫁の用意は勝利者たちの命の円熟にかかっています。さらに勝利者たちは、分かれた個人ではなく、団体の花嫁です。この面のためには、建造が必要です。彼らは命が円熟しているだけでなく、一人の花嫁として共に建造されています。

キリストが聖徒たちから生かし出されて、彼らの主観的な義となる
第十九章八節は言います、「彼女は輝く清い亜麻布を着ることを許された。この亜麻布は、聖徒たちの義である」。「清い」(あるいは純潔な)は性質のことを言っており、「輝く」は表現のことを言っています。「義」は、義なる行為と訳すこともできます。ここの義は複数形であり、わたしたちが救われるために受けた義を指しているのではありません(Ⅰコリント一・三〇)。わたしたちの救いのために受けた義は客観的です。それは、わたしたちが義なる神の要求を満たすためです。ところが、ここの勝利を得た聖徒たちの義は主観的であり(ピリピ三・九)、彼らが勝利を得たキリストの要求を満たすことができるためです。ですから、亜麻布は信者たちの勝利の生活を指しています。この亜麻布は、信者たちの内側から生かし出されたキリストご自身です。

マタイによる福音書第二二章の婚宴の礼服
聖書全体の啓示によれば、わたしたち救われた人には二つの衣が必要です。一つはわたしたちの救いのため、もう一つはわたしたちの褒賞のためです。救いのためには、わたしたちを覆う衣が必要です。この衣はルカによる福音書第十五章で、放蕩息子に着せられた衣です。放蕩息子は家に帰って来ると、父親に言いました、「お父さん、わたしは天に対しても、あなたの前でも、罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません」(二一節)。彼は、自分は父親の前に出る資格がないと思っていました。ところが、父はしもべに、「急いで、あの最上の衣を持って来て彼に着せ[なさい]」と言いました(二二節)。この最上の衣は、わたしたちの義としてのキリストを表徴しています。それは、わたしたちが神の御前で神によって義とされるためです。わたしたちはみなこの衣、第一の衣、すなわち、わたしたちの義としての、わたしたちの義認としてのキリストを持っています。それは、わたしたちを義なる神の御前に立たせることができるようにします。

しかしながら、わたしたちはまた第二の衣、すなわちマタイによる福音書第二二章十一節から十二節にある婚宴の礼服を必要とします。この衣はわたしたちの救いのためではなく、わたしたちの褒賞のためであり、神の御子の婚宴に参加する資格を与えるものです。第一の衣はわたしたちを資格づけて、わたしたちの救いのために神にもたらされます。第二の衣はわたしたちを資格づけて、わたしたちの褒賞のためにキリストにもたらされます。第二の衣は、わたしたちの内側の聖霊の働きです。それは実は、わたしたちが生き、生かし出すキリストです。それは、わたしたちの日常生活の中で、わたしたちを通して表現されるキリストです。これが啓示録第十九章八節の言っている「聖徒たちの義」です。また、マタイによる福音書第五章二〇節で言われている超越した義です。この節で主イエスは言われました、「わたしはあなたがたに言う。あなたがたの義が聖書学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の王国に入ることはない」。この節ははっきりと、わたしたちがパリサイ人の義にまさる義を持たなければならないことを示します。この義は、わたしたちの義認のために衣として受ける客観的なキリストではありません。そうではなく、それはわたしたちの日常生活として生かし出す主観的なキリストです。それは義とする衣ではなく、わたしたちが褒賞を受けるように資格づける衣です。

マタイによる福音書第二二章のたとえの中で、主は婚宴の礼服を着ないで、王が息子のために用意した婚宴に参加しようとして来た人のことを言っておられます。王は彼を見て、言いました、「『友よ、なぜあなたは、婚宴の礼服を着ないで、ここに入って来たのですか?』。彼は返事ができなかった。そこで、王はしもべたちに言った、『彼の足と手を縛って、外の暗やみに放り出しなさい。そこでは、泣き叫んだり歯がみしたりする』」(十一―十三節)。ここの婚宴の礼服は義認の衣ではありません。それは非常に特別な衣です。古代のユダヤ人の習慣によれば、婚宴に参加する人はみな特別な婚宴の礼服を着なければなりませんでした。もしわたしたちが小羊の婚宴に出たいなら、このような衣を着ていなければなりません。もしわたしたちがキリストの婚宴に参加する資格を得たいなら、キリストによって生き、日常生活の中でキリストを生かし出す必要があります。このキリスト、主観的なキリストが、わたしたちに婚宴に参加する資格を与える婚宴の礼服です。こういうわけで、わたしたちは義とする衣と婚宴の礼服の両方を必要とします。

啓示録第三章でも第二の衣について語っています。主はサルデスに在る召会に、その衣を汚さない者は、彼と共に歩み、また勝利者は「白い衣を着せられる」と言われました(四―五節)。この白い衣が婚宴のための衣です。主はラオデキヤに在る召会に、彼から「白い衣」を買いなさいと忠告されました(十八節)。ですから、啓示録では第二の衣が特に強調されています。もしわたしたちがこの衣を持っていないなら、婚宴を逃すでしょう。

詩篇第四五篇の刺繍された着物
これら二つの衣は詩篇第四五篇でも見られます。この詩篇において、王妃は二つの衣を着ています。一つはわたしたちの救いのための客観的な義に相当し、もう一つはわたしたちの勝利のための主観的な義に相当します。後者はマタイによる福音書第二二章十一節と十二節の婚宴の礼服と等しいです。詩篇第四五篇の王妃は召会を表徴しています。彼女の第一の衣は「金が織り込まれた」ものであり(十三節)、第二の衣は「刺繍された着物」です(十四節)。聖書では、金は神の神聖な性質を表徴します。わたしたちは救われた時、神の御前に出ることができる金が織り込まれた衣を受けました。これに加えて、わたしたちはもう一枚の衣、刺繍された着物を必要とします。この刺繍は聖霊の造り変える働きを表徴します。聖霊は今日、わたしたちにおいて働き、わたしたちを造り変えておられます。それは、刺繍する人が布に一針一針と刺繍するようなものです。わたしたちはすでに第一の衣を持っていますが、わたしたちの第二の衣は今、聖霊の刺繍する働きによって用意されつつあります。日ごとに、わたしたちは聖霊の針(聖霊の造り変えの働き)の下にいます。この衣はわたしたちに、キリストの裁きの座の前でキリストに会う資格を与えるでしょう。何とわたしたちはこの第二の衣を必要とすることでしょう! これは厳粛な事柄です。

小羊の婚宴
啓示録第十九章九節の小羊の婚宴は、マタイによる福音書第二二章二節の婚宴です。これは、勝利を得た信者たちに対する褒賞です。すべての救われた人があずかることができるのではなく、勝利者だけがそれに招かれています。ある人々は、「わたしたちが義とされ、贖われ、救われている限り、すべてがうまくいく」と言います。このような話を聞いてはいけません。わたしたちは義認を必要とするだけでなく、承認も必要とするのです。マタイによる福音書第二二章十四節は非常にはっきりと言っています、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。聖霊の刺繍の働きによって生み出された第二の衣を着ている人だけが選ばれて、小羊の婚宴に参加する資格を持つのです。啓示録第十七章十四節は、「彼と共にいる者たち、すなわち召され、選ばれた、忠信な者たち」と言っています。召されるのは一つの事であり、選ばれるのは別の事です。わたしたちは召されたという保証はありますが、選ばれるという保証はまだありません。これはキリストの裁きの座で決定されるでしょう。わたしたちは携え上げられた後、裁きの座で主の御前に立ち、彼はわたしたちが選ばれる資格があるかどうかを決定されます。選ばれた者だけが、小羊の婚宴に招かれます。

小羊の婚姻は、神の新約エコノミーの完成の結果です。神の新約エコノミーは、キリストの贖いと神聖な命を通して、キリストのために花嫁、召会を得ることです。全世紀を通して聖霊の不断の働きによって、この目標はこの時代の終わりに達成されます。その時、花嫁、すなわち勝利を得た信者たちは用意され、神の王国もまた来るでしょう。花婿は、全地を彼の王国として所有されますが、確かに彼の共同の王となる多くの副王を必要とされます。彼の共同の王たちはみな、彼の団体の花嫁です。

花嫁は戦士となる
第十九章十四節は言います、「そして天にある軍勢が白い馬に乗り、白くて清い亜麻布を着て彼に従った」。ここの軍勢は、第十七章十四節の召されて選ばれた忠信な者たちです。彼らは花嫁でもあり、小羊の婚宴に招かれた者です(十九・七―九)。婚宴に招かれた者と花嫁は同じ人です。花嫁は招かれた者を含み、招かれた者は花嫁を構成します。婚礼の後、すべての者は軍勢となるでしょう。

わたしたちは勝利を得た聖徒たちが二つの衣を持っていること、一つは救いのため、もう一つは褒賞のためであることを見ました。第十九章十四節の亜麻布は第二の衣です。勝利を得た聖徒のこの第二の衣は、小羊の婚宴に参加する資格と、主と共に彼の敵と戦う資格を与えます。ですから、婚礼の礼服は戦いの軍服になります。この第二の衣は、わたしたちに婚礼に参加する資格を与えるだけでなく、軍勢に加わる資格を与えます。この第二の衣は、わたしたちから生かし出されてわたしたちの日常生活の中で主観的な義となったキリストです。エペソ人への手紙第六章は、神のすべての武具がキリストであることを示しています。今日、わたしたちはまた、わたしたちの衣としてのキリストによって戦っています。さらに、わたしたちは遊撃隊ではなく、正規に編成された天の軍隊です。

婚宴と戦い
啓示録第十九章十一節から二一節でわたしたちは見ますが、婚宴の後、キリストは戦う将軍の身分で、彼の花嫁、すなわち彼の軍隊である婚宴に招かれた勝利を得た信者たちと共に来て、反キリストと、彼の下にいる王たちと、彼らの軍隊とに対して、ハルマゲドンで戦われます。その時、主にはまだ三人の敵が残っています。それはサタン、すなわち龍、さらに反キリスト、すなわち海からの獣、そして偽預言者、すなわち地からの獣です。反キリストにそそのかされて、人は戦いを挑みます。反キリスト、偽預言者、十人の王、彼らの軍勢は、小羊と戦います(十七・十一―十四)。

ハルマゲドンの戦いは、来たるべき千年王国へのすべての障害を取り除くでしょう。わたしたちは宴席をする前に、宴席場を掃除しなければなりません。宇宙全体が宴席場になるので、キリストと彼の花嫁は共に働いてごみを一掃し、ごみは「ごみ箱」、火の池に投げ込まれるでしょう。神の宇宙での掃除は、創世記第一章に始まりました。まず、神はごみを掃いて海の中に入れました(二節)。なぜならその当時、海はこの宇宙の「ごみ箱」であったからです。啓示録第十九章で、反キリスト、偽預言者、彼らの軍勢は、「ちり取り」に掃き入れられます。主のハルマゲドンでの戦いは、実はごみを掃除して宇宙の「ごみ箱」へ投げ込むことです。主は反キリストに向かって言われるでしょう、「おまえはここで何をしているのか? わたしに対して宣戦布告したのか? これはおまえを掃除するまたとない機会である。わたしの花嫁はこの事を手伝ってくれるだろう」。

キリストは地上に戻ってきて、ハルマゲドンで反キリストに従った異邦人を滅ぼされた後(十六・十四十六十九・十一―十五十九―二一)、地上に残っているすべての人をキリストの栄光の御座の前に集めて裁きます(マタイ二五・三二)。主はこれらの悪鬼に従った者たちに言います、「おまえたち、のろわれた者よ、わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火の中に入れ」(四一節)。千年王国の後、悪魔サタンも火と硫黄の池の中に投げ込まれるでしょう(啓二〇・十)。大いなる白い御座での裁きの後、すべての死んだ未信者、悪鬼、死とハデス[陰府]もみな火の池の中に投げ込まれます(十一―十五節)。その時以降、もうごみはないでしょう。すべてのごみは終極的な「ごみ箱」、すなわち火の池の中に入れられます。新エルサレムには、ごみはありません。あるのは金、真珠、宝石だけです。

花婿キリストは彼のハネムーンの間に宇宙を一掃されます。キリストは彼の花嫁の助けを得て彼の敵と戦われます。花婿は総司令官であり、花嫁は軍隊です。これは何というハネムーンでしょう! 反キリストと偽預言者は火の池の中に投げ込まれ、サタンは縛られてアビスに投げ込まれます。その時キリストが歓喜するだけでなく、わたしたち彼の花嫁も彼と共に歓喜します。これはわたしたちとわたしたちの花婿であるキリストが共に享受するすばらしいハネムーンです。

主を賛美します、わたしたちはごみではありません。わたしたちは宝です! わたしたちは火の池の中に投げ込まれるのではなく、新エルサレムの中へと集められるでしょう。実は、わたしたちが新エルサレムを構成する宝です。喜ばしいハネムーンと千年の王国を享受するために、すべてのごみは一掃されなければなりません。わたしはこの掃除の働きにあずかることを待ち望んでいます。それは何と喜ばしいことでしょう! ハレルヤ!

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第6巻より引用

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