律法は、神の旧約エコノミーの中で、人と神との関係にとって基本的な条件でした(ガラテヤ三・二三)。神の新約エコノミーの中で、信仰は、神が人と共に新約エコノミーを遂行する唯一の道です(Ⅰテモテ一・四)。
パウロの務めによって、ローマ帝国の多くの都市に召会が設立されましたが、ガラテヤの諸召会は、熱心なユダヤ教の者たちによって混乱させられてしまっていました(ガラテヤ三・一)。ガラテヤの諸召会はこうして、キリストからユダヤ教へとそれてしまい、古いユダヤ教という宗教に戻り、律法の規則を守ろうとしました。パウロはこのような背景から、すばらしいガラテヤ人への手紙を書く機会を得ました。ガラテヤ人への手紙は、神のエコノミーの啓示において唯一のものであり、キリストが律法と相対すること、信仰を聞くことが律法を行なうことと相対することを提示しています。
キリストは律法と宗教に相対する
ガラテヤ人への手紙は、神の新約エコノミーに関する限り、最も基本的な書です。ガラテヤ人への手紙は、キリストが律法と宗教に相対することを啓示しています。神は、モーセを通して律法を与えられました。それがユダヤ教の基礎となりました。ユダヤ教はこの律法の上に成り立っています。ガラテヤ人への手紙は、わたしたちが召会生活のためにこのキリストを必要としているということと、そしてこのキリストが律法と宗教に相対することを啓示しています。
パウロはガラテヤ人への手紙第一章六節から七節でこう言っています、「わたしは、あなたがたがこんなにも早く、キリストの恵みの中であなたがたを召してくださった方から離れて、異なる福音に移って行くことに驚いています.異なる福音といっても、もう一つの福音があるのではありません.あなたがたをかき乱す者がいて、キリストの福音をねじ曲げようとしているだけのことです」。パウロが負担を持ってこの手紙を書いたのは、ガラテヤの諸召会がキリストの恵みから離れて、律法を守ることに戻って行ってしまったからです。六節の「異なる福音」はユダヤ教が守っている律法を指しています。キリストの恵みは、手順を経てわたしたちの享受となった三一の神です。この恵みとモーセの律法とは相対します(ヨハネ一・十七、フットノート一)。熱心なユダヤ教の者たちは、キリストの福音をねじ曲げ、誤って解釈し、召会を混乱させ、信者たちをモーセの律法に引き戻そうとしました。律法を守ることは決して、福音ではありませんし、罪人を律法の支配の下から解放して神の享受の中へともたらすものではありません。
ガラテヤの信者たちがキリストから律法へとそらされてしまったので、ガラテヤ人への手紙第五章四節は、彼らがキリストから離され、恵みから落ちてしまったと言っています。キリストはわたしたちの恵みであり、彼から離されることは、恵みから落ちてしまうことです。この節は、ガラテヤの信者たちが律法によって義とされることを望んでいたことも指摘しています。彼らは、キリストにあってすでに義とされていたにもかかわらず、律法に戻って行き、律法の行ないによって義とされようとしました。これは悪魔の策略です! 義とされる唯一の方法は、主イエスを信じることによります。しかし、ガラテヤの信者たちは惑わされて、努力して、自分の行ないをもって義とされようとし、また神に喜ばれようとしました。
信仰を聞くことと律法の行ないは相対する
パウロは第三章二節で言います、「ただこのことを、わたしはあなたがたから知りたいのです.あなたがたがその霊を受けたのは、律法の行ないに基づいているのですか、それとも信仰を聞くことに基づいているのですか?」。確かにわたしたちがその霊を受けたのは、律法の行ないによってではなく、信仰を聞くことによってです。パウロは五節で続けて、ガラテヤの信者たちに尋ねています、「それでは、彼があなたがたにその霊をあふれるばかりに供給し、あなたがたの間で力あるわざを行なっておられるのは、律法の行ないに基づいているのですか、それとも信仰を聞くことに基づいているのですか?」。神はまた、決して律法の行ないによってではなく、信仰を聞くことによって、わたしたちにその霊を供給し続けられます。神の新約エコノミーはその霊を供給すること、またその霊を受けることです。その霊を供給することとその霊を受けることは両方とも、信仰を聞くことによるのであって、律法の行ないによるのではありません。
信仰と律法の対比
律法
旧約エコノミーにおいて神が人を取り扱う原則
律法は、旧約エコノミーにおいて神が彼の民を取り扱われた原則でした。律法にしたがってイスラエルの子たちを取り扱う時、神は彼らを、祭司職とささげ物を伴う幕屋を通して取り扱われました。一方で、神は彼らを律法にしたがって取り扱い、もう一方では、幕屋を通して取り扱われました。律法を与えた後、神は来て幕屋の中に住まわれました。ですから、神は幕屋の内側から、幕屋を通して、律法にしたがって彼の民を取り扱われました。
人を暴露し罪に定める
仮に、あるイスラエル人が罪を犯したとします。律法によれば、その者は罪定めされ、おそらく死に渡されなければならなかったでしょう。律法は彼の罪を暴露し、彼を罪定めしました。しかしながら、その罪人は違犯のためのささげ物をささげることができました。それはその時、祭司によって祭壇の上にささげられました。こうして、その罪を犯した者は赦されることができました。律法は彼を暴露し、罪定めした後、彼を祭壇を通して幕屋にもたらしました。これは、律法はまずわたしたちを暴露し、次にキリストの中にもたらすことを示しています。
キリストのために人を守る後見人
律法は、罪人を罪定めすることによって彼らを守る後見人です。律法の暴露と罪定めなしに、わたしたちは神に対してどれほど多くの罪を犯してきたかを、認識することはできません。律法がなければ、わたしたちに規制や制限はなくなるでしょう。しかし律法がわたしたちを罪定めするので、わたしたちは律法によって守られるのです。
人々をキリストにもたらす
わたしたちを罪定めして守ることで、律法はわたしたちをキリストにもたらします。律法は後見人として機能して、罪を犯すイスラエル人を、違犯のためのささげ物で予表されたキリスト、彼の贖い主にもたらしました。こうして、律法はわたしたちを守り、キリストにもたらします。
ガラテヤ人への手紙第三章二三節でパウロは言います、「しかし、信仰が来る前、わたしたちは律法の下に監視されていて、やがて現されようとするその信仰に至るよう、閉じ込められていました」。監視されるとは、後見の中で守られ、監督の中で守られることです。神の民が律法の下に閉じ込められて監視されるのは、羊がおりの中に閉じ込められているようなものです(ヨハネ十・一、十六)。神のエコノミーの中で、律法は、キリストが来られるまで、神の選びの民を守る囲いとして用いられました。
ガラテヤ人への手紙第三章二四節でパウロは続けて言います、「そこで律法は、キリストに至らせるわたしたちの養育係となりました.それはわたしたちが、信仰に基づいて義とされるためです」。「養育係」のギリシャ語は護衛者、保護者、後見人とも訳すことができます。それは、未成年の子供の世話をして、学校の教師の下へ導く人を意味します。律法は神によって、後見人、保護者、養育係として用いられ、神の選びの民を、キリストが来られるまで見守っていました。キリストが来られた時、彼らを護衛してキリストの中へともたらし、彼らが信仰によって義とされるようにし、神によって約束され、契約した祝福にあずからせました。二五節は言います、「しかし信仰が来たからには、わたしたちはもはや養育係の下にはいません」。キリストにある信仰が来たからには、わたしたちはもはや、律法の保護の下にいる必要はありません。
イスラエル人は違犯のためのささげ物を持って祭壇に来た時、そのささげ物にある信仰によって義とされました。その違犯のささげ物のゆえに、神は彼の罪を赦されました。イスラエル人は律法の行ないによってではなく、その違犯のためのささげ物にある彼の信仰によって義とされました。予表では、これは信仰によって義とされることです。新約でも原則は同じです。律法は罪を犯したすべての者をなおも罪定めします。律法の下で罪定めされた者は、キリストに来て、彼らの違犯のためのささげ物としての彼にある信仰を活用すべきです。このようにして、罪人は信仰によって義とされます。
肉と関係がある
パウロはローマ人への手紙第七章五節でこう言っています、「というのは、わたしたちが肉の中にあった時、律法を通して活動していた罪の激情は、わたしたちの肢体の中で働いて、死に至る実を結ばせていたからです」。律法の行ないは常に肉と関係があります。律法を守ろうとする信者の努力はその霊のものではなく、肉のものです。たとえある人が、律法の要求を満たすことによって神を喜ばせようとする意図を持つとしても、その意図は、彼が肉に巻き込まれるようにするでしょう。
律法の行ないはのろいの下にある
ガラテヤ人への手紙第三章十節でパウロはこう言います、「なぜなら、律法の行ないに基づいている者はすべて、のろいの下にあるからです.こう書かれています.『律法の書に、行なうようにと記されているすべての事を常に守らない者はみな、のろわれる』」。もしわたしたちが律法を守ろうとするなら、肉の中におり、そして自動的にのろいの下にいるでしょう。しかしキリストに、そして十字架に行くなら、わたしたちは信仰によって義とされるでしょう。
信仰
新約エコノミーにおいて神が人を取り扱う原則
律法は、神が旧約の民を取り扱われた基本原則であったのと同じように、信仰は、神が新約の民を取り扱われる基本原則です。キリストを信じることを拒む者はみな滅びますが、彼を信じる者は罪が赦されて永遠の命を受けます。ヨハネによる福音書第十六章八節から九節では、その霊は罪について世に自らを責めさせる、それは神の御子を信じないためであると告げられています。これは、人々を滅びに至らせる唯一の罪は不信仰であることを示します。罪人に対する神の命令は、神の御子を信じることです。
新約では、信仰という用語はすべてを含んでいます。それには神の面と人の面の両方があります。神の側で、「信仰」という用語は、神が御子を地上に遣わされたこと、キリストが十字架上で死んで贖いを達成されたこと、彼が葬られ、復活させられたこと、復活の中で彼は神聖な命を解き放ち、命を与える霊と成られたことを暗示しており、それはすべて、彼が彼を信じるすべての者の中に入り、彼らの恵み、命、力、聖別、すべてとなられるためであったことを暗示します。わたしたちの側で、信仰は、聞くこと、評価すること、呼び求めること、受けること、取り入れること、結合すること、あずかること、享受することと関係があります。さらに、信仰は喜ぶこと、感謝すること、賛美すること、満ちあふれることを含みます。信仰は聞き、評価します。信仰は呼び、受け、取り入れます。信仰はまた結合し、あずかり、享受し、喜び、感謝をささげ、賛美します。ですから、信仰はわたしたちの内側から命が満ちあふれるという結果になります。
もしわたしたちが信仰を持たないなら、神の側で達成されたすべてのことは、客観的なままであり、わたしたちと個人的に関係ないでしょう。わたしたちは、恵みの光景を撮影するカメラのように機能する、わたしたちの信仰を必要とします。信仰がこのように活動することは、わたしたちが聞き、評価し、呼び求め、受け、取り入れ、結合し、あずかり、享受し、喜び、感謝し、賛美し、満ちあふれることによって、神聖な光景を評価することを暗示します。
信仰とは、実はわたしたちの中に注入し込まれたすべてを含む三一の神です。この注入は、わたしたちが恵みの宣べ伝えの下におり、恵みの言葉を聞く時に起こります。手順を経た三一の神は、わたしたちの中に注入される時、わたしたちの信仰となります。この信仰は恵みの反映です。ですから、恵みと信仰、信仰と恵みは一つの事の両端です。恵みも信仰も、律法とは関係ありません。
神がアブラハムを取り扱った原則
わたしたちはガラテヤ人への手紙第三章で、信仰が、神がアブラハムを取り扱われた原則であったことを見ます。九節は言います、「ですから、信仰に基づいている者は、信じるアブラハムと共に祝福されるのです」。アブラハムは神の取り扱いの下で、神を喜ばせようとして働いていたのではありません。そうではなく、彼は神を信じたのです。
わたしたちはキリストを信じ、彼のパースンと
贖いの働きをわたしたちの信仰の対象とする
一方で、信仰はわたしたちがキリストを信じることです。もう一方では、わたしたちがキリストのパースンと贖いの働きを、わたしたちの信仰の対象とすることです(ヨハネ三・三六、使徒十六・三一、ローマ十六・二六、Ⅱテモテ四・七後半、ユダ三、二〇)。
律法に置き換わる
信仰は律法に置き換わります(ガラテヤ三・二三、二五)。信仰が来たからには、わたしたちはもはや律法と共にとどまっているべきではありません。これは、わたしたちの経験であるべきです。
アブラハムに約束された祝福の中にわたしたちをもたらす
信仰はわたしたちを、神がアブラハムに約束された祝福の中に(九節)、すなわち、すべてを含む霊を予表するすべてを含む良き地にもたらします。すべてを含む良き地は、すべてを含む霊を予表しています。ですから、キリストにある信仰は、約束されたその霊をわたしたちにもたらします(十四節)。
わたしたちをキリストの中に導き入れる
さらに、信仰はわたしたちをキリストの中に導き入れます。ヨハネによる福音書第三章十五節によれば、キリストを信じる、あるいはキリストの中へと信じる者はみな、永遠の命を得ます。
キリストにある信者たちを特徴づけ、彼らを律法を守る者から区別する
最後に、信仰はキリストを信じる者を特徴づけ、彼らを律法を守る者から区別します(使徒六・七、Ⅰテモテ三・九)。わたしたちは律法を守る者ではありません。わたしたちはキリストにある信者です。わたしたちは信仰の民であり、「信仰に基づいている者」です(ガラテヤ三・七、九)。ダービーの新訳によれば、「信仰に基づいている」を「信仰の原則に基づいている」に置き換えています。信仰に基づいているとは、信仰の原則に基づいていることを意味します。わたしたちは、信仰をわたしたちの原則とする者です。わたしたちが行なうすべてのことは、この原則に符合しているべきです。この原則によって、わたしたちはキリストに来て、彼を受け入れ、彼と一となります。
神のエコノミーの願い
神は彼の新約エコノミーにおいて、わたしたちが信仰を聞く者になることを願っています。この信仰は、三一の神が手順を経て、わたしたちのすべてを含む恵みとなられたことの反映です。恵みとは、わたしたちの命またすべてとなって、わたしたちが完全に享受する三一の神(父、子、霊)にほかなりません。
ガラテヤの信者たちが律法に戻って行ってしまったのは、何という誤りでしょうか! 律法は肉と関係があり(ローマ七・五)、肉の努力に依存します。その肉とは、まさに「わたし」の表現です。信仰はその霊と関係があり、その霊の活動に信頼します。その霊は、キリストの実際化です。神の新約エコノミーは、わたしたちが律法を守ろうとして、肉で努力するためのものではありません。熱心なユダヤ教の者たちは、この事に関して完全に的外れでした。
わたしたちが彼の恵みを聞く時、恵みは自然にわたしたちの信仰となります。信仰が来る前、神は律法を用いてわたしたちを守り、保持し、引き留めておかれました。しかし今や信仰が来たので、わたしたちはもはや律法を必要としません。律法には享受はなく、恵みもありません。しかし信仰には満ちあふれる享受があります。なぜなら、信仰は恵みと関係があるからです。今日わたしたちは信仰を聞くことを経験します。この信仰を聞くことによって、わたしたちは絶えず、すべてを含む霊の供給を受けます。この享受を通して、わたしたちは彼と一になります。わたしたちは宇宙的な永遠の実体となって、彼のすばらしい神性を表現します。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第7巻より引用


