人生の活路を得た

証し

憂鬱がわたしの全存在を襲った

主を信じる前、わたしと夫はとても良い事業を持っており、業界でもよく知られていました。しかしながら、夫は暴力団と関係を持ち、悪い習慣、不法な行ないを持ち始めました。ある日、数名の警察官が実弾を装備した銃を持って、会社に乗り込んで来て捜索を始めました。その結果、驚くことに薬物、百枚以上の偽造身分証明書、致命的である銃器が見つかり、夫は現行犯逮捕されました。当時まったく事情を知らないわたしにとって、それはまるで頭を棒で殴られたような状態であり、これらすべてが本当であることを信じることができず、信じたくもありませんでした。それでも彼は二人の子供の父親であるので、わたしは弁護士費用を集め、彼を保釈しました。心が重かったわたしは、同時に出家した義理の母の面倒を見なければなりませんでした。彼女は重病を患ったことで寺を追い出されました。重病で、菜食主義である人を顧みるのは簡単なことではないのですが、自分で行なうしかありませんでした。

夫は正しい道を歩まず、常に問題を起こして、わたしの心は深く傷つけられ、結婚生活も赤信号になりました。しかしながら、二人の子供がまだ幼いゆえに、わたしは涙ながら悲しみに耐え、苦労してこの家を保とうとしました。しかし、予期せぬ事に会社の経営も下り坂になり、損失が続きました。夫は資金調達のために、会社の手形を非合法貸付業者や不法組織に渡してしまいました。わたしが会社の責任者であるので、手形に問題があると、自然にすべてわたしが担わなければなりませんでした。どうしようもない状況でわたしはすべての負債を背負い、親しい友人からの催促、貸付業者からの迫害、大家からの退却要求、税金の未納、従業員の給料未払い、業者からの請求の支払いができないことなどに対応し、また随時裁判所と警察署に出向いて夫の案件のために対応しなければならず、本当に疲弊し、言い表せないほど苦しいものでした。また、わたしは心も体も疲れ果てていたため、交通事故を起こし、左膝を骨折してしまい、一年ほど杖で行動しなければなりませんでした。このような状況の下で、わたしは何もできず、日々涙が絶えませんでした。わたしは全てに失望し、「死ぬしかない」というところまできました。

主はわたしの人生の活路となった

このような苦境の中で、ある人はわたしの家の門をたたき、福音集会へわたしを招いてくださいました。わたしはイエスについて聞いたことがなく、彼を尋ね求めようとしたこともありませんでした。彼が進んでわたしに救いの御手を延べ、彼の使者を遣わし、わたしの家の門をたたいてくださいました。わたしは試しに行ってみようという感覚で行きました。そのときの福音集会の中で、壇上で「人の終わりは神の始まり」、「人に頼っても人は倒れ、山に頼っても山はくずれるが、神に頼ることが最も良い」と語っているのを聞きました。これらの言葉はわたしの心を深く捕らえました。こうして、わたしはそのとき主イエスを受け入れ、彼の御名の中へとバプテスマしました。バプテスマした後、ある姉妹がやって来てわたしを祝福して言いました、「あなたは救われました。あなたの過去は終わらされ、今あなたは新しい始まりを得ました」。突然のこのような祝福の言葉はわたしを深く揺り動かしました。わたしは心の中で、「わたしは死ぬ途上で救われました。わたしは再生されました」という感覚を得ました。わたしはそのときのわたしの決定がわたしの人生の転換点であったことを知る由もありませんでした。この「死を命に変える」救い主は、わたしの人生の活路となりました。

詩歌(死は命とどめ得ず)   習志野に在る教会作成

472死は命とどめ得ず

わたしは救われる前、毎朝起きるとけて、この日に何が起こるのかを恐れ、心配していました。しかしながら、バプテスマした後、毎朝ある姉妹がわたしと共に主の御名を呼び、御言葉を享受してわたしは養われ、供給されて落ち着いて毎日を過ごすことができました。主はあの複雑で、財務状況がひどい仕事環境から徐々に離れるように導いてくださいました。離れる時、わたしにはわずか二百元しかなく、なお百万元以上の負債を抱えていました。中年で失業したわたしがまた仕事を探すことはとても難しく、その過程は困難を極め、あらゆる壁につき当たり、まるで全世界がわたしを見捨てたかのようでした。このようであっても、わたしの主はわたしを見捨てませんでした。そして、わたしはやっと一つの仕事を見つけました。それは外回りの仕事で、毎日スクーターであちらこちらに奔走するもので、以前会社で社長であった頃とは雲泥の差ですが、わたしの心は感謝で満ちていました。主はわたしに生きる道を与えてくださったので、わたしの命が苦しみの中で消耗され、ため息の中でわたしの年月が無駄になることのないように、わたしはスクーターの上に聖書と詩歌を貼って、常に主と結合されるようにしました。なぜなら、聖書は言います、「今の日々は邪悪ですから、時を贖い取りなさい。……むしろ霊の中で満たされ、詩と詩歌と霊の歌とで語り合い、心から主に向かって歌い、朗詠しなさい……そしてすべての時に、すべての事に対して……神また父に感謝をささげ」(エペソ人への手紙第5章16節―20節)。外回りのとき、道がよくわからなかったり、道が遠くて行きにくかったりするとき、わたしは常に主の御名を呼び求め、主の導きと臨在を経験しました。時には強風、強い日光、雨に濡れ尻込みするとき、わたしは主を享受し、わたしの隠れ場としての彼を経験しました。彼はわたしに対してこのように親しく、近く、真実でした。

わたしの命を主に明け渡した

新しい仕事は見つかりましたが、古い負債が依然としてトゲのようにわたしを煩わせ、よくわたしを弱らせました。わたしがどんなに努力してもこの百万元以上の負債を解決することはできないと思いました。ある献身の集会の中で、わたしは祈りの中で主に告げました、「わたしは自分の命をあなたにささげます。あなたが管理してください」。わたしは苦難によって自分の命を絶ちたくなかったので、自分の命を主の御手に明け渡しました。わたしは主権を主に明け渡したので、彼は環境の中で、あらゆる場所、あらゆる事、行なうこと、存在すべてにおいて、主の御手がわたしを導いていることをわたしに経験させてくださいました。

ある日、わたしは中学の同窓会に参加し、三十数年間会っていないクラスメートに会いました。その同窓会の中で、わたしはクラスメートにこの三十数年の出来事を語り、また主イエスは最もすばらしい方であり、彼がわたしの人生における真の望みと満足であることを真剣に証ししました。同窓会の後、あるクラスメートがわたしの証しを聞いてとても感動し、わたしから真に神がいることを見ることができたと告げました。さらに彼女は援助の手を差し伸べて、わたしの息を詰まらせている負債を解決してくれました。このことは、思いもよらないことでした。わたしは、主の証しをして、福音をクラスメートに伝えたい一心で同窓会に行きましたが、主はわたしのために備え、適時にわたしを助けてくださいました。かつてわたしは夜に副業をして収入を増やそうとしましたが、主の御手は環境の中でわたしを制限し、彼の方法をもってわたしは別の収入を得ることができました。それによって仕事の時間が増えることもなく、召会生活にも影響はありませんでした。

ある詩歌はこのように告げています、「彼はわたしを導いておられます。この意図は何と美しいことでしょう! この言葉は天の慰めに満ちています」。これまで歩んできて主の導きを経験したことに関して、わたしは真に主を礼拝せざるを得ません。もはやわたしではなく、彼がわたしのすべてを管理しておられることを見ます。これは何と荷が軽いことでしょう! わたしはまた彼の知恵を見ました。彼は、わたしが天然の手で負債の問題を解決するようにはさせず、彼の御手による不思議な導きと顧みをわたしに一歩一歩経験させてくださいました。これによってわたしはさらに神を畏れました。彼はわたしの自己を減少させ、キリストに置き換え、彼の御前で堅固に生き、また召会の中に生きるようにしてくださいました。わたしは心を尽くして主を仰ぎ望み、積極的に召会生活と奉仕に投入することを訓練しました。こういうわけで、わたしは多くの豊かな言葉の供給を得ることができ、消極的な思いの中にいることがなくなりました。さらに、わたしは「後ろにあるものを忘れて、前に向かう」ことができました。

あるとき、子供集会の奉仕のためにわたしは旧約の二人の人物、ヨセフとルツの物語を準備しなければなりませんでした。わたしはこの二人の人物にとても感動しました。ヨセフは十三歳のときにエジプトへ売られ、三十歳のときにパロによって任命されましたが、その間の十七年間はしもべと囚人の生活をしていました。これはみな神の案配であり、苦難の環境を通して彼を訓練し、成就し、準備して彼が主に役立つ器と成らせるためでした。彼の兄が彼を売ったにもかかわらず、彼は自分の兄を愛し、彼らを赦しただけでなく、彼らに食物を与えました。この物語によってわたしは照らされ、自分の内にある恨みを下ろし、わたしを傷つけた者を赦すことができました。わたしは、「赦すことは恨むことより力がある」ということを理解しました。

ルツの物語からわたしは見ましたが、わたしはルツと同じように異邦で生まれた罪人であり、神の子供にしたがって神の家にやって来ました。ルツは神の家の中で、最も近い親族であるボアズに顧みられました。そして、主イエスはわたしのボアズであり、彼はわたしを親切にし、顧み、供給して、わたしに安息を得させてくださいました。ルツは神と神の王国を選んだことによって、莫大な祝福を得ました。これはまさにわたしの経験であって、過去の生活では困難と苦しみは日常茶飯事でした。しかし、今の生活は主イエスがわたしの命のパンであり、命の水です。これだけでなく、周りに兄弟姉妹が共にいて、常にわたしを励まし、慰めてくれます。主に感謝します。彼が崩壊の混乱状態からわたしを救い出されたことによって、わたしは神の家にいて、聖徒たちと共に主の豊富を享受することができるようになりました。

わたしを知っている者は みなわたしが変わったと言う

神の主権により、わたしの二人の子供も続けて主の御名の中へとバプテスマされました。子供たちの目に、わたしは一日中悲しみの中で苦しむ母親でしたが、今彼らの目に、わたしは笑顔に満ちて喜んでいる母親です。あるとき、息子はわたしにある記事を読んだと言いました。その中で語られていたのは、新竹科学園地区で成功した者がおり、彼は高い年収を得ていますが、物質の生活に対する欲望のために、お金の奴隷となってしまい、少しの喜びもないということでした。息子はまた、わたしには負債があるけれど、主と召会生活のゆえにとても喜んで過ごしていると告げました。主を得ると本当に変わります。

救われて現在に至るまで、わたしはもはや顔が涙と悲しみに満ちていることはありません。わたしを知っている者はみなわたしが変わったと言いました。また、わたしが若く活力があると言います。さらにある人は驚いて、「あなたに何か重荷があるとはとても見えない」と言いました。救われる前、わたしは「打ちひしがれた霊は骨を枯らす」ということを経験しました。救われた後、わたしは「喜びに満ちた心は良い薬である」ということを経験しました(箴言第17章22節)。ですから、わたしが最も好きなことは、兄弟姉妹と共に組み合わされて訪問し、弱っている人に命を供給し、彼らのために祈ることです。さらにわたしは外回りに行くとき、必ず福音のビラを携えて行くので、機会があればこのすばらしい救い主イエスを人に宣べ伝えます。わたしは人々にこのように告げたいです、「わたしたちの救い主を呼び求めるなら、彼は毎回必ず聞いてくださいます。彼の胸によりかかるなら、重荷は直ちに軽くなります。彼はわたしたちの要塞、喜び、安息、力です。あなたが味わうなら、彼の恵みは無限であることを知ります」。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第4期第6巻より引用

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