福音の鍵 憂い

福音メッセージ

科学の進歩により、人類の生活はさらに便利になってきました。しかしながら、物質的に豊かになっても、人の内側はさらに複雑になっています。生活での圧迫が大きく、あらゆる悩みに満たされていることは、大部分ほとんどの現代人を描写したものです。ある人は環境と仕事の昇進を悩み、ある人は良い相手が見つからないことを悩み、ある人は家を買うことができないことを悩み、ある人はだれも自分に注目しないことを悩んでいます。若者は学業に悩み、結婚した者は配偶者に悩み、親は子供に悩み、年配の者は健康と老後に悩みます。思い煩うことなく一日を過ごすことができる人はいるでしょうか? 人はどのようにして思い煩いから逃れることができるのでしょうか?

「打ちひしがれた霊は骨を枯らす」(箴言第17章22節後半)。

医学的に証明されていますが、思い煩いは「殺し屋」です。思い煩うことは人の免疫システムの力を大幅に低下させ、それによって容易に病になり、または病のゆえに死んでしまいます。一つの物語があります。ある日、悪鬼は手下をある地方に遣わし、病原菌をまき散らして、三千人を殺すように言いましたが、結果として六千人が死にました。こういうわけで、悪鬼は手下に尋ね、手下は答えました、「大王様! わたしは確かに命令通りに行ないました。わたしが殺したのは三千人だけです。多くも少なくもありません」。悪魔は言いました、「それでは、あとの三千人はどのようにして死んだのか?」「彼らは恐怖によって死んだのです! それらの人は疑心暗鬼になり、自ら恐怖のゆえに死んだのです」。

水滴は無力ですが、長い年月を経過するなら、石をも貫くことができます。人の内側に少しの悩みがあるとき、思いの中に少しの心配や不安、恐れと煩いがあるとき、体において、一晩よく眠れず、少し食欲が落ち、少し過度に仕事をして、徐々に体の健康状態が低下していきます。かつて、二人の人が同じ病院に行って、レントゲン写真を撮りました。そして職員が二人の名前を間違ってしまい、肺病のレントゲン写真を健康な人に、肺病のないレントゲン写真を病んでいる人に与えました。結果的に、病んでいる人は治り、健康な人はそのレントゲン写真によって、思い煩って病んで倒れました! こういうわけで、人の心身に対する思い煩いの危害は大きいということを見ることができます。

「ああ、わが魂よ、なぜうなだれているのか? なぜわたしの内で思い乱れるのか? 神を待ち望め」(詩篇第42篇11節前半)。

現在の世代は忙しく、人々はその中で安息を持っていません。人の心は常に思い悩んでおり、人の内側は常にいら立って疲れています。億万長者であっても、政府の高官であっても、博士であっても、財界の有名人であっても、学生であっても、平民、苦しんでいる者、乞食などであっても、自分に対して満足していると感じている人はだれもいません。

多くの富んでいる者がいますが、彼らは「疲れた」と言います。多くの商売人がいますが、彼らは「疲れた」と言います。この世において、多くの人がこの世から名声と愛情を得ましたが、彼らも疲れました。この世の人は、安息は良いものであることを知っていますが、重すぎる負担のゆえに、安息を見いだそうとせずに、ただ自分の仕事を軽くしようとします。旧約時代のイスラエル人のように、彼らはただパロが彼らの仕事を減らすことだけを望み、安息を望みません。イスラエル人の状況はこの世の人を代表することができます。あなたも重荷を少しでも軽くすることを考えており、悩むことや思い煩いがなければよいと思っています。しかしながら、主イエスがあなたに与えるものは、仕事を減らし、軽くすることではなく、完全な安息です。主イエスは、あなたが安息を得るために来ることを望んでおられます。あなたは何も行なわずに安息を得ることができます。

人の考え方は、まず先に自分が良く行なえば神が喜んでくださるというものです。しかし、主イエスは「行なわなくてよい」と言われます。彼はすでにすべての働きを成し遂げられました。贖いの働きであれ、あなたが神の御前で受ける裁きの働きであれ、あなたの義認の働きであれ、永遠の命などに関する積極的な働きはすべて、主イエスが成し遂げられました。こういうわけで、あなたは来て安息を得るだけでよいのです。

ある地方に一人のクリスチャンがおり、彼の隣人は大工でした。このクリスチャンはよくその大工にイエスを信じるように勧めていました。その大工の考えは、イエスは贖いの働きを成し遂げたが、それだけでは十分ではなく、彼が何か良いことを行なわなければ信じることができないということでした。ですから、彼は信じませんでした。あるとき、このクリスチャンの家に泥棒が入り、玄関の戸も破壊されました。このクリスチャンは戸が壊されているのを見ると、その大工に新しい戸を作ってもらうようにお願いしました。その大工は、彼が隣人であり、良い友達でもあるので、良い木材を使って急いで作り、その日のうちに戸を作り終えました。彼が戸を取り付けようとしたとき、このクリスチャンは彼に言いました、「あなたのこの戸はまだ出来ていません。まだ十分ではありません」。その大工は尋ねました、「わたしは良い木材を使い、さらに加工して作ったのに何が良くなかったのでしょうか?」。しかし、このクリスチャンは彼が良く作っていないとばかり言っていました。それから大工は言いました、「この戸が良く出来ていないなら、どうしたら良くなるのでしょうか?」。このクリスチャンは言いました、「あなたの家から、いくつかの板、釘、金槌を持ってきてください。わたしがやってみせましょう」。そしてこのクリスチャンは釘と金槌を持って、戸の上に板をでたらめに打ちたたきました。彼がこのように行なったことで、大工は怒りながらも、笑いました。彼は泥棒に遭ったので、頭がはっきりしていないのだと思いました。それからこのクリスチャンは彼に言いました、「怒らないでください。お話しましょう。あなたの戸は出来上がっていましたか?」。彼は言いました、「もちろん出来上がっていました」。このクリスチャンは言いました、「わたしが少し付け加えたのでさらに良くなったのではないのでしょうか?」。彼は言いました、「戸はすでに出来上がっているので、あなたがいくつかの板や釘を加えたことによって、違ったものになりました」。このクリスチャンは言いました、「主イエスの贖いの働きはすでに成し遂げられました。主は成し遂げましたが、あなたはなおも何かを改良して直そうと言っています。こういうわけで、わたしはあなたがすでに作った戸の上に釘と板を付け加えたのです」。その大工は理解して、直ちに主を信じました。

主イエスは、わたしたちが働かずに安息を得るように告げています。なぜなら、主はすでにわたしたちの罪を担って死なれたからです。また彼はすでに復活して、わたしたちが神の御前で新しい地位を得るようにしてくださいました。主の贖いの働きはすでに、一度で永遠に成し遂げられました。何かを加える必要はありません。ですから、わたしたちは何も行なう必要がありません。わたしたちはただ彼のところに行って、安息を得るだけです。それによって、わたしたちの心に心配や思い煩いはなくなります。

「彼は……圧迫されている人たちを解放して去らせ」(ルカによる福音書第4章18節)

思い煩いは重荷であり、人の上にのしかかり、人を圧迫して不自由にし、人は喜ぶことができません。ある物語はこのように言っています。長年主を信じているある中年の婦人は、人生において多くの苦しみを味わってきたので、一日中悲しい顔をしていました。彼女の息子はよく彼女を励まし、あらゆる方法で彼女を喜ばせようとしましたが、そうすることができませんでした。ある日の朝、彼女は朝食のために降りてきましたが、満面の笑みで、いつもと大いに異なっていました。息子は非常に驚いて彼女に尋ねました、「お母さん! 何が起こったので、あなたはこのように喜んでいるのですか?」。彼女は言いました、「昨晩、わたしは夢の中で、重荷を負って疲れ果てている人たちの大きな群れと共に自分が同じ大きな道を歩いているのを見ました。前方にはあらゆる形をした恐ろしい悪魔がおり、わざと多くの黒い荷物を地にまいて、わたしたちに拾わせようとしていました。わたし自身も他の人と同じように、歩きながら腰を曲げて黒い荷物を拾い、自分の背に担いでいます。歩けば歩くほど、ますます重くなり、息ができないほどになりました。しばらくして、わたしが顔を上げると、栄光の御顔を伴った人の子が人々の間を歩いているのを見ました。そして最後に、わたしのところにやって来ました。わたしはよく見ると、それはわたしの救い主でした。そしてわたしは叫びました、『主よ! わたしはとても疲れました。もはや背負うことができません』。彼は同情して笑みを浮かべながらわたしに言いました、『愛する子よ! あなたはこれらの重荷を負う必要はありません。なぜなら、それらは悪魔があなたに与えたものであって、わたしが与えたものではないからです。ですからこれらの重荷を捨て、触れることさえしないでください』。彼が語り終え、彼の手で触れるとわたしの重荷は落ちて喜びと平安がすぐにわたしの心を満たしました。わたしが彼の足下にひざまずいて感謝しようとしたら、突然目が覚め、わたしのすべての思い煩いは完全になくなりました」。この日から彼女が亡くなるまで、彼女は全家族の中で最も喜んでいる人でした。

わたしたちはみな、遭遇する事を一つ一つ神の御手に置く必要があります。そうでなければ、一つ目の事柄がやってきたときに、あなたはそれを自分で担い、二つ目、三つ目の事柄がきてもあなたは自分で担いますが、徐々に重くなって、圧迫されて喜びを失います。例えば、戸建ての家を建築する職人がれんがを屋根まで運ぶとき、上、真ん中、下の位置にそれぞれ一人が立つとします。下の人は真ん中の人にれんがを渡し、真ん中の人はまた上の人に渡すようにして、彼らは絶えずれんがを上に運びます。もし、真ん中の人が下の人から渡されたれんがを上に運ばないなら、または上の人が真ん中の人からのれんがを受け取らないなら、その真ん中の人は絶えずやってくるれんがによって押しつぶされるでしょう。わたしたちの思い煩いも同じです。もし、わたしたちが他の人からきた思い煩いを神に担っていただくために明け渡さないなら、その思い煩いはわたしたちを押しつぶすでしょう。わたしたちは、常に思い煩いに圧迫されることがないようにする必要があります。わたしたちは思い煩いを神に置く必要があります。思い煩いを持つ時はいつでもすぐに神に明け渡す必要があります。

親愛なる友人のみなさん、今日あなたはあらゆる思い煩いを持っているかもしれません。神は、あなたが今思い煩いを彼に投げることを願っておられます。彼は今日あなたの心配事を担われます。おお、すべての傷ついた心、重々しい心、苦痛にある心は神のところに来ましょう! あなたがすべての事柄を神に告げるなら、人知をはるかに超えた神の平安が、あなたがたの心と思考を、キリスト・イエスの中で護衛してくださいます(ピリピ人への手紙第4章6節ー7節)。

「いつも喜んでいなさい.絶えず祈りなさい.あらゆることで感謝しなさい」(テサロニケ人への第1の手紙第5章16節―18節前半)。

神は、人が喜び、祈り、感謝する生活をすることを願っておられます。ある人はこのように思うかもしれません、「喜びは強いて得るものではないので、喜びがないときはどのようにしたら喜ぶことができるのだろうか? わたしの体調は悪く、仕事が忙しくて難しい。また、わたしの子供たちは多く、言うことを聞かない。このようなわたしの状況で、喜ぶことができるのだろうか?」。そうです。多くの事によってあなたは喜ぶことができません。しかし、注意してください。聖書は、あなたが自分によって喜ぶと告げているのではなく、主の中でいつも喜んでいなさいと告げています(ピリピ人への手紙第4章4節)。神は、わたしたちが環境によって喜び、順調であることによって喜ぶことを願っているのではなく、主の中で喜ぶことを願っておられます。

ある母親に二人の息子がいました。一人は傘売りであり、もう一人は米粉を作る人です。この母親は心配性で、常に心配しており、喜びがありません。雨が降ると、米粉を作っている息子を思い出して、米粉が乾かないことを心配します。雨が降らないと、傘を売っている息子が商売できないと心配します。後に彼女はイエスを信じて言いました、「雨のとき、わたしは傘を売っている息子のために主に感謝します。天気が良いとき、わたしは米粉を作っている息子のために神を賛美します。わたしは毎日喜びに満ちています」。イエスは彼女の環境を変えませんでしたが、彼女の心を変え、彼女に永遠で真実な喜びを得させました。この物語から、わたしたちは環境によって喜ぶのではなく、主によって喜ぶことを知ることができます。

詩歌(主の中で喜ぼう)   習志野に在る教会作成

主の中で喜ぼう

記事はJGW日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第5期第1巻より引用

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