神と和解し、人と平和を持ち、 平安を享受する

真理

「しかし、かつて遠く離れていたあなたがたは、今やキリスト・イエスの中で、キリストの血によって近くなったのです。なぜなら、彼ご自身は、わたしたちの平和であって、両者を一つにし、そして敵意である隔ての中垣を取り壊し、数々の規定から成っている戒めの律法を、彼の肉体の中で廃棄されたからです.それは、彼がご自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和をつくるためであり、また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした.それによって敵意を殺してしまったのです」(エペソ二・十三―十六)。

罪人はなだめを必要とし、敵は和解を必要とする
わたしたち信者は本来、神のものでした。わたしたちは彼の所有でした。しかしながら、わたしたちは失われました。ところが、神はわたしたちを放棄されませんでした。彼は代価を払ってわたしたちを取り戻し、大きな代価でわたしたちを再び所有されました。これが贖いです。キリストは十字架上で死んで、わたしたちのために永遠の贖いを達成されました(ガラテヤ三・十三Ⅰペテロ二・二四三・十八Ⅱコリント五・二一ヘブル十・十二九・二八)。彼の血は、わたしたちのために永遠の贖いを獲得しました(ヘブル九・十二十四Ⅰペテロ一・十八―十九)。

償う(atone)という言葉は二つの言葉、「at」と「one」から成っています。わたしたちは「償い」)(atonement)という言葉をat-one-mentとも書けます。その意味は、一つにするです。償うという意味は、両者を一にもたらすことです。分離された両者が一つになろうとする時、なだめの必要があります。罪がわたしたちを神の臨在から引き離し、神がわたしたちに来られるのを妨げました。ですから、わたしたちはなだめを必要としました。すなわち神の要求を満たすことによって、わたしたちと神との関係をなだめます。キリストは十字架上でなだめの供え物としてご自身をささげた時、これを達成されました。十字架上で、彼はわたしたちのためになだめをなし、わたしたちを神に連れ戻し、神と一つにしてくださいました。

しかし、ローマ人への手紙第五章十節は、わたしたちは救われる前、罪人であっただけでなく、敵でもあったと告げています。敵であるという問題は、罪人がなだめを必要とする問題よりもさらに深刻です。敵意は人と神との間の最大の問題です。わたしたちはすでに神の敵であったので、なだめが必要であるだけでなく、和解も必要でした。なだめは罪のためであり、和解は罪と敵意の両方のためです。ですから、和解はなだめを含みます。和解はキリストの贖いに基づいており(ローマ五・十十一)、神の義認を通して達成されました(Ⅱコリント五・十八―十九ローマ五・一十一)。それゆえ、和解は義認を伴う贖いの結果です。

わたしたちは信仰によって神の義認と和解を受けました。これは道を開き、わたしたちを神を享受する恵みの領域へと導きます。ローマ人への手紙第五章二節は、「いま立っているこの恵みの中へ信仰によって入る」と言います。恵みはわたしたちが立っている領域です。わたしたちは、恵みのある所にとどまっていなければなりません。

義認の門を通過して、
平安(平和)の道を歩く必要
わたしたちは信仰によって義とされ、恵みの領域に立っていますから、わたしたちの主イエス・キリストを通し、神に対して平和を持っています(五・一)。パウロは、「神と」平和を持っていると言うのではなく、「神に対して」平和を持っていると言います。これは、わたしたちがなおも神に向かう途上にあることを意味します。わたしたちはまだ自分の道を終えていません。霊の世界では、まず門を入り、次に道を歩きます。信仰による義認は門を開き、享受の広い境地に近づき、入ることです。義認の門を通過したなら、わたしたちは平安(平和)の道を歩く必要があります。罪人には平安はありません。ローマ人への手紙第三章十七節は、わたしたちが罪人であった時、平安の道を知らなかったと言います。しかしながら、今日、わたしたちは平安の道を歩いています。

人はみな平安にしたがって行きたいでしょう。もしあなたがある方向へ向かいながら、内側に平和を感じないなら、立ち止まるべきです。ルカによる福音書第七章五〇節によれば、罪深い女が救われると、主イエスは平安の中を行くようにと言われました。わたしたちが救われた後、平安の中で道を行かなければなりません。どこへ行くにも、平安の道を取らなければなりません。もし平安がないなら、行ってはなりません。何をするにも、平安の中で行なわなければなりません。もし平安がないなら、行動してはなりません。恵みはわたしたちが立つためであり、平安はわたしたちが歩くためです。もしわたしたちがある場所にとどまるとき、恵みがないなら、そこにとどまってはなりません。もしわたしたちにある方向を取るとき平安がないなら、行ってはなりません。わたしたちはキリストの贖いの死を通して義とされ、彼と和解しました。ですから恵みの中に立ち、平安の中を歩きなさい。

わたしたちはかつて、神から遠く離れていたが、
今は神に近い
エペソ人への手紙第二章十一節から十二節は、わたしたちが救われる前、肉によれば異邦人であったと言っています。わたしたちは希望もなく、神もなく、この世のサタンの体系の中にいました。わたしたちはキリストから離れ、イスラエルの国民から離れ、神の約束の契約、神と関係があるすべての祝福についてよそ者でした。十三節の初めの尊い言葉、「しかし今や」は、今やわたしたちには希望があり、神を持つことを示しています。わたしたちはもはやこの世にはいません。むしろ、わたしたちはキリスト・イエスの中にいます。キリストの中で、わたしたちは近くされました。わたしたちが近くなったとは、キリストの贖う血の中で、神と彼のすべての祝福に近くなることです。またキリストに、イスラエルに、神の約束に近くされました。

キリストは人と人との間の平和である
キリストについて語っている第二章十四節は、「彼ご自身は、わたしたちの平和であって」と言います。「わたしたち」という言葉は、ユダヤ人と異邦人の信者を指しています。キリストの血によって、わたしたちは神と神の民の両方に近づけられました。キリストは、ユダヤ人と異邦人の信者のために完全な贖いを完成し、ご自身がわたしたちの平和、調和となって、両者を一つにされました。人類が堕落し、選ばれた種族が召されたゆえに、イスラエルと異邦人との間に分離があるようになりました。キリストの贖いを通して、この分離は取り除かれました。今や、贖うキリストの中で両者は一です。そして彼は一のきずなです。

現在、イスラエルと残りの人類との間に、なおも分離があります。しかし神のエコノミーによれば、十字架上でのキリストの贖いによって、この分離はすでに取り除かれています。この分離を取り除いたキリストは、今やイスラエルと異邦人との間の平和のきずなです。

キリストは隔ての中垣――
数々の規定から成っている戒めの律法
――を取り壊された
十四節は、隔ての中垣のことを語っています。この隔ての中垣は、「数々の規定から成っている戒めの律法」です(十五節)。この数々の規定から成っている戒めの律法は隔ての中垣となりました。なぜなら、割礼の者であるユダヤ人と、無割礼の者である異邦人との間の主要な区別を造り出したからです。ですからこの区別は、ユダヤ人と異邦人の間の敵意となりました。パウロが意味した隔ての中垣とは、数々の規定から成っている戒めの律法、すなわち割礼、安息日、食事に関する儀式上の戒めでした。事実上、どの規定や儀式もみな、人々の間の隔ての中垣です。

規定は、生活や礼拝の形式、あるいは方法です。どの民族にも自分の生活の方法があります。どの規定もみな敵意を造り出します。もし特定の実行を主張するなら、わたしたちはそれを分離させる規定とし、敵意を造り出します。クリスチャンも、規定によって分裂します。例えばバプテスマに関するさまざまな規定があります。ある人は後ろ向きにバプテスマすることを主張し、他の人は前向きにすることを主張します。あるクリスチャンは、楽器の使用のことで分裂しています。ある人はピアノを許可し、オルガンを許可しません。しかしながら、他の人の実行はその逆です。わたしたちが規定を持つなら、直ちに分裂がやって来ます。わたしは集会の中で叫ぶことや声高い賛美を評価しますが、どの実行を主張することも、分裂をひき起こします。ですから、わたしたちは何の規定も持ってはならないのです。キリストが十字架につけられた時、すべての規定はそこに釘づけられ(コロサイ二・一四)、また廃棄されました。

両者を一つからだの中で神に和解させる
エペソ人への手紙第二章十六節は言います、「また十字架を通して、両者を一つからだの中で神に和解させるためでした.それによって敵意を殺してしまったのです」。「両者」は、ユダヤ人と異邦人のことを言います。無割礼の異邦人だけでなく、割礼のユダヤ人も、十字架上で成就されたキリストの贖いを通して、神に和解させられました。この一つからだ、すなわち召会(一・二三)は、第二章十五節で述べられた一人の新しい人です。この一つからだの中で、ユダヤ人と異邦人の両者は、十字架を通して神に和解させられました。わたしたち信者は、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、キリストのからだ「のため」だけでなく、キリストのからだ「の中で」も和解させられました。これは何という啓示でしょう!

わたしたちは普通、和解を個人的な事柄と考えます。わたしたちはあまり団体の和解を考えません。しかしながら、正しい真の和解は一つからだの中においてです。からだは、わたしたちを神に和解させる、手段、方法です。神の目には、わたしたちは一つからだの中で召され(コロサイ三・十五)、からだの中で彼に和解させられたのです。イスラエルの子たちのエジプトからの脱出が、これの明確な絵です。エジプトでイスラエルの子たちは、ある意味で、神から遠く離れていました。彼らはエジプトから連れ出され、共に紅海を通過した後、シナイ山で、全会衆が神に和解させられました。個人的に神と和解したのではありません。これは、わたしたちが一つからだの中で神に和解させられることの予表でした。わたしたちは今日、この団体の観念を持つ必要があります。自分は個人的に救われたと考えないでください。その反対に、わたしたちはみな共に救われ、一つからだの中で神に和解させられたのです。十字架を通して、キリストの血をもって、一つからだの中で、わたしたちは神に連れ戻されました。一つからだの中にいる限り、わたしたちは神と一です。

ですから、パウロはまず、エペソ人への手紙第二章十五節で十字架上のキリストの死は彼の肉体の中で規定を廃棄して、ご自身の中で一人の新しい人を創造されたと言ったのです。その後、十六節では、彼がこうすることによって、からだが生み出されたと言っています。新しい人が創造されるとすぐ、からだが出現しました。これに関して、十六節初めの「また」という言葉は意義深いです。それは、一つからだの中での和解の思想を、一人の新しい人の創造の思想と結び付けます。キリストがユダヤ人と異邦人の両者を一人の新しい人へと創造した時、彼らを一つからだの中で神に和解させられました。こういうわけで、パウロはからだの前に新しい人を述べたのです。

覚えておいてください。キリストは人を個人的に和解させたのではないのです。彼はユダヤ人と異邦人両者を、一つからだの中で和解させたのです。もし彼が個人の罪人を和解させただけであったなら、からだの中で彼らを和解させる必要はなかったでしょう。しかし二つの集団の人たちを和解させるために、彼はからだの中でそうしなければならなかったのです。ユダヤ人と異邦人はかつて分離されていましたが、彼らが神に和解させられるためには、用具としてからだが必要でした。キリストは両者を一人の新しい人へと創造した時、同時に彼らを一つからだの中で神に和解させました。彼らは新しい人へと創造された時、一つからだの中で神に和解させられることができました。それゆえに、一つからだは、彼らが神に和解させられる手段でした。

キリストはその霊として来て、
平和を福音として宣べ伝える
十七節は言います、「そして彼は来られて、遠く離れていたあなたがたに、平和を福音として宣べ伝え、また近くにいた人たちに、平和を宣べ伝えられました」。これは、キリストが死なれて復活され、その霊として来られて、平和を福音として宣べ伝えることです。この平和を、彼はご自身の十字架を通して達成されました。遠く離れていた者とは、無割礼の異邦人です。近くにいた人たちとは、割礼のユダヤ人です。十字架上で死に、規定を取り除いて新しい人を創造し、血を流してわたしたちを神に和解させられたキリストが、その霊としてわたしたちに来て、平和を福音として宣べ伝えられました。

両者は一つ霊の中で御父へと近づく
十八節は続けて言います、「それは、わたしたち両者がキリストを通して、一つ霊の中で、御父へと近づくことができるためです」。神に和解させられるとは、救われることです。御父へと近づくとは、神を享受することです。一つからだの中で、わたしたちは十字架を通して神に和解させられました。これは事実です。今やわたしたちは御父へと近づき、直接彼と接触を持つことができます。これは経験です。わたしたちは救いのために、地位的に神に和解させられました。そして享受のために、経験的に御父へと近づきます。パウロが、わたしたちは御父に和解させられ、神へと近づくと言っていないことは意義深いです。神との和解は一度限りであり、永遠にです。御父へと近づくことは、継続的な享受のためです。

神に和解させられた後、ユダヤ人と異邦人は享受のために御父へと近づく道を持つ必要がなおもありました。この近づく道は、からだの中にあるだけでなく、霊の中にもあります。からだの中にいることは事実ですが、霊の中にいることは経験です。わたしたちはからだの中にいますが、その霊の中にいないかもしれません。むしろ、わたしたちはさまよう思いの中にいるかもしれません。これは、わたしたちが霊の中に経験的にいる必要があることを説明します。霊の中にいる時、わたしたちは御父を享受します。わたしたちはからだの中にいることによって、事実上、神を持ちますが、経験の中で御父を享受しようとするなら、霊の中にいなければなりません。もし霊の中にいないなら、わたしたちはこの事実を享受することができません。ですから、わたしたちは地位的に所有しているものを経験的に享受するために、その霊の中にいる必要があるのです。

主は平安(彼ご自身)をわたしたちに与える
今日、キリストはすでに死なれ復活され、命を与える霊として来られました。ヨハネによる福音書第十四章二六節で主は言われました、「しかし慰め主、すなわち、父がわたしの名の中で遣わされる聖霊は、あなたがたにすべての事を教え、またわたしがあなたがたに言ったすべての事を思い起こさせてくださる」。ここで慰め主、聖霊が、御父によって御子の名の中で遣わされた命を与える霊であることを見ます。聖霊は御子の名の中で来て、彼の御名の実際となられます。この名は御子ご自身であり、その霊は御子のパースン、存在です。御子の名を呼び求める時、わたしたちはその霊を得ます(Ⅰコリント十二・三)。御子は御父の名の中で来られました(ヨハネ五・四三)。なぜなら、御子と御父は一であるからです(十・三〇)。その霊は御子の名の中で遣わされました。なぜなら、その霊と御子も一であるからです(Ⅱコリント三・十七)。これは、最終的にその霊としてわたしたちに届く三一の神――父、子、霊です。

ヨハネによる福音書第十四章二七節で主は言われました、「わたしは平安をあなたがたに残す.わたしの平安をあなたがたに与える.わたしがあなたがたに与えるのは、世の人が与えるようなものではない。あなたがたは心を騒がせてはならない.恐れてはならない」。ここに命の平安と世の平安とは異なっていることを見ます。この命の平安は主ご自身です。その当時、弟子たちは自分の命を失う危険を冒して、少なくとも生活の糧を失う危険を冒して主イエスに従いました。弟子たちが反対と迫害の恐れの下にあったので、主は彼らに、彼の中で平安を持つと告げられました。主は彼の平安を彼らに残されました。この命の平安はすべての悩みと恐怖に打ち勝ちました。同じように、わたしたちが主に従うとき、どんな反対、迫害、うわさ、悪名にもかかわらず、わたしたちの内側の主イエスは、わたしたちの命と平安です。今やわたしたちは主をわたしたちの命、平安として享受することができます。主を賛美します。彼はわたしたちにとってすべてです。彼はわたしたちの命、わたしたちの平安です。


記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」
第2期第4巻より引用