信仰、神の言葉、聖霊の導き

真理

ヘブル人への手紙第十一章一節は、「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていない事柄を確認することです」と言っています。これは、聖書の中で信仰について定義を与えている唯一の節です。この節はわたしたちに、信仰とは望んでいる事柄を実体化することであると、告げています。信仰は、望んでいる事柄を実際とします。

信仰は霊的事柄を実体化することである
ヘブル人への手紙第十一章一節には、本質を意味する、「実体化」という言葉が動詞形で用いられており、その本質を実際に実体化することを示し、また何かを実体化することをも示しています。これは、鼻がにおいを実際のものとし、目が色を実際のものとし、耳が音を実際のものとするようなものです。信仰だけが、霊的事柄を実際とすることができます。信仰とは霊的経験です。信仰がなければ、霊的経験はありません。人は目を持っているかもしれませんが、もし彼が目を閉じてしまうなら、この世界のすべての色は彼に見えなくなってしまいます。同じことが信仰についても言えます。わたしたちは信仰を活用しない時、霊的事柄を何も見ることができません。しかし、わたしたちが信仰によって霊的事柄をわたしたちにとって実際とならせる時、すべての霊的経験は実際となります。

多くの信者の祈りが決して神に届かないのは、彼らの祈りが信仰に欠けているからです。信仰から出て来る祈りだけが神に触れます。そして、これらの祈りだけが霊的事柄をもたらすのです。仮に、一人の人が三十年にわたって目が見えず、人生において一度も色を見たことがないとします。いったん彼の目が開かれるなら、彼は直ちに色を見るでしょう。主は、「わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である」(ヨハネ十五・五)と言われました。もしわたしたちがこの言葉を信じるなら、この言葉は直ちにわたしたちにとって実際となるでしょう。人が自分の目を用いて見るなら、物はそこに存在します。しかし、もし人が自分の目を用いて見ることをしないなら、物はそこに存在しないかのようです。同じことが霊的事柄についても言えます。信仰は霊的事柄を実体化します。

信仰は神の啓示を必要とする
信仰は、わたしたちが救われる時にすでにわたしたちに与えられています(Ⅱペテロ一・一)。これはちょうど、子供が二つの目を持って生まれると言うようなものです。もし人が見えないと言うなら、それは自分が見ないせいです。彼の目はあります。目は彼のものです。しかし彼は、見るか見ないかを選択することができます。同様に、わたしたちが救われるやいなや、信仰はわたしたちの中にあります。わたしたちが霊的事柄を得るかどうかは、わたしたちが信仰を活用するかどうかにかかっています。多くの人はすでに信仰を持っています。しかしながら、彼らは信仰を活用して信じることをしないのです。わたしたちは神に、わたしたちに啓示を示してくださるよう求める必要があります。神の啓示は、わたしたちの信仰を開くことができます。啓示とは、神がおおいを取り除いて、その背後にあるものをわたしたちに示すようなものです。もしわたしがおおいの背後に隠れるなら、わたしが何をしているかあなたにはわからないでしょう。しかしながら、もしあなたが信仰を持っているなら、それはまるであなたがおおいの向こうへ動いて、そのおおいの背後でわたしがしているすべてを見るようなものです。

わたしたちは信仰を持つ前、聖書の真理を漠然としか理解することができませんでした。わたしたちがそれらをはっきりと理解することができないのは、おおいがまだ取り除かれていないからです。しかしながら、わたしたちが信仰を持った後は、すべては実際となります。いったんわたしたちが信仰を持つなら、「今わたしはわかりました。なぜなら、おおいが取り除かれたからです」と言うことができます。かつては、わたしたちはある真理に関しておおいがかかっていたかもしれません。今やそのおおいは取り除かれ、すべてははっきりとしました。だれがおおいを取り除いたのでしょうか? 神が啓示を通してそれを取り除き、おおいの背後にあるすべての霊的事柄をわたしたちに実際としてくださったのです。

啓示に対して飢え渇く必要がある
神の啓示とは、神がおおいを取り除くことです。人は啓示を受けようとするなら、信じることに加えて、飢え渇かなければなりません。飢え渇いた心だけが、神の啓示を受けます。飢え渇いた心とは、死にもの狂いの心です。もしわたしたちが死にもの狂いであるなら、神の啓示が現れるやいなや、わたしたちはそれを見るでしょう。もしわたしたちがこの集会に単なる傍観者として来るなら、わたしたちは多くの教理を得て、これらの教理を明確に分析することさえできるかもしれませんが、わたしたちの分析は単なる分析にしかすぎないでしょう。それはわたしたちの啓示とはならないでしょう。教理は、わたしたちに見させることはできません。またわたしたちは何も得ないでしょう。神の側では、神は喜んでわたしたちに啓示を与えようとされます。しかし人の側では、わたしたちは飢え渇き、死にもの狂いにならなければなりません。もしわたしたちがこの態度を取るなら、御言葉を読んだり集会に来たりする時はいつも啓示を受けるでしょう。集会中、教えをノートに書き留めることは容易です。わたしたちの思いは知識で満たされるかもしれません。しかし、もしわたしたちの心が神に開かれていないなら、わたしたちはやはり何の啓示も受けないでしょう。もしわたしたちの心が主に対して開かれていないなら、わたしたちは何も得ないでしょう。わたしたちは主の御前でへりくだって祈り、言わなければなりません、「主よ、わたしを赦してください。わたしを砕いてください! わたしの心を開いてください!」。

わたしたちの信仰の大きさ
信仰には大きさがあります。神の御前でのそれぞれの人の信仰の大きさは異なっています。それはちょうど、杯や碗やコップの容量がみな異なっているのと同じです。ジョージ・ミューラーの信仰はとても大きいものでした。彼の度量はとても大きいものでした。そして神は彼を通して多くの事を行なわれました。しかしながら、信仰はすべての人において同じように完全なのです(Ⅱペテロ一・一)。神の目には、信仰の度量は、大きくもなるし小さくもなります。啓示は人に、見ることができるようにさせ、また信仰も与えます。信仰が啓示に加えられる時、わたしたちは実際を持ちます。コロサイ人への手紙第三章四節は言います、「わたしたちの命なるキリスト」。イエス・キリストがわたしたちの命となるためには、一方において神はこのことをわたしたちに啓示として示さなければならず、もう一方においてわたしたちはそれを信じなければなりません。

ピリピ人への手紙第二章十三節は言います、「神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたがたの内で活動する神だからです」。活動するのは神の責任です。願い働くのは、わたしたちの責任です。別の言い方をすれば、わたしたちに願わせ働かせるのは、神の責任です。造船所にある一万トンの船は、一人の女性がリボンを切りさえすれば、進水するのです。神のみこころは、一万トンの船のようなものです。わたしが願い働くやいなや、神の目的は実現します。

神がわたしたちに勝利を与えてくださったことを見ることができるかどうかもまた、わたしたちの信仰に関係しています。わたしたちが自分の罪は生きていることを見れば見るほど、また自分が罪人のかしらであることを認識すればするほど、さらにわたしたちは勝利を得ることで突破するでしょう。勝利とは、わたしたちが良い人へと変わることではありません。わたしは徹底的に望みのない罪人です。わたしは五十年たっても、依然として罪人でしょう。主は、わたしをさらに良い人へと変える意図は持っておられません。主はわたしに別の命を与えたいのです。主がわたしたちに与えてくださる勝利の命は、一つの交換です。それはわたしたち自身の命を変えることではありません。すべてのことは主によって達成されます。

正しい状況の下にあるなら、救いと勝利は同時に起こります。旧約において、イスラエルの人々は小羊の肉を食べるのと同じ日に、小羊の血を門柱とかもいに付けなければなりませんでした(出十二・六―十一)。小羊の血は救いのために付けられ、小羊の肉は力を得るために食べられました。わたしたちは、救いと力を同時に受けなければなりません。しかし、今日の多くのクリスチャンの状況は、不正常です。わたしたちが救われた日以来、主はわたしたちに勝利を賜わっています。何人かの兄弟姉妹は、わたしが勝利についてのメッセージをもっと早くすべきであったと言いました。わたしたちは救われた時に、勝利の命を受けたことを見る必要があります。今日わたしが語っている勝利の命とは、補習授業にすぎません。この学課は、わたしたちが救われているだけでなく、勝利を得ることができることも告げています。わたしたちが救われたその日から、主はすでに勝利の命をわたしたちに与えてくださいました。もしわたしたちの信仰が大きければ、神がわたしたちに与えてくださったものをさらに多く見ることができます。もしわたしたちの信仰が小さければ、神がわたしたちに与えてくださったものを少ししか見ることができません。

信仰とは、何か新しいものを得ることではありません。信仰とは、神がすでにわたしたちに与えてくださったものを見ることです。もしわたしたちに信仰がなければ、霊的事柄は依然として存在していても、それらは全く存在していないかのようになります。目は物を見ますが、目を閉じるやいなや、物は見えなくなります。物は依然として存在していますが、目にとって物はなくなってしまうのです。神の啓示はいつもありますが、人には信仰がないこともあり得るのです。わたしたちは啓示を持てば持つほど、さらに信仰を持ちます。わたしたちに啓示が少なければ少ないほど、信仰も少なくなります。わたしたちが主の啓示を見れば見るほど、さらにわたしたちは進歩します。見るのが少なければ少ないほど、わたしたちの進歩も少なくなります。

信仰は感覚によるのではなく、神の言葉による
信仰は、天然の理解力とは何の関係もありません。村の女性の多くは、大学教授よりも信仰を持っています。それは、人が知識を持っているかどうかの問題ではなく、人が生ける啓示を持っているかどうかの問題です。信仰は、強いて信じたことの結果としてやって来るものではありませんし、また人の感覚に基づくものでもありません。わたしたちの感覚は信頼できません。神の言葉だけが信頼できます。一人の少年が自分の感覚に基づいて、父が自分にボールを買ってくれるだろうと考えました。彼は自分の友人をたくさん家に招いて、期待しながら遊んでいました。父が帰ってきた時、ボールはありませんでした。なぜなら、父は息子にボールを買うことを約束しなかったからです。後で父は、息子にボールを買ってあげようと約束しました。父がそのような約束をした後は、子供はただ父の言葉を信じる必要があるだけでした。同様に、わたしたちは自分の感覚によって歩むべきでなく、あるいは自分がどのように感じるかによって神を裁くべきではありません。わたしたちは神の言葉に信頼すべきです。重要なのは、神が何か語られたかです。わたしたちが信じるやいなや、それはわたしたちのものです。

信仰と誘惑を区別する
どのようにすればわたしたちは、神から来る信仰とサタンから来る誘惑とを区別することができるでしょうか? かぎは、語られた言葉の源にあります。すなわち、それがサタンから来たものなのか、それとも神から来たものなのかです。サタンが主を誘惑した時、サタンも聖書から引用しました。サタンは主を宮の頂上から飛び降りさせようとしましたが、主はそうなさいませんでした。なぜなら、その言葉はサタンからの誘惑であったからです(マタイ四・五―七)。もし神が「あなたは飛び降りても構わない」と言われたのであれば、もっと高い宮からでもあなたは飛び降りることができます。これが信仰です。もし神があなたに飛び降りるようにと告げたのでないなら、宮がどんなに低くてもあなたは飛び降りるべきではありません。もしそうするなら、あなたは主を試みているのです。

聖霊の内なる導きに注意を払う
この節やあの節がわたしたちに対する主の言葉であると、どうしたらわかるのでしょうか? 救われたすべての人は、内側に住む聖霊を持っています。そして、すべての人は神の導きを知ることができます。新約の約束は次のようなものです、「わたしはわたしの律法を彼らの思いの中に分け与え、それを彼らの心に書き記す.わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そして、彼らはそれぞれ同じ国民に、またそれぞれ兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない.それは、小さな者から大きな者まで、彼らがみな、わたしを知るからである」(ヘブル八・十―十一)。かつてある人が一冊の本を書いて、人が霊、魂、体の三部分であることに反対しました。彼は、このような区別をする必要はないと考えました。しかし聖書は、人が三部分から成っていると告げていないとしても、わたしたちの中におられる聖霊は、霊、魂、体の区別があることをわたしたちに告げています。もし新約が旧約と同じであるなら、なぜ聖書は新約を必要とするのでしょうか? 旧約は人の外側に書き記されましたが、新約は心の中に書き記された書であり、わたしたちの内側の状況に触れるのです。実は、わたしたちの中へと書き記す方は、聖霊なのです。

今日、すべての人は神の御前に行って、神に要求して言うことができます、「わたしはあなたの小羊です。そして、小羊はあなたの声を聞きます。わたしに語ってください。わたしにあなたのみこころを知らせてください」(参照、ヨハネ十・二七使徒二二・十四)。ある物語によると、二人の人が一匹の小羊のことで争っていました。彼らはその事を裁判官の所に持っていきました。彼はその二人の人に、羊の名前を呼ぶようにと求めました。本当の主人が呼んだ時、羊は答えました。今日、わたしたちは内側に住んでいる聖霊を持っています。彼はわたしたちの主です。わたしたちは彼の内なる声をよく聞かなければなりません。わたしは、すべての人を神のみこころに関して明らかにさせることはできません。しかし、聖霊はわたしたちの中におられます。彼はわたしよりもずっと近くにおられます。彼はわたしたちの中におられます。彼はわたしたちを導くことができます。わたしたちはただ彼の御声を聞く必要があるだけです。

今日の召会の問題は、ただ聖書を調べることを知っているだけで、内側の聖霊に尋ねないことです。もしわたしたちが聖書の教えを持っているだけで、聖霊の内なる導きを持っていなければ、聖書はわたしたちにとって単なる死んだ文字となってしまうでしょう。「集会の生活」(ウオッチマン・ニー全集、第二二巻)という本が出版されていますが、問題はわたしたちが聖霊の導きを持っているかどうかということにあります。もしわたしたちが十戒を実行するように「集会の生活」を実行しようとして、内側の聖霊の導きに聞かないなら、わたしたちの集会はすべて死んでしまうでしょう。

ある時、わたしは一人の姉妹に会いました。彼女は他の人に盲従して、頭におおいをしていました。彼女は聖霊の導きにしたがっていたのではありません。ある兄弟が彼女に頭のおおいを取るようにと語りました。ある人はそれを見て、「なぜその姉妹に頭のおおいを取るよう告げたのか」と聞いてきました。わたしはその兄弟に、一つの質問をその姉妹に対してしてみるようにと告げました。それは、彼女が旧約の信者であるか、それとも新約の信者であるかということです。旧約の信者は、外面的な方法で従います。彼はただ外側の律法を守るだけです。しかし、わたしたち新約の信者は、内側に聖霊を持っています。わたしたちの生活は、聖霊の導きにしたがった歩みです。もしわたしたちが内側の聖霊の御声に聞き従わないなら、わたしたちは神に背いているのです。もし内側の聖霊がわたしたちに何かをするよう命じておられないのに、わたしたちがそれを行なうなら、わたしたちがどんなに良くその働きを行なったとしても、わたしたちは神の目に間違っているのです。

仮に、一人の兄弟がバプテスマされるのを願っているとします。もし彼がバプテスマするのが、単に聖書がそう言っているからだけであるなら、彼は間違っています。わたしたちは、聖霊によって聖書に従わなければなりません。外面の規則や人の決まりはすべて、律法です。わたしたちはすべての事を、聖霊の導きにしたがって行なわなければなりません。わたしたちのすべきことは、内なる導きに従うことです。もしわたしたちがだれかに、聖書がそう言っているからその事を行なうようにと告げるのなら、わたしたちは律法を実行しているのです。聖霊がまず人の中で働かれるのでなければ、人が外面で行なうすべてのことは、律法からのものです。聖霊の導きから出ていないものはすべて、律法の原則の中にあります。旧約の律法は、人の外側にあります。ところが、新約の聖霊は、人の内側にあります。

どうか主がわたしたちをあわれんでくださいますように。今日わたしたちが聖霊の働きをあまり多く見ないのは、わたしたちが彼を尊ばず、彼を知らないからです。もしわたしたちが彼を尊び、彼を知り、彼を尊重するなら、彼はわたしたちの間で偉大な事を行なうことができます。もしわたしたちが聖霊による確信を持って、ある事を行なうなら、たとえ全世界の人が否定したとしても、わたしたちは決して変わりません。どうかわたしたちすべてが、内なる導きに従い、内なる導きなしには何も行ないませんように。このようにして内なる導きに従うことが、真の服従なのです。このように服従する者だけが、神の語りかけを聞くでしょう。そしてそのような者たちだけが、すべての霊的事柄を実体化する信仰を持つでしょう。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第7巻より引用