今の時代の務めへと入る

真理

ヨナタンは、サウルとダビデの間、二つの務めの間に立っていたと言うことができます。彼の取るべき立場は、ダビデの務めに従うことでした。しかしヨナタンとサウルの務めの関係がとても深かったので、そこから離れることができませんでした。このようにヨナタンが彼の父親から離れなかったので、彼の父親と同じ運命をたどり、父親と共に戦場で死にました(サムエル上31:6)。ヨナタンは自分の父親に対する天然の愛情のゆえに、神のみこころに従ってダビデについて行きませんでした。ですから彼は良き地に対する正しく、十分な分け前の享受を失いました。わたしたちはみな、ヨナタンから、時代の務めに従うという学課を学ぶ必要があります。

務めとは何であるか?
聖書の中では、務め(ministry)と執事(minister)が語られており、両者にはそれぞれ指し示しているものがあります。務めとは、地上における主の働きを指し、執事とは、主の働きに負担を持つ人のことを指します。いつの時代にも、主が行なわれる働きというものがあります。エノクからノア、ノアからアブラハム、アブラハムからモーセ、モーセからヨシュアまで、それぞれの時代には、その時代に主が行ないたい働きがありました。新約になって、主イエスが来られ、彼の働きもありました。聖書の歴史によると、アダムが造られてからアブラハムの召しまでが二千年、アブラハムが召されてからイエスが十字架で死なれるまでがさらに二千年、使徒たちの時代は約百年でした。四千年以上にわたって、神がこの地上の人類の中で行動されてきたことは、どの時代にも神が働いてきたことの強力な証明です。その時代における主の働きは、その時代の務めです。

務めというこの言葉は、使徒パウロがコリント人への第二の手紙第三章の中で多く解釈しています。神の目から見るなら、全聖書には二種類の務めしかありません。一つは、旧約の務めと呼ばれ(Ⅱコリント三・七十四)、もう一つは新約の務めと呼ばれます。

旧約の務め
旧約には、さまざまな奉仕を記録した三十九冊の本があります。しかし、これらのさまざまな奉仕はそれぞれに異なる務めを構成してはいません。祭司、王、預言者は、みなそれぞれ異なった奉仕の中で、同じ一つの務めを担っていました。アロンやメルキゼデクを含む、ある人たちは祭司職の奉仕をしました。ダビデやソロモンを含む、ある人たちは王職の奉仕をしました。しかしながら、それらの種々の奉仕は、すべてその唯一の務めのためでした。同じ原則で、イザヤやヨナは預言者として奉仕しましたが、彼らは神の唯一の務めを果たしました。神は旧約において、二つの務めを持っておられたのではなく、ただ一つの務めを持っておられました。使徒パウロのコリント人への第二の手紙第三章の言葉によれば、それは確かに旧約の務めと呼ばれるものでした。

旧約は来たるべき新約のための一つの備えでした。旧約には、新約のエコノミーの準備のための務めがあります。旧約の務めは影、予表であり、新約の務めはその成就です。旧約で起こった事は、新約の務めの中で起こる事の影です。ですから、新約の務めは旧約の務めのまさに成就であるのです。実際には、これら二つの務めは一つです。それはちょうど、聖書が旧約と新約という二つの部分、区分から成っているのと同じです。神には二冊の聖書はありません。彼はただ旧約と新約の二つの区分から成る一冊の聖書を持っているだけです。同様に、神の務めも実際には一つですが、二つの区分(古い区分と新しい区分)があります。

新約の務め
旧約の務めの絵図を成就する新約は、バプテスマのヨハネにおいて始まりました。続いて主イエス、次に十二弟子、そして使徒行伝から啓示録の他の多くの人たちがいます。

新約の務めはバプテスマのヨハネにおいて開始されました。しかし、わたしたちは彼の務めを分けられた、単独の務めと見なすべきではありません。バプテスマのヨハネの務めは確かに新約の務めの一部でした。それは新約の務めの奉仕であり、しかも新約の最初の奉仕でした。ヨハネの悔い改めの務めは、旧約と新約の境界を分けるものであり、その務めは神のエコノミーにおける境界標でした。しかしながら、ヨハネの務めは新約の務めを分けられた、単独の、個人的な務めであると考えるべきではありません。もしあなたがそのような考えを持っているなら、あなたは福音書においてヨハネの弟子と呼ばれている者となってしまいます。

マタイによる福音書第九章で、ヨハネの弟子たちは主イエスに尋ねました。彼らの問題はパリサイ人と彼ら自身を結びつけるものでした(十四節)。それまでは、パリサイ人は一つの分派でした。しかしこの時に、ヨハネの弟子たちがもう一つの分派になってしまいました。このことからわかるように、ヨハネが宣べ伝えを始めてから、おそらく二、三年の内に、彼の奉仕は問題を起こし、主の務めと競うようになりました。

神はヨハネの務めが別の務めになってしまうことを、意図されませんでした。神の意図では、ヨハネの奉仕は新約の務めのほんの始まりであり、主の務めを推薦するための奉仕にすぎなかったのです。ヨハネは彼の務めが何であるかをわたしたちにはっきり語っていたのですが(ヨハネ一・二三二八―三〇)、彼の弟子たちはそれを間違えて理解しました。彼らは、バプテスマのヨハネは自分たちの偉大なる教師であり、彼の教えは唯一の教えであると思い込んでいました。彼らはバプテスマのヨハネと彼の教えに従いました。おそらく、彼らは故意にではなく、無意識的に主の務めと張り合うようになりました。やがて、その宣べ伝えは主の務めに置き換わるものとなりました。

ヨハネに起こったことで、わたしたちは神がすべてを支配する方であることを信じなければなりません。わたしたちはどうして神はヨハネが獄に入れられ、その後、首を切られるのを許されたのか、考える必要があります(マタイ十四・三)。ヨハネに起こったことは人をもう一つの務めへと引き入れました。ですから神は主権をもって、その当時のヨハネの務めを終わらせました。もちろん、それは良い、積極的な終わりではありませんでした。

バプテスマのヨハネ以後、主イエスは新約の務めを引き継がれ、その務めを徹底して遂行されました。使徒行伝の第一章で、主が昇天された後、十二使徒の一人であるペテロは主に祈りました。使徒たちと共にイエスの復活の証し人となる人を主が選び、ユダが放棄した「この務め」と使徒職の地位を継がせるようにと主に求めました(一・二二二五)。十二使徒が受けた務めは、主イエスが三一の神であり、神の御子として肉体と成って人となり、地上で三十三年半、人の生活をされ、最終的には神の定められた御旨と、予知にしたがって、十字架に釘づけられ、死なれ、三日後に復活させられたことを証しすることです。復活において、彼はご自身を使徒たちと弟子たちに現されて、彼らにご自身を福音として人の住む全地に宣べ伝えるようにと命じられました。

コリント人への第二の手紙で、パウロは新約の務め、その霊の務めについて語っています(三・八―九)。ここでの務めは、ペテロが使徒行伝第一章で語った務めよりもさらに大きなものです。ペテロによって語られた務めの中で、わたしたちが十二使徒において見ることは、肉体と成り、人の生活を経過し、死んで、復活した主イエスから受けた務めだけです。言い換えると、彼らの務めは、この神・人をすべての諸国民に宣べ伝え、彼らにどのように彼が肉体と成り、人の生活のさまざまな過程を経過し、死んで、復活して世の救い主となったかを告げることでした。これが、ペテロが受けた務めです。このような務めは召会には触れていません。ただキリストについてのみ語っています。すなわち、どのように永遠の神が人となり、死と復活を経過し、復活の中で主またキリストとなったかについてのみ語っています。これが、十二使徒が受けた務めであり、それは新約の務めの前半の部分です。後に、パウロがコリント人への第二の手紙でこの務めについて語った時、さらに多くのものが含まれていました。その中にはペテロが語っている務めとその霊が含まれており、彼らが受けたキリストを、選ばれ、贖われ、義とされた者たちに適用して、彼らをキリストの肢体とならせ、キリストのからだ、すなわち召会へと構成するというものです。これが新約の務めです。

コリント人への第二の手紙第四章一節でパウロは言います、「わたしたちはあわれみを得て、この務めを受けたのです」。ここの「わたしたち」は奉仕者たち、すなわち、使徒たちを指しています。「この務め」は単数形であり、唯一無二のものであり、バプテスマのヨハネ、主イエス、十二使徒、彼らの導きの下にある他の弟子たち、パウロと彼の使徒仲間、彼らの導きの下にいるすべての者たち、その中にはわたしもあなたも含まれています。これが新約の務めです。

使徒の教えと新約の務めの導き
エペソ人への手紙第四章十一節から十二節は言います、「そして彼ご自身は、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧する者また教える者として与えられました.それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり」。「その務めの働きへと」と「キリストのからだの建造へと」は同格であり、後者が前者を指していることを意味します。これはその務めの働きがキリストのからだの建造のためであることを意味します。使徒、預言者、伝道者、牧する者また教える者など、すべては聖徒を成就するためです。こういうわけで、これら二つの人々の群れは(賜物のある者たちと成就されつつある聖徒たち)、その務めの働きのためであり、またキリストのからだの建造のためです。今日わたしたちは一つの務めを遂行しており、それはキリストのからだを建造することです。問題はわたしたちが何にしたがって行なうかということです。今日、わたしたちは使徒たちの教えにしたがってキリストのからだを建造すべきです(使徒二・四二)。すなわち新約聖書全体にしたがって、新約の務めを行ないます。

何世紀にもわたって、新約の務めにおけるリーダーシップの問題はクリスチャンの間で、討論され、議論に議論が重ねられてきました。すべての人が、だれが新約の務めにおいてリードを取るべきかということを議論してきました。カトリックは、ペテロが主イエスの後継者であったので、彼がリードを取るべきであると言います。彼らはまたローマ法王がペテロの後を継いだと主張します。彼らはペテロが最初のローマ法王であったと主張します。こういうわけで、ローマ法王がリードを取るべきであると言うのです。カトリックの中にいる者たちが問題に遭遇するときはいつでも、彼らの決定は聖書ではなく、法王の語ることに基づいています。

マルチン・ルターによって開始された宗教改革は、信仰による義認を回復し、ローマ法王の頭首権を覆しました。ルター派において、疑いもなくルターは指導者であると考えられていました。もう一方で、バプテスト派はどんな人によって導かれているのでもなく、バプテスマの教えによって導かれています。もしあなたがバプテスト派の伝道者であるなら、あなたのメッセージ、語ること、行なうことはすべてこのバプテスマの教えによります。他の宗派についても、ある人たちは個人を彼らのかしらとし、他の人たちはいわゆる彼らの信仰を彼らのかしらとします。

新約の記録によれば、ペテロは最初にリードを取っていましたが、ガラテヤ人への手紙第二章十一節から十四節において、ペテロがアンテオケに来た時、彼に罪定めされるべきことがあったので、パウロは彼に面と向かって抗議しました。パウロは、ペテロの過ちが明白であることを知っていました。神は、ペテロを導く者として立てられましたが、彼の導きは偽りを装っていました。このことは、ペテロが「法王」、リーダーではないことを証明しています。

では新約の務めにおいて、だれがリードを取っているのでしょうか? 使徒たちの教えがリードを取っているのです。ペテロが叱責された時、実は叱責したのはパウロではありませんでした。新約における実質的な教えがペテロを叱責したのです。もしある人が福音の真理の標準にしたがって行なわないなら、この行動は福音の真理を破壊し、違犯するものです。ですから、福音の真理がリードを取っているのであって、ペテロがリードしているのではありませんでした。

パウロを例にとれば、ある人たちはパウロが同労者たちの群れを導いたときに、すべては彼の指示の下にあったと言うかもしれません。これは完全に間違ってはいませんが、もしわたしたちが聖書における記録を注意深く考察するなら、わたしたちは、パウロが彼の同労者たちに指示していたことを示す明確な節を見いだすことはできません。彼はテモテに手紙を書いて言いました、「急いでわたしの所へ来るように努めてください.……わたしがトロアスのカルポの所に置いてきた外套を持って来てください.それから巻物、特に羊皮紙のものを持って来てください」(Ⅱテモテ四・九十三)。しかし、コリント人への第一の手紙の終わりで、パウロは、アポロがコリント人の信者を慰めに行くことを望みましたが、アポロは協力的ではありませんでした。このことに関してパウロは言いました、「わたしたちの兄弟アポロのことですが、兄弟たちと共にあなたがたの所へ行くようにと、わたしはたびたび熱心に勧めてみました.しかし今のところ、彼には行く気持ちが全くありません.しかし機会があれば、彼は行くでしょう」(十六・十二)。この事例がわたしたちに見せていることは、人を遣わすことにおいてパウロは固持することはなく、兄弟たちに完全な自由を与えました。このことは、同労者たちが働きを行なうときに、だれにでも聖霊の中の自由があるということの大きな証明です。あなたや、わたしの考え方では、今日の法王が語るのと同じように、パウロがリードを取っていたと考えるでしょう。しかしこのような理解は不正確です。法王がもし下の司教に対して「あなたはコリントを訪問しなさい」と言うなら、どの司教がアポロと同じように、「今は絶対に行きません。しばらくして機会があるなら行きます」と言えるでしょうか。ですからこのことは、パウロがそこで同労者に命じて遣わしていたのではないことを証明しています。

しかしながら、真理を語る事柄において、彼は断固としていました。テモテへの第一の手紙第一章で、パウロはテモテに告げました、「わたしがマケドニアへ出発する時あなたに勧めたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人たちが異なる事を教え……ることがないように命じなさい」(三節)。パウロの思想によれば、わたしたちは信仰の中にある神のエコノミーだけを語るべきです。すなわち、わたしたちは使徒たちの教えだけを語るべきです。このゆえに、わたしたちは、新約においてリードを取ったのは使徒たちの教えであって、個人としてのパウロではないという結論を出します。使徒たちの教え、神のエコノミーの真理、信仰、教えが新約の務めにおいてリードを取ったのです。

わたしたちは認識しなければなりませんが、わたしたちが取っている道は人の組織の道ではなく、新約における使徒の教えに従う道です。あらゆることは、使徒の教え、神の新約エコノミー、神の新約の中の信仰であり、わたしたちをリードします。

今の時代の主の務めへと入る
主の回復にはただ一つの務め、新約の務めがあります。すなわち、主イエスが十二人の使徒に託され、それからパウロとその同労者に託されたものです。神の新約の中のエコノミーの務めは唯一のものであり、すべての奉仕者(執事たち)は同じ一つの務めにあずからなければなりません。この務めは、唯一の務めであり、その霊の務めであり、義とする務めであり(Ⅱコリント三・八―九)、この務めは使徒の教えにしたがったものであり、イエスの証しであり、手順を経て究極的に完成されたキリストであり、彼の信者へと供給されます。この務めは少数の賜物のある人の務めだけではなく、すべての成就された聖徒の務めでもあります。人であるならクリスチャンであるべきであり、クリスチャンであるならこの時代における主の唯一の働きに入るべきであるということを、主がわたしたちの目を開いて見せてくださいますように。

記事は日本福音書房発行「ミニストリーダイジェスト」第6期第6巻より引用

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